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言えなかったひと言―消えずに残る、あの言葉―  作者: 冬馬美沙
第4章 晋一と父、晋一と元妻
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第21話「あの時は」

その日は、昼の光がやけに白かった。


晴れているのに、あたたかさが薄い。

店の前の路地も、向かいの壁も、少しだけ色を抜かれたみたいに見えた。

何かが始まるというより、昔のことが急に近づいてくる日に似ていた。


晋一は昼の買い出しを頼まれて、店の外を歩いていた。

紙袋の中には茶葉と、頼まれた包み紙と、ついでに自分用のコーヒーが入っている。

大した距離ではない。

でも、店を少し離れるだけで、あの場所の空気がどれだけ独特なのか、逆にわかる気がした。


商店街の角を曲がったところで、前から来た人とすれ違いかける。


その瞬間、相手も足を止めた。


「あ」

声が重なる。


元妻だった。


晋一は一瞬、誰かわからなかった。

いや、わからなかったというより、

わかるまでの一拍を、頭が受け入れたくなかった。


髪が少し短くなっていた。

前より落ち着いた色の服を着ている。

でも、立ち止まったときに少しだけ肩が上がる癖は、変わっていなかった。


「……久しぶり」

彼女が言う。

「うん」

晋一はそれしか返せない。

「元気だった?」

「まあ」

「そっか」

それだけで、会話が少し止まる。


劇的な再会ではなかった。

音楽も鳴らないし、時間が止まるわけでもない。

ただ、昔よく知っていた人が、今はもう自分の生活の外にいるという事実だけが、

妙にはっきりそこにあった。


「このへん、来るんだ」

晋一が言う。

「たまにね」

彼女は小さく笑った。

「仕事先が近い日があって」

「へえ」

「晋一は?」

「店の使い」

「店?」

「ああ、今ちょっと手伝ってるとこがあって」

「そうなんだ」

また少し沈黙が落ちる。


何か言わなければと思う。

でも、何を言えばいいのかわからない。


元気そうでよかった、も少し違う。

今どうしてる、も踏み込みすぎる気がする。

ごめん、は急すぎる。

何に対してなのかも、ひとつではない。


口を開いて、晋一は結局こう言った。


「……あの時は」


彼女が少しだけ目を上げる。


「あの時は、なんか」

その先が続かない。

言い訳にも、謝罪にも、説明にもなりきらない。

「いろいろ」

自分でもひどいと思う。

そんな言葉しか出てこないのかと。


でも、彼女は少しだけ困ったように笑って、

「うん」

と言った。

「私も」

それ以上は続かなかった。


その「私も」が、

何を含んでいたのかはわからない。


別れたときのことか。

その前から積もっていたことか。

言えなかったこと全部か。


「じゃあ」

彼女が言う。

「うん」

「また」

その言葉は、言いかけて少しだけ止まり、

結局「元気で」に変わった。

「晋一も」

「そっちも」


それで終わった。


すれ違って、数歩歩いてから振り返りたくなった。

でも振り返らなかった。

振り返ったところで、何かが変わる気もしなかった。


店に戻る道で、

晋一はさっきの「あの時は」を何度も頭の中で言い直した。


もっとましな言い方があった気がする。

でも、何がましかはわからない。

謝ればよかったのか。

説明すればよかったのか。

何も言わない方がよかったのか。


どれも違う気がした。


店に戻ると、榊が帳場の奥で顔を上げた。


「遅かったですね」

「……人に会って」

晋一は紙袋を置く。

「そうですか」

「元妻」

榊は少しだけ目を細めたが、驚いた顔はしなかった。

「偶然?」

「うん」

「何か言えましたか」

晋一は苦く笑った。

「全然」

「そうですか」

「“あの時は”って言った」

榊は黙っている。

「最悪ですよね」

「曖昧ですね」

「ですよね」

晋一はため息をついた。

「でも、それしか出なかった」


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、五十代くらいの男性だった。

背広ではないが、きちんとしたシャツに濃い色の上着を着ている。

姿勢のいい人だったが、その整い方の奥に、長く持ち歩いてきた言葉があるように見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


男性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

座ってからも、膝の上で指先を軽く組み直している。


「こういうところは初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですが」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「遅れてしか出てこない言葉もあります」


男性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「先生のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「高校のときの恩師で」

