第21話「あの時は」
その日は、昼の光がやけに白かった。
晴れているのに、あたたかさが薄い。
店の前の路地も、向かいの壁も、少しだけ色を抜かれたみたいに見えた。
何かが始まるというより、昔のことが急に近づいてくる日に似ていた。
晋一は昼の買い出しを頼まれて、店の外を歩いていた。
紙袋の中には茶葉と、頼まれた包み紙と、ついでに自分用のコーヒーが入っている。
大した距離ではない。
でも、店を少し離れるだけで、あの場所の空気がどれだけ独特なのか、逆にわかる気がした。
商店街の角を曲がったところで、前から来た人とすれ違いかける。
その瞬間、相手も足を止めた。
「あ」
声が重なる。
元妻だった。
晋一は一瞬、誰かわからなかった。
いや、わからなかったというより、
わかるまでの一拍を、頭が受け入れたくなかった。
髪が少し短くなっていた。
前より落ち着いた色の服を着ている。
でも、立ち止まったときに少しだけ肩が上がる癖は、変わっていなかった。
「……久しぶり」
彼女が言う。
「うん」
晋一はそれしか返せない。
「元気だった?」
「まあ」
「そっか」
それだけで、会話が少し止まる。
劇的な再会ではなかった。
音楽も鳴らないし、時間が止まるわけでもない。
ただ、昔よく知っていた人が、今はもう自分の生活の外にいるという事実だけが、
妙にはっきりそこにあった。
「このへん、来るんだ」
晋一が言う。
「たまにね」
彼女は小さく笑った。
「仕事先が近い日があって」
「へえ」
「晋一は?」
「店の使い」
「店?」
「ああ、今ちょっと手伝ってるとこがあって」
「そうなんだ」
また少し沈黙が落ちる。
何か言わなければと思う。
でも、何を言えばいいのかわからない。
元気そうでよかった、も少し違う。
今どうしてる、も踏み込みすぎる気がする。
ごめん、は急すぎる。
何に対してなのかも、ひとつではない。
口を開いて、晋一は結局こう言った。
「……あの時は」
彼女が少しだけ目を上げる。
「あの時は、なんか」
その先が続かない。
言い訳にも、謝罪にも、説明にもなりきらない。
「いろいろ」
自分でもひどいと思う。
そんな言葉しか出てこないのかと。
でも、彼女は少しだけ困ったように笑って、
「うん」
と言った。
「私も」
それ以上は続かなかった。
その「私も」が、
何を含んでいたのかはわからない。
別れたときのことか。
その前から積もっていたことか。
言えなかったこと全部か。
「じゃあ」
彼女が言う。
「うん」
「また」
その言葉は、言いかけて少しだけ止まり、
結局「元気で」に変わった。
「晋一も」
「そっちも」
それで終わった。
すれ違って、数歩歩いてから振り返りたくなった。
でも振り返らなかった。
振り返ったところで、何かが変わる気もしなかった。
店に戻る道で、
晋一はさっきの「あの時は」を何度も頭の中で言い直した。
もっとましな言い方があった気がする。
でも、何がましかはわからない。
謝ればよかったのか。
説明すればよかったのか。
何も言わない方がよかったのか。
どれも違う気がした。
店に戻ると、榊が帳場の奥で顔を上げた。
「遅かったですね」
「……人に会って」
晋一は紙袋を置く。
「そうですか」
「元妻」
榊は少しだけ目を細めたが、驚いた顔はしなかった。
「偶然?」
「うん」
「何か言えましたか」
晋一は苦く笑った。
「全然」
「そうですか」
「“あの時は”って言った」
榊は黙っている。
「最悪ですよね」
「曖昧ですね」
「ですよね」
晋一はため息をついた。
「でも、それしか出なかった」
戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。
入ってきたのは、五十代くらいの男性だった。
背広ではないが、きちんとしたシャツに濃い色の上着を着ている。
姿勢のいい人だったが、その整い方の奥に、長く持ち歩いてきた言葉があるように見えた。
「いらっしゃいませ」
榊が声をかける。
男性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。
座ってからも、膝の上で指先を軽く組み直している。
「こういうところは初めてで」
「はい」
「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですが」
「わからないままで構いません」
榊が言う。
「遅れてしか出てこない言葉もあります」
男性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
「先生のことなんです」
晋一は手を止めた。
榊は静かにうなずく。
「高校のときの恩師で」
「はい」
「もう亡くなっています」
男性は言った。
「卒業してから、一度も会っていません」
「そうですか」
「でも、ずっと」
そこで少し間が空く。
「礼を言いたかったんです」
榊は黙って聞いている。
「当時は、あまり好きじゃなかったんです」
男性は少し苦く笑った。
「厳しい人で」
「ええ」
「説教くさいし、細かいし」
「……」
「でも、今思うと」
視線を落とす。
「ずいぶん助けられていた」
「はい」
「それを、何も言わないまま終わってしまったんです」
榊は香皿を引き寄せた。
「今日は、少し遅い香りにしましょう」
「遅い」
「時間がたってから届くものがあります」
火が入る。
香りはすぐには立たなかった。
