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言えなかったひと言―消えずに残る、あの言葉―  作者: 冬馬美沙
第4章 晋一と父、晋一と元妻
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19/30

第19話 「来てくれて」

その日は、朝から空が低かった。


雨は降っていない。

けれど、雲が近いせいか、町全体が少しだけ狭く見える。

病院の帰り道、晋一は父の少し前を歩きながら、何を話せばいいのかわからずにいた。


通院の付き添いなんて、したくてしているわけじゃない。

妹に頼まれたから来ただけだ。

そう思っていたし、実際その通りでもあった。


父は昔から、病院が嫌いだった。

待たされるのが嫌いで、説明されるのも嫌いで、年寄り扱いされるのはもっと嫌いだった。

今日も診察のあいだ、ずっと機嫌が悪かった。

医師の言葉にうなずきながら、半分も聞いていない顔をしていたし、

会計を待つあいだも、椅子に深く座って黙り込んでいた。


「別にひとりで来れたのに」

病院を出てすぐ、父はそう言った。

晋一は前を向いたまま答える。

「じゃあ次からそうして」

「そういう言い方しかできないのか」

「そっちが先に言ったんだろ」

父はそれきり黙った。


昔からこうだった。

何か言えば、すぐに角が立つ。

黙っていても、何かが残る。

会話というより、小さな衝突を避けながら歩いている感じだった。


駅までの道は、平日の昼間らしく人が少なかった。

商店街のシャッターが半分閉まり、八百屋の前にだけ少し人がいる。

父は少し足が遅くなっていた。

晋一は気づいていたが、振り返って確かめるほど素直にもなれなかった。


信号で立ち止まる。

そのとき、不意に父が言った。


「……来てくれて」


晋一は一瞬、聞き取れなかった。


「何」

振り返ると、父は信号の向こうを見たまま、もうこちらを見ていない。

「いや」

「今、何て」

父は少しだけ眉を寄せた。

「別に」

「……」

「来てくれて、助かった」

その言い方は、ぶっきらぼうだった。

礼を言い慣れていない人間の声だった。


晋一は何も返せなかった。


青になった信号を渡りながら、

胸のどこかが妙に落ち着かなかった。


責められる方がまだましだった。

文句を言われるなら、こっちも言い返せる。

でも、感謝されると困る。

そんなふうに言われる筋合いがない気もするし、

そんなふうに言われるほどのことをした覚えもない。


それに、

父からそういう言葉を受け取る場所が、自分の中にうまく見つからなかった。


駅で別れるときも、晋一は結局、

「じゃあ」

としか言えなかった。

父も「おう」とだけ返した。


その短いやりとりの中に、

さっきの「来てくれて」が、うまくしまえないまま残っていた。


店に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。


暖簾をくぐると、いつもの香木の匂いがした。

それだけで少し息がしやすくなるのが、最近は少し癪だった。


「遅かったですね」

帳場の奥から榊が言う。

「病院」

晋一は短く答える。

「そうですか」

「親父の付き添い」

榊はそれ以上聞かなかった。

聞かれない方が、かえって話しにくい。


「……礼、言われました」

晋一は靴を脱ぎながら言った。

榊が顔を上げる。

「珍しいですね」

「そうなんですよ」

晋一は苦笑した。

「珍しいから、余計困る」

「困る」

「なんか」

言葉を探す。

「うまく受け取れないんです」

榊は少しだけ目を伏せた。

「感謝されることに、慣れていない人もいます」

「した方じゃなくて?」

「された方も」


晋一は返事をしなかった。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、七十代半ばくらいの男性だった。

小柄で、背中が少し丸い。

杖はついていないが、歩幅は慎重だった。

灰色のカーディガンをきちんと着て、手には古びた帽子を持っている。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


男性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

座ってからも、帽子のつばを指で何度もなぞっている。


「こういうところは初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですが」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「受け取れなかった言葉が、残ることもあります」


男性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「見舞いに来てくれた人のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「妻が入院していたときで」