「はい」

「もう亡くなっています」

男性は言った。

「卒業してから、一度も会っていません」

「そうですか」

「でも、ずっと」

そこで少し間が空く。

「礼を言いたかったんです」


榊は黙って聞いている。


「当時は、あまり好きじゃなかったんです」

男性は少し苦く笑った。

「厳しい人で」

「ええ」

「説教くさいし、細かいし」

「……」

「でも、今思うと」

視線を落とす。

「ずいぶん助けられていた」

「はい」

「それを、何も言わないまま終わってしまったんです」


榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し遅い香りにしましょう」

「遅い」

「時間がたってから届くものがあります」


火が入る。

香りはすぐには立たなかった。

少し待ってから、乾いた木と古い本の匂いが、静かに広がる。

教室の窓際に積まれた教材みたいな、古びているのに、まだ誰かの手の温度が残っているような香りだった。


男性は目を閉じた。


見えたのは、高校の教室だった。


放課後。

生徒はまばらに帰っていく。

若い教師が教壇の横に立っている。

厳しそうな顔をしている。

実際、厳しかったのだろう。


男子生徒がひとり、机に座っている。

今の男性だ。

進路のことで呼び止められている。


「おまえは、すぐ諦める」

教師が言う。

生徒はむっとした顔をする。

「別に諦めてません」

「諦めてるのと同じだ」

「……」

「やる前から、自分で線を引くな」

その言い方が、当時は鬱陶しかった。


場面が変わる。


試験のあと。

結果が悪かったのかもしれない。

生徒は職員室の前で立ち尽くしている。

教師が出てきて、何も言わずにプリントを渡す。

補習の案内か、問題集か。

優しい言葉はない。

でも、見放してもいない。


また場面が変わる。


卒業式の日。

教室はざわついている。

みんな写真を撮ったり、寄せ書きをしたりしている。

教師はいつも通り、少し不器用に立っている。


生徒は礼を言おうと思う。

思うだけで、近づけない。

照れくさい。

今さらそんなことを言うのも変だ。

またいつか会うかもしれない。

そのときでいい。


結局、何も言わないまま教室を出る。


場面が飛ぶ。


社会人になってから、

ふとしたときに教師の言葉を思い出す。


やる前から、自分で線を引くな。


仕事で失敗したとき。

転職を迷ったとき。

家庭のことで立ち止まったとき。


あのころはうるさいと思っていた言葉が、

時間がたってから、別の形で効いてくる。


礼を言いたいと思う。

でも、今さらだ。

卒業して何年もたっている。

急に連絡を取るのも不自然な気がする。


そのうちに、恩師が亡くなったと聞く。


もう遅い、と思う。


ありがとうございました。


その言葉だけが、

行き場をなくしたまま残る。


当時は言えなかった。

今なら言える。

でも、今はもう届かない。


遅れて出てくる言葉には、

遅れた時間そのものがくっついている。


「あの時は」

そう言えたら、少し違ったのかもしれない。

でも、その先に何を足せばよかったのか、

やはりうまくわからない。


「見えましたか」


榊の声で、男性は目を開けた。

目元は少し赤い。

けれど、泣くというより、長く持っていた言葉の置き場を探していた人の顔だった。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


男性は少し黙ってから言った。


「ありがとうございました、です」

榊は黙っている。

「でも」

男性は視線を落とす。

「当時は、そんなこと言える感じじゃなかった」

「……」

「今なら言えるんです」

少し苦く笑う。

「今さらですけど」

しばらく沈黙があった。


「遅れて出てくる言葉は」

榊が言う。

「はい」

「そのときには言えなかった理由ごと、抱えています」

男性は顔を上げる。

「理由ごと」

「ええ」

「未熟さや、照れや、わからなさも含めて」

「……」

「だから、遅いだけで、嘘とは限りません」


男性は何も言わなかった。

その言葉を、少し驚いたように聞いていた。


「礼を言えなかったことと」

榊が続ける。

「感謝していなかったことは、別です」

男性は小さくうなずく。

「はい」

「時間がたってからわかることもあるのでしょう」

「……」

「それもまた、本当です」


男性は長く息を吐いた。

それは諦めというより、ようやく言葉の形に触れた人の息だった。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「遅すぎたと思っていました」

少し笑う。

「でも、遅れてわかったことまで、なかったことにしなくていいんですね」


戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「あの時は、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「ひどく曖昧ですよね」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「ええ」

「でも、あれしか出ないときもある」

「そうでしょう」

晋一は少し笑った。

「慰めになってるのか、微妙ですね」

「慰めではないのでしょう」

「じゃあ何ですか」

少し間が空く。

「まだ言葉が、そこまでしか来ていないのかもしれません」


晋一は返事をしなかった。


元妻の「私も」が、まだ胸の中に残っている。

あれは何だったのか。

責めなかったのか。

責めきれなかったのか。

同じように言葉が足りなかったのか。


わからない。

でも、わからないまま残ること自体が、

たぶん今日の答えに近い気がした。


店の奥に目をやる。

今日は暗さより、白さの方が近かった。

棚の向こうに、光の抜けない場所があるように見える。

奥行きなのか、影なのか、まだわからない。


「また見えましたか」

榊が言う。


晋一はそちらを見る。

「最近、聞き方が軽いですね」

「慣れましたか」

「だから慣れたくないですって」

榊は少しだけ目を伏せた。

「そうですか」


外に出ると、昼の白い光は少しやわらいでいた。


あの時は。


謝罪にもならない。

言い訳にもならない。

でも、何もなかったことにもしない言葉。


そんな半端な言葉しか出てこない関係が、

人にはたぶんあるのだと、

晋一はゆっくり歩きながら思った。


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