第20話 「もういい」
その日の店は、昼を過ぎても少し寒かった。
季節のせいというほどではない。
戸は閉まっているし、風も入っていない。
それなのに、店の奥の方だけ、日陰がそのまま温度を持っているみたいに冷えていた。
晋一は湯呑みを片づけながら、奥を見た。
最近は、見ても仕方がないと思うようにしている。
何かが見えそうで見えないことにも、
榊が説明しないことにも、
少しずつ慣れてしまっている自分が、あまり好きではなかった。
「寒いですね」
言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。
「終わったことにしたい日は、冷えることがあります」
晋一は顔をしかめる。
「またそれですか」
「違いましたか」
「まだ何も起きてないでしょう」
「起きる前から、残っていることもあります」
晋一は小さく息をついた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
父からだった。
出るか迷って、少し遅れて通話を取る。
「もしもし」
『おまえ、この前もらった紙、どこにやった』
開口一番、それだった。
病院でもらった次回の検査の案内だと、すぐにわかった。
「知らないよ。そっちで置いたんでしょ」
『置いたけど見当たらん』
「机の上とか見た?」
『見た』
「じゃあ引き出し」
『ない』
声がだんだん苛立ってくる。
晋一もつられて、口調が硬くなる。
「ちゃんと探したの」
『探したから言ってるんだろ』
「じゃあ知らないよ」
『おまえ、持って帰ったんじゃないのか』
「持って帰るわけないだろ」
『でも、おまえが最後に触ってた』
「だからって何で俺が」
そこで言葉が強くなる。
「人のせいにすんなよ」
少し沈黙があった。
向こうの息遣いだけが聞こえる。
『……もういい』
父が言った。
低い声だった。
怒っているようにも、
投げたようにも聞こえた。
晋一の胸の奥が、少しだけざらつく。
「何それ」
『もういい』
「よくないだろ」
『いいって言ってる』
「そっちからかけてきたんだろ」
『もういい、切るぞ』
「勝手にしろよ」
言った瞬間、少し遅れて後悔が来た。
でも、その後悔より早く、通話は切れていた。
画面が暗くなる。
晋一はしばらく、そのまま立っていた。
「喧嘩ですか」
榊が言う。
晋一は顔を上げる。
「聞いてたんですか」
「少し」
「最悪だ」
そう言って、スマートフォンをポケットにしまう。
「紙がないとかで」
「そうですか」
「最後に、もういい、って」
晋一は苦く笑った。
「全然よくないのに」
榊は何も言わなかった。
戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。
入ってきたのは、四十代半ばくらいの女性だった。
黒に近い紺のコートを着て、髪は後ろでひとつにまとめている。
きちんとした印象の人だったが、その整い方の奥に、長く引っかかったままのものがあるように見えた。
「いらっしゃいませ」
榊が声をかける。
女性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。
座ってからも、鞄の持ち手を指で何度か握り直している。
「こういうところ、初めてで」
「はい」
「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」
「わからないままで構いません」
榊が言う。
「終わらせた言葉ほど、残ることがあります」
女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
「弟のことなんです」
晋一は手を止めた。
榊は静かにうなずく。
「もう、会っていません」
「そうですか」
「七年前に、別れたきりです」
女性は言った。
「喧嘩して」
「はい」
「最後に、もういい、って言ってしまったんです」
店の中が、少しだけ静かになった気がした。
「大したことじゃなかったんです」
女性は続ける。
「最初は」
少し苦く笑う。
「母の介護をどうするか、とか、お金をどうするか、とか」
「……」
「たぶん、どこの家にもあるようなことです」
視線を落とす。
「でも、その日はお互いに余裕がなくて」
そこで言葉が止まる。
「私が、もういい、って」
榊は黙って聞いている。
「本当は」
女性は言う。
「もうよくなんか、なかったんです」
「……」
「終わらせたかったわけじゃない」
少し息をつく。
「でも、あれ以上言ったら、もっとひどいことを言いそうで」
「はい」
「だから切ったんです」
そこで小さく笑う。
「切ったつもりだったんですけどね」
その笑いは、すぐに消えた。
「本当に切れてしまった」
榊は香皿を引き寄せた。
「今日は、少し乾いた香りにしましょう」
「乾いた」
「言葉が先に閉じることがあります」
火が入る。
香りは静かに立った。
木の匂いの奥に、乾いた葉を折ったときみたいな、かすかな苦さがある。
湿り気を失った手紙のような、触れれば崩れそうなのに形だけは残っている香りだった。
女性は目を閉じた。
見えたのは、実家の台所だった。
夕方。
鍋が火にかかっている。
母はまだ元気だったころかもしれないし、少し弱っていたころかもしれない。
細かい順番は曖昧だ。
でも、弟が冷蔵庫の前に立って、何かを探している。
姉は食卓に書類を広げている。
「これ、どうするの」
弟が言う。
「あとで見る」
「あとでじゃ困るだろ」
「今やってるから」
そんなやりとりが、最初はまだ普通に続いている。
場面が少し動く。
母の通院。
介護保険の書類。
実家の片づけ。
仕事の都合。
誰がどこまでやるのか。
どちらかが悪いわけではない。
弟にも生活がある。
