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第16話 「ありがとう、ごめん」

その日は、朝から雨だった。


強くはない。

けれど、止む気もない雨だった。

店の前の石畳はずっと濡れたままで、軒先から落ちる雫が、同じ場所に小さな輪をつくり続けている。


晋一は入口近くの傘立てを少し端へ寄せた。

濡れた空気が店の中まで入り込んで、木の匂いを少し重くしている。


「今日は静かですね」

言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。

「雨の日は、言葉が混ざりやすいので」

「混ざる」

「ひとつに決めきれないことがあります」

晋一は少し笑った。

「今日は最初から答えっぽいですね」

「違いましたか」

「まだ何も起きてないでしょう」

「起きる前から、残っていることもあります」


晋一は小さく息をついた。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。

濡れた傘をきちんとたたんでから、静かに会釈をする。

薄いグレーのカーディガンに、紺のスカート。

派手さはないが、どこかやわらかい印象の人だった。

ただ、そのやわらかさの奥に、長く言葉にできなかったものが沈んでいるように見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


女性は勧められるまま椅子に座った。

膝の上に置いた手が、少しだけ落ち着かない。


「こういうところ、初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「ひとつに決まっていない言葉もありますから」


女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「母のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「もう、亡くなっていて」

「そうですか」

「二年前です」

女性は言った。

「長く介護をしていました」

「はい」

「最後まで、家で」

そこで少し間が空く。

「それで、たぶん」

視線を落とす。

「ひとつじゃなかったんです」


榊は黙って聞いている。


「母が亡くなったとき」

女性は続ける。

「泣いたんですけど」

少し困ったように笑う。

「悲しかったからだけじゃなかった気がして」

「……」

「終わった、って思ってしまったんです」

その言い方に、自分で傷ついている響きがあった。

「やっと終わった、って」

晋一は何も言わなかった。


「ひどいですよね」

女性は言う。

「そんなふうに思うなんて」

「……」

「でも、本当にそう思ってしまって」

そこで言葉が切れる。

「ありがとう、って言いたかったんです」

少し間を置く。

「でも、ごめん、もあって」

榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少しほどける香りにしましょう」

「ほどける」

「結び目のままでは、見えないことがあります」


火が入る。

香りは静かに立った。

甘さはほとんどない。

乾いた花びらを指で崩したときみたいな、やわらかくて、少しだけ苦い匂いだった。

ひとつの香りなのに、近づくたびに違うものが混じっている気がした。


女性は目を閉じた。


見えたのは、古い台所だった。


まだ若い母親が立っている。

忙しそうに鍋を見ながら、子どもに声をかけている。

娘は小学生くらいで、食卓に宿題を広げている。


「あとで見てあげるから」

「うん」

「先にこれ食べなさい」

「にんじん嫌い」

「だめ」

そんなやりとりが、何でもない顔で続いていく。


場面が変わる。


娘は大人になっている。

母も年を取っている。

物忘れが少しずつ増えている。

同じことを何度も聞く。

火を消したか忘れる。

財布をしまった場所がわからなくなる。


最初は笑っていた。

「また?」

「さっき言ったでしょ」

そんなふうに返していた。


でも、だんだん笑えなくなる。


仕事の帰りに実家へ寄る。

冷蔵庫の中を確認する。

薬を分ける。

洗濯物をたたむ。

母は「悪いねえ」と言う。

そのたびに「いいよ」と返す。


本当に、そう思っていた日もある。


また場面が変わる。


夜だった。

母が同じことを何度も聞く。


「今日は何曜日?」

「火曜日」

少しして、また。

「今日は何曜日?」

「火曜日だよ」

また少しして。

「今日は」

「火曜日だってば!」


声が強くなる。


母は黙る。

驚いたような、しょんぼりしたような顔をする。

その顔を見た瞬間、しまったと思う。

でも、もう遅い。


「ごめん」

そう言う。

母は少し笑って、

「いいのよ」

と言う。


その「いいのよ」が、かえって苦しい。


場面がまた変わる。


介護は長く続く。

できることが減っていく。

食べること、着替えること、歩くこと。

ひとつずつ、手が必要になる。


娘は疲れている。

母も疲れている。

やさしくしたい日ばかりではない。

早く寝てほしい日もある。

少し黙っていてほしい日もある。

ひとりになりたい日もある。


それでも、母が眠ったあと、

布団をかけ直しながら思う。


この人は、ずっと私の母だった。

私が何もできなかったころ、

この人がやってくれていたことを、

今、少し返しているだけなのかもしれない。


ありがとう、と思う。


でも同時に、

