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第18話 「またね」

その日は、夕方の光が長く伸びていた。


店の前の路地に差し込んだ西日が、棚の脚や椅子の影を細く引いている。

明るいのに、どこか終わりに近い色だった。

昼と夜のあいだにだけある、少し頼りない時間だった。


晋一は入口近くのガラスを布で拭きながら、外を見た。

風はない。

人通りも少ない。

静かというより、何かを言いそびれたあとのような空気だった。


「今日は、明るいですね」

言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。

「終わりが見えない日は、明るいことがあります」

晋一は苦笑した。

「それ、わかったようなわからないような」

「たいてい、そういうものです」

「便利ですね」

「不便な説明よりは」


晋一は小さく息をついた。

でも、そのやりとりが少しだけ懐かしく感じた。

この店のわからなさにも、前より慣れてしまっている。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、三十代後半くらいの女性だった。

白いシャツに、薄いカーキの上着。

髪は肩のあたりで切りそろえられている。

整った顔立ちだったが、その整い方の奥に、長く置き場所のなかったものがあるように見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


女性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

膝の上に置いた鞄の持ち手を、指で静かに撫でている。


「こういうところ、初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「軽い言葉ほど、あとから重くなることもあります」


女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「友だちのことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「もう、会えません」

「そうですか」

「五年前に」

女性は言った。

「事故で」

それ以上は続けなかった。

それで十分だった。


「最後に会った日のことが」

女性は続ける。

「ずっと残っていて」

「はい」

「大した話じゃないんです」

少し困ったように笑う。

「喧嘩したとか、ひどいことを言ったとか、そういうんじゃない」

「ええ」

「ただ」

視線を落とす。

「またね、って言ったんです」

店の中が、少しだけ静かになった気がした。


榊は黙って聞いている。


「それだけなんです」

女性は言う。

「本当に、それだけ」

「……」

「でも、そのあと」

そこで言葉が止まる。

「会えなかった」


榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し明るい香りにしましょう」

「明るい」

「終わりを知らない言葉には、光が残ることがあります」


火が入る。

香りはやわらかく立った。

甘すぎない花の匂いに、乾いた草のような軽さが混じっている。

春の終わりの風みたいな、通り過ぎるのに、なぜかあとに残る香りだった。


女性は目を閉じた。


見えたのは、駅前の小さな広場だった。


夕方。

人が行き交っている。

友人が笑っている。

手には紙袋を持っている。

買い物の帰りだったのか、仕事のあとだったのか、細かいことは曖昧だ。

でも、その日の空気だけは残っている。


ふたりは立ち話をしている。

長い話ではない。

今度ごはん行こうとか、

あの店まだあるかなとか、

そんな、すぐに忘れてしまいそうな話だった。


友人はよく笑う人だった。

大きな声ではない。

でも、笑うとその場が少しやわらかくなる。

女性はその笑い方が好きだった。


場面が少し動く。


学生のころのふたりがいる。

教室の隅で、どうでもいい話をしている。

試験のこと。

先生の癖。

好きだった歌。

将来のことなんて、ほとんど本気では話していない。


また場面が変わる。


社会人になってからも、ときどき会っていた。

頻繁ではない。

でも、会えばすぐに戻れる相手だった。

毎日連絡を取るわけではない。

誕生日を忘れる年もある。

それでも、切れた感じはしない。

そういう友だちだった。


また駅前に戻る。


その日も、特別な日ではなかった。


「じゃあ、また連絡する」

「うん」

「今度はちゃんと店決めて」

「そっちが決めてよ」

「えー」

そんなふうに笑う。


別れ際、女性は手を軽く上げて言う。


「またね」


友人も、同じように手を上げる。

「またね」


それだけだった。


そのあとに、次があると思っていた。

次のごはん。

次の季節。

次のどうでもいい話。


だから、その言葉は軽かった。

軽く言えた。

軽く言えたのは、雑だったからじゃない。

続きがあると思っていたからだ。


場面が飛ぶ。


数日後、連絡が来る。

最初は意味がわからない。

聞き返す。

聞き返しても、言葉の形が変わらない。


そこから先のことは、あまりはっきりしない。


