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第17話 「忘れない」

その日は、店の奥から先に匂いがした。


まだ火も入れていない。

棚も、香皿も、いつもと同じ場所にある。

それなのに、店のいちばん奥、壁の向こうにでも何かがあるみたいに、かすかな香りだけが先に漂っていた。


晋一は入口で足を止めた。

甘くはない。

懐かしいとも少し違う。

雨上がりの土に、古い紙を混ぜたような、乾いているのに沈む匂いだった。


「……今日、何か焚いてます?」

帳場の奥にいる榊に聞く。


榊は顔を上げたが、すぐには答えなかった。

「まだです」

「でも、匂いしますよ」

「そういう日もあります」

晋一は眉をひそめる。

「最近それで済ませすぎじゃないですか」

「済んでいないから、残っているのでしょう」

「意味わかんないです」

「わからないままで構いません」


晋一は小さく息をついた。

けれど、その日はそれ以上言えなかった。

店の奥の匂いが、いつもよりはっきりしていたからだ。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、七十代くらいの男性だった。

背筋は伸びている。

紺のジャケットに、きれいに磨かれた靴。

きちんとした人だった。

けれど、その整い方の奥に、長く崩さずに持ってきたものがあるように見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


男性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

膝の上に置いた帽子を、両手で静かに押さえている。


「こういうところは初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですが」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「残っているものの方が、先に形を持つこともあります」


男性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「妻のことです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「まだ、生きています」