もっとやさしくできたはずだ、とも思う。


ごめん、もある。


場面が変わる。


最後の数日だった。


母はもう、はっきりとは話せない。

目を開けている時間も短い。

娘は枕元に座って、濡らしたガーゼで唇を湿らせる。

何か言おうとして、やめる。


ありがとう。


ごめん。


どちらも違う気がする。

どちらも本当な気がする。


ひとつに決めると、もうひとつが置いていかれる。


結局、その日は何も言えなかった。


また明日でいいと思った。

明日もたぶん、少しは話せると思った。


でも、その明日は来なかった。


場面が飛ぶ。


葬儀のあと、家に戻る。

静かすぎる部屋。

使わなくなった湯呑み。

畳んだままのパジャマ。

いつも座っていた場所。


ようやく終わった、と思う。

その瞬間、ひどくほっとしている自分に気づく。


そのことに、すぐあとから罪悪感が来る。


終わってよかったと思った。

そう思ってしまった。

そんな自分が嫌になる。


でも、嫌になりながら、

ありがとう、も消えない。


育ててもらったこと。

待っていてくれたこと。

何度も許してくれたこと。

名前を呼んでくれたこと。


その全部に、ありがとう、がある。


でも、

疲れた顔を見せたこと。

強い声を出したこと。

早く終わってほしいと思った夜があったこと。

最後まできれいな気持ちではいられなかったこと。


そこには、ごめん、がある。


どちらかひとつでは足りない。


ありがとう。

ごめん。


そのふたつが、ずっと胸の中で離れない。


「見えましたか」


榊の声で、女性は目を開けた。

目元は少し赤い。

けれど、泣き崩れるというより、長く抱えていたものの形をようやく見た人の顔だった。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


女性はすぐには答えなかった。

それから、少し息をついて言う。


「ありがとう、です」

少し間を置く。

「でも」

視線を落とす。

「ごめん、もです」

榊は黙っている。

「どっちかにした方がいい気がしてたんです」

女性は少し笑った。

「きれいなのは、ありがとう、ですよね」

「……」

「でも、それだけじゃ嘘になる気がして」

「はい」

「ごめん、だけでも違うんです」

そこで言葉が止まる。

「両方あったんです」


しばらく沈黙があった。


「感謝と謝罪は」

榊が言う。

「はい」

「ときどき、同じ場所から出ます」

女性は顔を上げる。

「同じ場所」

「ええ」

「大事だったからこそ、足りなかったことも残るのでしょう」


女性は何も言わなかった。

その言葉を、すぐには飲み込めない顔をしていた。


「ひとつに決めなくてもいいんでしょうか」

女性がぽつりと言う。

榊は静かにうなずく。

「整理されていないままの気持ちもあります」

「……」

「むしろ、その方が自然なこともある」


女性は目を伏せた。

泣くわけではない。

ただ、長く無理に並べようとしていたものを、少し崩してもいいと許されたような顔だった。


「母が亡くなったとき」

女性が言う。

「ほっとしたんです」

「はい」

「それが、ずっと嫌でした」

「ええ」

「でも、疲れていたんですよね」

その言い方は、誰かに確認するというより、自分で触れてみるようだった。

榊は答える。

「そうかもしれません」

「ありがとう、だけじゃ足りないし」

「はい」

「ごめん、だけでも足りない」

「ええ」

「……そういうものなんですね」

榊は何も足さなかった。


帰る前に、女性は深く頭を下げた。


「来てよかったです」

「そうですか」

「ちゃんとしたひと言にしなきゃいけないと思っていたので」

少し笑う。

「そうでもなかったみたいです」


戸が閉まり、店の中にまた雨の音が戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「ひと言じゃないこともあるんですね」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「この店、そういうのもありなんだ」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「最初から、言葉の数は決まっていません」

「……」

「決めたがるのは、たいてい残された方です」


晋一は湯呑みに手を伸ばした。

熱が、少し遅れて掌に伝わる。


店の奥に目をやる。

今日は暗さより、気配の方が近かった。

棚の向こうで、誰かが何かを探しているような気がする。

物音はしない。

でも、そこに手が伸びたような感じだけがある。


目を凝らす。

次の瞬間には、何もない。


「また見えましたか」

榊が言う。


晋一はそちらを見る。

「最近、普通に聞きますね」

「普通ではないので」

「じゃあ何なんですか」

榊は少しだけ目を伏せた。

「言葉にならなかったものが、奥に溜まることがあります」

晋一は眉をひそめる。

「それ、冗談じゃないですよね」

「たぶん」

「たぶんって」

榊はそれ以上言わなかった。


雨はまだ止まない。

同じ場所に落ちる雫の音を聞きながら、

晋一は、気持ちはきれいに並ばなくてもいいのかもしれないと思った。


ありがとう、と、ごめん。

どちらも本当で、

どちらかひとつにすると、こぼれるものがある。


そういうものを、この店は拾っているのかもしれなかった。


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