姉にも生活がある。
でも、どちらも自分の方が多く背負っている気がしてくる。
「そっちばっかり大変みたいに言わないで」
弟が言う。
「言ってないでしょ」
「言ってるのと同じだよ」
「じゃあ、もっと来ればいいじゃない」
「行けるときは行ってる」
「足りないって言ってるの」
声が強くなる。
また場面が変わる。
夜の電話だった。
母のことで、また話している。
同じことを何度も繰り返している気がする。
どちらも疲れている。
どちらも、自分の方が限界に近いと思っている。
弟が何か言う。
たぶん、責めるつもりだけではなかった。
でも、その言い方が、姉には責められているように聞こえる。
「じゃあ、どうしろっていうの」
「そういうことじゃなくて」
「もう無理なんだって」
「俺だって無理だよ」
「じゃあ何」
「少し落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ」
沈黙。
その沈黙に耐えきれなくなって、
姉は言う。
「……もういい」
弟が黙る。
「何それ」
「もういい」
「よくないだろ」
「いいの」
「よくないって」
「もういいから」
その言葉は、終わらせるための言葉だった。
でも、本当は終わらせたいわけじゃなかった。
これ以上言えば、もっと傷つける。
これ以上聞けば、自分も壊れる。
だから、そこで閉じたかった。
でも、閉じた言葉は、
ときどき扉ごと閉めてしまう。
弟は最後に何か言った。
でも、もう覚えていない。
自分が先に電話を切ったのか、
向こうが切ったのかも曖昧だ。
ただ、
もういい、
という自分の声だけが、妙にはっきり残っている。
場面が飛ぶ。
そのあと、母のことがあって、
葬儀があって、
連絡は必要な分だけ取ったのかもしれない。
でも、元には戻らなかった。
弟は遠くへ引っ越した。
会おうと思えば会えたのかもしれない。
でも、何をきっかけにすればいいのかわからなかった。
もういい。
あの言葉は、
諦めだったのか、
拒絶だったのか、
助けを求める代わりだったのか、
今でもわからない。
ただ、本当は、
もうよくなんかなかった。
終わらせたかったわけでもない。
やめたかったのは、喧嘩の方だった。
痛い言葉の応酬の方だった。
でも、うまく言えなかった。
「見えましたか」
榊の声で、女性は目を開けた。
目元は少し赤い。
けれど、泣くというより、長く引っかかっていた言葉の形をようやく見た人の顔だった。
「はい」
「何を言えなかったのですか」
女性は少し黙ってから言った。
「もういい、です」
榊は黙っている。
「でも」
女性は視線を落とす。
「本当は、もうよくなかった」
「……」
「終わりたかったわけじゃないんです」
少し息をつく。
「ただ、あのときは止めたかった」
「何を」
「喧嘩を」
その答えは、すぐに出た。
「これ以上、ひどくなるのを」
榊は静かにうなずいた。
「終わらせる言葉は」
榊が言う。
「はい」
「終わらせたいものと、終わらせたくないものを、よく間違えます」
女性は顔を上げる。
「……」
「あなたが止めたかったのは、関係ではなく、その場の痛みだったのでしょう」
女性は何も言わなかった。
その言葉を、少し遅れて受け取るような顔をしていた。
「でも、結果的には」
女性がぽつりと言う。
「関係の方が止まってしまった」
「そうかもしれません」
榊の声は静かだった。
「だからといって」
少し間を置く。
「あのとき終わらせたかったものまで、嘘になるわけではありません」
女性は目を伏せた。
泣くわけではない。
ただ、自分の言葉が全部冷たさだけでできていたわけではないと、
少しだけ思えたような顔だった。
「今さら」
女性が言う。
「連絡しても、変ですよね」
榊はすぐには答えなかった。
「変かどうかは、相手が決めることでしょう」
「……」
「ただ」
榊は続ける。
「もういい、のあとに残っていたものがあるなら」
女性が顔を上げる。
「それは、なかったことにはしなくていい」
女性は長く息を吐いた。
帰る前に、深く頭を下げる。
「来てよかったです」
「そうですか」
「ずっと、あの言葉だけが悪かった気がしていました」
少し笑う。
「でも、たぶん、それだけじゃなかったんですね」
戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。
晋一はしばらく黙っていた。
榊も何も言わない。
「もういい、って」
晋一がぽつりと言う。
「はい」
「全然よくないときに言う言葉ですね」
榊は香炉の灰を静かにならした。
「ええ」
「じゃあ、何で言うんですかね」
少し間が空く。
「そこから先を、持ちこたえられないからかもしれません」
晋一は返事をしなかった。
父の声が、また胸の中に浮かぶ。
もういい。
あれは怒っていたのか。
呆れていたのか。
それとも、これ以上言えば余計こじれると思って切ったのか。
自分だって最後に、
勝手にしろよ、
と言った。
終わらせたかったわけじゃない。
でも、止めたかった。
あの嫌な感じを。
昔から少しも変わらない、父との会話の詰まり方を。
店の奥に目をやる。
今日は暗さが少し近い。
棚の向こうに、閉じた扉みたいなものがある気がした。
もちろん、そんなものはない。
ないはずなのに、そこだけ空気が止まって見える。
「……榊さん」
「はい」
「終わらせたくないのに、終わる言葉って」
そこで止まる。
榊は少しだけ目を伏せた。
「あります」
「厄介ですね」
「ええ」
「すごく」
榊はそれ以上言わなかった。
外に出ると、空気はまだ少し冷えていた。
日は落ちきっていないのに、路地の奥だけ先に暗い。
もういい。
そう言ったあとに残るものの方が、
たぶん本当は重いのだと、
晋一は歩きながら思った。