「そうですか」

「施設にいます」

男性は言った。

「認知症で」

店の中の空気が、少しだけ深くなる。


「もう、私のことがわからない日もあります」

男性は続ける。

「わかる日も、たまにあるんですが」

「はい」

「その、たまに、にすがっているのかもしれません」

少し笑う。

笑ったというより、口元がそう動いただけだった。

「でも」

そこで言葉が止まる。

「忘れない、と」

視線を落とす。

「言えなかったんです」


榊は黙って聞いている。


「妻が忘れていくのに」

男性は言う。

「私が忘れないなんて言って、何になるんだろうと思って」

「……」

「きれいごとみたいで」

「はい」

「それに」

そこで少し間が空く。

「忘れないこと自体が、最近は少し怖いんです」


晋一は何も言わなかった。


榊は香皿を引き寄せた。

その手つきが、いつもよりほんの少しだけ遅かった。


「今日は、深い香りにしましょう」

「深い」

「底まで沈まないと、見えないことがあります」


火が入る。

香りは静かに立った。

最初はほとんどわからない。

けれど、吸い込むと、古い木の匂いの奥に、干した布や紙の匂いが重なっている。

どこかの家の押し入れの奥を開けたときみたいな、しまわれた時間の匂いだった。


男性は目を閉じた。


見えたのは、若いころの台所だった。


まだ新しい食器棚。

窓から入る午後の光。

妻が流しの前に立っている。

振り向いて、何か言う。

声までは聞こえない。

でも、その顔だけで、何を言ったのかだいたいわかる。

たぶん、醤油を取って、とか、味見して、とか、そんなことだ。


夫は新聞をたたんで立ち上がる。

その何でもなさが、妙にまぶしい。


場面が変わる。


小さな子どもがいる。

娘か、息子か、あるいは両方か。

食卓が少し騒がしい。

妻が笑いながら叱っている。

夫は味噌汁をこぼしそうになった子どもの茶碗を支える。


何でもない夜だった。

何でもないのに、ちゃんと家だった。


また場面が変わる。


もっと年を取っている。

子どもたちはもう家にいない。

夫婦ふたりの食卓。

会話は多くない。

でも、少ないことに慣れている。


妻が言う。

「今日、スーパーでね」

その先は曖昧だ。

特売の話だったか、近所の誰かに会った話だったか。

夫は「へえ」と返す。

ちゃんと聞いていた日もあるし、半分しか聞いていなかった日もある。


それでも、妻は話す。

夫もそこにいる。

そういう時間が、何年も続いていた。


場面が少し曇る。


妻が同じことを二度言う。

夫は最初、気づかない。

三度目で、あれ、と思う。


「それ、さっきも聞いたよ」

妻は少し困ったように笑う。

「そうだった?」

「うん」

「やだねえ」

そのときは、まだ笑っていられた。


また場面が変わる。


冷蔵庫の中に、同じ豆腐が三つある。

財布が見つからないと騒ぐ。

火を消したか何度も確かめる。

病院へ行く。

検査を受ける。

医師の説明を聞く。


夫は隣でうなずいている。

妻も、うなずいている。

でも、どこまで本当にわかっていたのかはわからない。


帰り道、妻が言う。

「私、変になっちゃうのかな」

夫はすぐに答えられない。

「そんなことないよ」

と言った気がする。

でも、その声は少し浮いていた。


場面がまた変わる。


施設の面会室だった。


妻は椅子に座って、窓の外を見ている。

夫が入っていく。

妻は顔を上げる。

その目に、一瞬だけ見覚えが宿る。


「あら」

妻が言う。

「来てくれたの」

夫は笑う。

「来るよ」

「そう」

妻も少し笑う。


その日は、まだわかっていた。

夫の名前も言えた。

昔の話も少しした。

帰り際、妻が手を振った。


次の面会の日。

妻は夫を見ても、少し首をかしげる。

職員の人だと思ったのかもしれない。

親戚だと思ったのかもしれない。

あるいは、誰とも思わなかったのかもしれない。


夫は名乗る。

妻は「ああ」と言う。

でも、その「ああ」が本当に思い出した「ああ」なのか、

合わせただけの「ああ」なのか、わからない。


わからないまま、時間が過ぎる。


それでも通う。

花を持っていく日もある。

好きだった菓子を持っていく日もある。

食べられないこともある。

話しかけても、返事がない日もある。


帰り道、夫は思う。


忘れない。


その言葉が胸の中に浮かぶ。


でも、言えない。


妻は忘れていく。

自分のことも、子どものことも、家のことも。

その前で、私が忘れないと言って、何になるのか。


それに、本当は少し怖い。


忘れないということは、

元気だったころの妻を、

笑っていた顔を、

怒った顔を、

台所に立つ背中を、

少しずつ失っていく今の姿と並べて持ち続けることだ。


それはやさしいだけではない。

苦しい。

ときどき、残酷だ。


忘れない、なんて、

きれいな言葉みたいに言えない。


場面が飛ぶ。


夜の部屋。

夫はひとりで古いアルバムを開いている。

若い妻が笑っている。

海辺。

運動会。

台所。

旅行先の駅前。

どの写真にも、もう戻れない時間がある。


忘れたくない。

でも、見ていると苦しい。

苦しいから閉じる。

閉じても、残る。


施設で、妻が自分を見てもわからなかった日の顔が浮かぶ。

その顔と、写真の中の笑顔が、同じ人のものだと知っているのは自分だけだ。


忘れない。


言いたいのに、言えない。


忘れないことは、約束ではない。

祈りでもない。

もっと重くて、もっと個人的で、

ときどき自分を傷つけるものだ。


それでも、手放したくない。


「見えましたか」


榊の声で、男性は目を開けた。

目元は赤い。

けれど、泣くより先に、何かを耐えている人の顔だった。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


男性はすぐには答えなかった。

それから、静かに言う。


「忘れない、です」

榊は黙っている。

「でも」

男性は視線を落とす。

「そんなことを言っても、妻には届かない気がして」

「……」

「私が勝手に抱えるだけの言葉でしょう」

少し息をつく。

「それに、忘れないって」

そこで言葉が止まる。

「きれいすぎる気がして」


しばらく沈黙があった。


「忘れないことは」

榊が言う。

「はい」

「やさしいだけではありません」

男性が顔を上げる。

「……」

「残り続けることでもあります」

「ええ」

「消えないからこそ、苦しいこともある」


男性は何も言わなかった。

その言葉を、待っていたようにも見えた。


「妻が忘れていくのに」

男性がぽつりと言う。

「私だけが覚えているのは、ずるい気もするんです」

榊はすぐには答えなかった。

「そうかもしれません」

「……」

「でも、覚えている人がいなくなることを、恐れる気持ちもあるのでしょう」

男性は目を伏せた。

「はい」

「家のことも」

「ええ」

「妻がいた時間も」

「はい」

「全部、薄くなっていく気がして」

そこで言葉が切れる。


榊は香炉のそばに置いた指を、ほんの少しだけ止めた。

晋一はその動きを見た。

ほんの一瞬だった。

でも、榊が言葉を選び損ねたように見えたのは、初めてだった。


「忘れない、は」

榊がゆっくり言う。

「相手のためだけの言葉ではないのかもしれません」

男性が顔を上げる。

「……」

「自分が、そこにあった時間を手放さないための言葉でもある」

店の奥の匂いが、少しだけ濃くなった気がした。

「だから」

榊はそこで、ごくわずかに目を伏せた。

「苦しいのでしょう」


男性は長く息を吐いた。

泣くわけではない。

けれど、ずっと胸の奥で固まっていたものに、ようやく名前が触れたような顔だった。


「言わなくても」

男性が言う。

「思っていていいんでしょうか」

榊は静かにうなずく。

「ええ」

「届かなくても」

「はい」

「苦しくても」

少し間が空く。

「残しておきたいなら」


男性は目を閉じた。

それから、小さくうなずいた。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「忘れない、なんて」

男性は少し笑った。

「もっときれいな言葉だと思っていました」

「……」

「そうでもなかったみたいです」

榊は何も足さなかった。


戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「忘れないって」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「もっと、やさしい言葉だと思ってました」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「やさしいことと、楽なことは違います」

「……」

「残す方が苦しいこともあります」


晋一は湯呑みに手を伸ばした。

熱が、少し遅れて掌に伝わる。


店の奥を見る。

今日は、暗いというより深かった。

棚の向こうに、部屋がもうひとつあるような気がする。

見えないはずの奥行きが、そこにだけある。


その奥で、誰かが振り向いた気がした。


晋一は息を止める。

輪郭は見えない。

ただ、気配だけがある。

香りだけが、そこから流れてくる。


「……今」

言いかけると、榊が静かに言った。


「見なくていいものもあります」


晋一はそちらを見る。

榊はいつもの顔をしていた。

けれど、その横顔だけが、ほんの少し硬かった。


「榊さん」

呼ぶと、榊は答えない。

答えないまま、店の奥へ一度だけ目をやる。

その視線は、客を見るときのものではなかった。

もっと古いものを見る目だった。


次の瞬間には、もう戻っている。


「今日は、もう閉めましょう」

榊が言う。

「え、まだ早くないですか」

「そういう日です」


晋一は何も言えなかった。


外に出ると、空気は冷えていた。

日はまだ落ちきっていないのに、路地だけが少し暗い。


忘れないことは、きれいなことではないのかもしれない。

残り続けること。

消えないこと。

手放せないこと。


それでも、人は何かを忘れたくないと思う。

忘れていく相手のそばでさえ、

覚えている側は、覚えていたいと願ってしまう。


その願いが、やさしさだけでできていないことを、

今日はじめて知った気がした。


そして、この店もまた、

忘れられなかったものを置いておく場所なのかもしれないと、

晋一はふと思った。


でも、その先はまだ、考えないことにした。


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