「はい」

「近所の人が、何度も来てくれたんです」

男性は言った。

「果物を持ってきたり、洗濯物を届けてくれたり」

「そうですか」

「ありがたかったんです」

そこで少し間が空く。

「でも、ちゃんと礼が言えなかった」


榊は黙って聞いている。


「妻のことで頭がいっぱいで」

男性は続ける。

「来てくれるたびに、ああどうも、くらいしか言えなくて」

「……」

「退院したらちゃんとお礼しようと思ってたんです」

視線を落とす。

「でも、退院できなかった」

店の中が、少しだけ静かになった気がした。


「それからしばらくして」

男性は言う。

「近所のその人も、引っ越してしまって」

「はい」

「今さら、あのときはありがとうございました、なんて」

少し苦く笑う。

「遅いでしょう」

榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し薄い香りにしましょう」

「薄い」

「受け取り損ねたものは、強くすると壊れることがあります」


火が入る。

香りは静かに立った。

ほとんど気づかないくらい淡い。

けれど、吸い込むと、乾いた紙と白い花の匂いがかすかに混じっている。

病室の窓辺に置かれた花瓶の水みたいな、澄んでいるのに少し心細い香りだった。


男性は目を閉じた。


見えたのは、病室だった。


白いカーテン。

昼の光。

ベッドに横たわる妻。

痩せてはいるが、まだ笑う力は残っている。


近所の女性が入ってくる。

紙袋を提げている。

「これ、よかったら」

果物だったか、ゼリーだったか。

細かいことは曖昧だ。

でも、その人が来ると、病室の空気が少しだけやわらいだ。


「いつもすみません」

妻が言う。

「何言ってるの」

女性は笑う。

「こんなの、ついでよ」

夫も横で頭を下げる。

「どうも」

それだけ言う。


本当はもっと言いたかった。

助かっています、とか。

ありがたいです、とか。

来てくれると妻がうれしそうで、とか。


でも、病室ではいつも少し気が張っていた。

妻の顔色。

医師の言葉。

次の検査。

帰ったあとの洗濯。

考えることが多すぎて、

感謝の言葉をちゃんと形にする前に、その人はいつも帰っていった。


場面が変わる。


雨の日だった。

女性が濡れた傘をたたみながら入ってくる。

「今日は顔だけ見に来たの」

妻は笑う。

夫も「どうも」と言う。

また、それだけだ。


場面がまた変わる。


夜の病室。

妻が眠っている。

夫は椅子に座っている。

昼間のことを思い出す。


ちゃんと礼を言えばよかった。

でも、次でいい。

また来るだろう。

そのときに言えばいい。


そう思う。


また今度。

退院したら。

落ち着いたら。


その“あとで”が、少しずつ積もっていく。


場面が飛ぶ。


妻は退院しなかった。


葬儀が終わり、

家の中が急に静かになる。

近所の人たちが手伝ってくれる。

あの女性も来ていた気がする。

でも、そのときも、ちゃんと礼を言えたか覚えていない。


ただ、何かが終わったあとには、

言葉を差し出す場所そのものがなくなっていた。


しばらくして、その人が引っ越すと聞く。

挨拶に行こうかと思う。

菓子折りでも持って。

でも、行けない。


今さら、あのときはありがとうございました、なんて。

遅すぎる気がした。

それに、そんなことを言ったら、

妻がもういないことまで、改めて口に出すことになる気がした。


だから、行かなかった。


行かなかったまま、

感謝だけが残った。


来てくれて、ありがたかった。

助かっていた。

あの病室に、あの人が来てくれるだけで、

少しだけ普通の時間が戻ってきていた。


そのことを、ちゃんと渡せなかった。


「見えましたか」


榊の声で、男性は目を開けた。

目元は少し赤い。

けれど、泣くというより、長く胸の奥に置いていたものを見つけた人の顔だった。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


男性は少し黙ってから言った。


「来てくれて、ありがとうございました」

榊は黙っている。

「それだけなんです」

男性は少し笑った。

「それだけなのに」

視線を落とす。

「言えなかった」

「どうして」

「そのときは、余裕がなかったんでしょうね」

少し息をつく。

「あとで言えばいいと思っていた」

「……」

「でも、あとで言えることばかりじゃないんですね」


しばらく沈黙があった。


「感謝は」

榊が言う。

「はい」

「受け取る側にも、差し出す側にも、少し体力が要ります」

男性は顔を上げる。

「体力」

「ええ」

「弱っているときほど、うまく渡せないことがあります」


男性は何も言わなかった。

その言葉を、少し意外そうに聞いていた。


「礼を言えなかったことと」

榊が続ける。

「感謝していなかったことは、別です」

男性の目がわずかに動く。

「……」

「来てくれて、助かっていたのでしょう」

「はい」

「そのことは、残っていていい」


男性は小さくうなずいた。


「今さらでも」

男性がぽつりと言う。

「思っていて、いいんでしょうか」

榊は静かに答える。

「ええ」

「伝えられなくても」

「はい」

「遅くても」

少し間を置く。

「感謝だったことは、変わりません」


男性は長く息を吐いた。

それは諦めというより、ようやく胸の奥の形に触れた人の息だった。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「礼を言えなかったことばかり考えていました」

少し笑う。

「でも、ありがたかったことまで消えるわけじゃないんですね」


戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「感謝されるのって」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「なんか、落ち着かないですね」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「受け取る場所がないと、そうでしょう」

「……」

「でも、なかったわけではないのかもしれません」

晋一は顔をしかめる。

「どっちですか」

「まだ、うまく見つからないだけかもしれません」


晋一は返事をしなかった。


父の「来てくれて」が、また胸の中に浮かぶ。

助かった、とまで言っていた。

あの父が。

それを、どうしてこんなにうまく受け取れないのか、自分でもわからない。


責められるより、ずっと困る。

感謝されると、何かを返さなければいけない気がする。

でも、返せる言葉が見つからない。


店の奥に目をやる。

今日は暗くない。

けれど、棚の向こうに、誰かが立ち止まってこちらを見ているような気がした。

気のせいだと思うには、少しだけ近い。


目を凝らす。

次の瞬間には、何もない。


「またですか」

榊が言う。


晋一はそちらを見る。

「最近、普通に流しますね」

「慣れてきましたか」

「慣れたくないです」

榊は少しだけ笑ったように見えた。

「そうですか」


外に出ると、空はまだ低かった。

雨は降っていないのに、どこか濡れたような匂いがする。


来てくれて。


たったそれだけの言葉が、

どうしてこんなに居場所を取るのか。


晋一は答えの出ないまま、ゆっくり歩いた。

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