少し待ってから、乾いた木と古い本の匂いが、静かに広がる。
教室の窓際に積まれた教材みたいな、古びているのに、まだ誰かの手の温度が残っているような香りだった。
男性は目を閉じた。
見えたのは、高校の教室だった。
放課後。
生徒はまばらに帰っていく。
若い教師が教壇の横に立っている。
厳しそうな顔をしている。
実際、厳しかったのだろう。
男子生徒がひとり、机に座っている。
今の男性だ。
進路のことで呼び止められている。
「おまえは、すぐ諦める」
教師が言う。
生徒はむっとした顔をする。
「別に諦めてません」
「諦めてるのと同じだ」
「……」
「やる前から、自分で線を引くな」
その言い方が、当時は鬱陶しかった。
場面が変わる。
試験のあと。
結果が悪かったのかもしれない。
生徒は職員室の前で立ち尽くしている。
教師が出てきて、何も言わずにプリントを渡す。
補習の案内か、問題集か。
優しい言葉はない。
でも、見放してもいない。
また場面が変わる。
卒業式の日。
教室はざわついている。
みんな写真を撮ったり、寄せ書きをしたりしている。
教師はいつも通り、少し不器用に立っている。
生徒は礼を言おうと思う。
思うだけで、近づけない。
照れくさい。
今さらそんなことを言うのも変だ。
またいつか会うかもしれない。
そのときでいい。
結局、何も言わないまま教室を出る。
場面が飛ぶ。
社会人になってから、
ふとしたときに教師の言葉を思い出す。
やる前から、自分で線を引くな。
仕事で失敗したとき。
転職を迷ったとき。
家庭のことで立ち止まったとき。
あのころはうるさいと思っていた言葉が、
時間がたってから、別の形で効いてくる。
礼を言いたいと思う。
でも、今さらだ。
卒業して何年もたっている。
急に連絡を取るのも不自然な気がする。
そのうちに、恩師が亡くなったと聞く。
もう遅い、と思う。
ありがとうございました。
その言葉だけが、
行き場をなくしたまま残る。
当時は言えなかった。
今なら言える。
でも、今はもう届かない。
遅れて出てくる言葉には、
遅れた時間そのものがくっついている。
「あの時は」
そう言えたら、少し違ったのかもしれない。
でも、その先に何を足せばよかったのか、
やはりうまくわからない。
「見えましたか」
榊の声で、男性は目を開けた。
目元は少し赤い。
けれど、泣くというより、長く持っていた言葉の置き場を探していた人の顔だった。
「はい」
「何を言えなかったのですか」
男性は少し黙ってから言った。
「ありがとうございました、です」
榊は黙っている。
「でも」
男性は視線を落とす。
「当時は、そんなこと言える感じじゃなかった」
「……」
「今なら言えるんです」
少し苦く笑う。
「今さらですけど」
しばらく沈黙があった。
「遅れて出てくる言葉は」
榊が言う。
「はい」
「そのときには言えなかった理由ごと、抱えています」
男性は顔を上げる。
「理由ごと」
「ええ」
「未熟さや、照れや、わからなさも含めて」
「……」
「だから、遅いだけで、嘘とは限りません」
男性は何も言わなかった。
その言葉を、少し驚いたように聞いていた。
「礼を言えなかったことと」
榊が続ける。
「感謝していなかったことは、別です」
男性は小さくうなずく。
「はい」
「時間がたってからわかることもあるのでしょう」
「……」
「それもまた、本当です」
男性は長く息を吐いた。
それは諦めというより、ようやく言葉の形に触れた人の息だった。
帰る前に、深く頭を下げる。
「来てよかったです」
「そうですか」
「遅すぎたと思っていました」
少し笑う。
「でも、遅れてわかったことまで、なかったことにしなくていいんですね」
戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。
晋一はしばらく黙っていた。
榊も何も言わない。
「あの時は、って」
晋一がぽつりと言う。
「はい」
「ひどく曖昧ですよね」
榊は香炉の灰を静かにならした。
「ええ」
「でも、あれしか出ないときもある」
「そうでしょう」
晋一は少し笑った。
「慰めになってるのか、微妙ですね」
「慰めではないのでしょう」
「じゃあ何ですか」
少し間が空く。
「まだ言葉が、そこまでしか来ていないのかもしれません」
晋一は返事をしなかった。
元妻の「私も」が、まだ胸の中に残っている。
あれは何だったのか。
責めなかったのか。
責めきれなかったのか。
同じように言葉が足りなかったのか。
わからない。
でも、わからないまま残ること自体が、
たぶん今日の答えに近い気がした。
店の奥に目をやる。
今日は暗さより、白さの方が近かった。
棚の向こうに、光の抜けない場所があるように見える。
奥行きなのか、影なのか、まだわからない。
「また見えましたか」
榊が言う。
晋一はそちらを見る。
「最近、聞き方が軽いですね」
「慣れましたか」
「だから慣れたくないですって」
榊は少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
外に出ると、昼の白い光は少しやわらいでいた。
あの時は。
謝罪にもならない。
言い訳にもならない。
でも、何もなかったことにもしない言葉。
そんな半端な言葉しか出てこない関係が、
人にはたぶんあるのだと、
晋一はゆっくり歩きながら思った。