誰と会ったか。

何を言ったか。

どこで泣いたか。


ただ、最後に見た友人の笑った顔と、

最後に言った自分の声だけが、

妙にはっきり残っている。


またね。


もっと別のことを言えばよかった、と思ったこともある。


気をつけて、とか。

元気でね、とか。

今度ほんとに行こうね、とか。


でも、たぶん違う。


本当に残っているのは、

軽かったことへの後悔じゃない。


また会えると思っていたことだ。


その信じ方ごと、言葉の中に入っていた。

だから、今も消えない。


またね、は約束というより、

次があることを疑っていない人の言葉だった。


やさしい言葉だったのだと思う。

何も知らなかったからこその、

無防備なやさしさだったのかもしれない。


それでも、残る。


場面がまた変わる。


夜の部屋。

女性はひとりでスマートフォンを見ている。

友人とのやりとりは、途中で止まっている。

次に送るはずだった店の候補も、

返すはずだったスタンプも、

もう使い道がない。


またね。


その短い言葉のあとに、

本当は何も続かなかったわけではない。

自分の中では、ずっと続いてしまっている。


会えなかった次の季節。

話せなかった近況。

渡せなかった土産話。

全部、その言葉のあとにぶら下がっている。


「見えましたか」


榊の声で、女性は目を開けた。

目元は少し赤い。

けれど、泣き崩れるというより、長く持っていたものをようやく置き直した人の顔だった。


「はい」

「何が残っていましたか」


女性は少し黙ってから言った。


「またね、です」

榊は黙っている。

「ずっと、軽すぎた気がしてたんです」

「……」

「最後の言葉が、それでよかったのかなって」

視線を落とす。

「もっと大事そうなことを言えばよかったのかもしれないって」

しばらく沈黙があった。


「またね、は」

榊が言う。

「はい」

「軽い言葉かもしれません」

女性は少し顔をこわばらせる。

「でも」

榊は続ける。

「軽く言えるのは、次があると思っているからでしょう」

女性は何も言わなかった。


「終わりを知らない言葉です」

「……」

「だから、残るのかもしれません」


女性は目を伏せた。

泣くわけではない。

ただ、その言葉を責める必要はないのかもしれないと、

少しだけ思えたような顔だった。


「私」

女性がぽつりと言う。

「ずっと、雑だったのかなって思ってたんです」

「はい」

「でも、そうじゃなくて」

少し息をつく。

「また会えると思ってたんですよね」

榊は静かにうなずく。

「ええ」

「それって」

女性は言葉を探すように少し黙る。

「悪いことじゃ、ないですよね」

「はい」

「知らなかっただけで」

「ええ」

「信じていたのでしょう」


女性は小さくうなずいた。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「最後の言葉を、ずっと責めていたので」

少し笑う。

「少し違ったみたいです」


戸が閉まり、店の中にまた夕方の光が戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「またね、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「ずいぶん無責任な言葉にも見えるのに」

そこで少し止まる。

「やさしいんですね」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「続くと思っている言葉ですから」

「……」

「終わりを知らないまま言えるのは、残酷でもありますが」

少し間を置く。

「信じていた、ということでもあります」


晋一は湯呑みに手を伸ばした。

熱が、少し遅れて掌に伝わる。


店の奥を見る。

今日は、気配が遠かった。

暗さも、匂いも、少し引いている。

けれど、何もなくなったわけではない。

ただ、奥にしまわれたように感じた。


あの時から続いていた、あの見えない奥行き。

言葉にならなかったものが溜まる場所。

忘れられなかったものが残る場所。


それがまだそこにあることだけは、もうわかる。


「榊さん」

晋一が言う。

「はい」

「この店って」

そこで止まる。

何を聞けばいいのか、自分でもわからなかった。


榊は少しだけ目を上げる。

「全部わかると、困ることもあります」

「……」

「わからないまま、持って帰れるものもあるのでしょう」


晋一は苦笑した。

「最後までそれなんですね」

「たぶん」

「たぶん多いなあ」

榊はそれ以上言わなかった。


外に出ると、空はまだ少し明るかった。

夜になる手前の、名前のつけにくい色が路地に残っている。


またね。


軽い言葉だと思っていた。

でも、その軽さは、次があると信じていた軽さだったのかもしれない。


終わりを知らないまま交わした言葉は、

ときどき残酷で、

でも、たぶんそれだけではない。


そう思いながら、晋一はゆっくり歩いた。


振り返ると、店の暖簾が夕方の光の中で静かに揺れていた。

奥は見えない。

見えないままでいい気もした。


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