↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
言えなかったひと言―消えずに残る、あの言葉―  作者: 冬馬美沙
第4章 晋一と父、晋一と元妻
PR
22/30

第22話 「幸せになって」

その日の店は、昼の光がやけにやわらかかった。


晴れているのに、輪郭だけが少し曖昧で、

棚の角も、湯呑みの縁も、いつもより丸く見える。

はっきりしないのに、ぼやけているわけではない。

何かを手放しかけたときの視界に、少し似ていた。


晋一は入口近くの棚を拭きながら、外を見た。

人通りは少ない。

風もない。

静かな午後だった。


「今日は、明るいですね」

言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。

「諦めきれない日は、やわらかく見えることがあります」

晋一は苦笑した。

「また難しいこと言う」

「違いましたか」

「まだ何も起きてないでしょう」

「起きる前から、残っていることもあります」


晋一は小さく息をついた。


元妻と偶然会ってから、数日がたっていた。

あの日のことを、もう考えていないつもりでいた。

でも、ふとした拍子に「あの時は」と言いかけた自分の声が戻ってくる。

あんな曖昧な言葉しか出なかったことが情けないのか、

曖昧なままでも少し通じた気がしたことが引っかかっているのか、

自分でもよくわからなかった。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、三十代半ばくらいの女性だった。

薄いグレーのワンピースに、紺のカーディガン。

派手さはないが、きちんと整えられている。

ただ、その整い方の奥に、長く言葉にできなかったものが静かに沈んでいるように見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


女性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

膝の上に置いた鞄の持ち手を、指でそっと押さえている。


「こういうところ、初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「きれいな言葉ほど、言えないことがあります」


女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「前に付き合っていた人のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「もう別れて、何年かたっていて」

「はい」

「今は、たぶん別の人がいます」

女性は言った。

「結婚したかもしれないし、してないかもしれない」

少し苦く笑う。

「ちゃんとは知りません」

「そうですか」

「でも」

そこで言葉が止まる。

「幸せになって、って」

視線を落とす。

「言えなかったんです」


店の中が、少しだけ静かになった気がした。


「別れたとき」

女性は続ける。

「ひどい別れ方をしたわけじゃないんです」

「ええ」

「嫌いになったわけでもない」

「……」

「でも、うまくいかなかった」

少し息をつく。

「たぶん、どっちが悪いとかでもなくて」

「はい」

「だから余計に」

そこで小さく笑う。

「幸せになって、なんて言えなかった」

榊は黙って聞いている。


「きれいすぎる気がして」

女性は言う。

「本当にそう思えたらよかったんですけど」

「……」

「そのときは、無理でした」

「どうして」

榊が静かに聞く。


女性は少し黙ってから答えた。


「自分のいない未来を、認めるみたいで」

その言葉は、思っていたよりもまっすぐ店の中に落ちた。


榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し遠い香りにしましょう」

「遠い」

「近づけない気持ちがあります」


火が入る。

香りは静かに立った。

花の匂いに似ているのに、甘さはほとんどない。

風に乗って一度近づき、すぐに離れていくような、つかまえようとすると遠くなる香りだった。

春の終わりに、誰かの服にだけ残っていた匂いみたいだった。


女性は目を閉じた。


見えたのは、夕方の駅前だった。


若い男女が並んで歩いている。

まだ付き合っていたころだ。

特別な日ではない。

仕事帰りに待ち合わせて、少し遅い夕飯を食べに行くところかもしれない。


彼はよくしゃべる人ではない。

でも、黙っていても気まずくならない。

女性はその静けさが好きだった。

隣を歩く速さが合うこと。

改札を出るタイミングが自然にそろうこと。

そういう小さなことが、ちゃんと心地よかった。


場面が変わる。


部屋の中。

テーブルの上にマグカップがふたつある。

どちらかの家なのだろう。

テレビはついているが、ちゃんと見ていない。

他愛ない話をしている。

仕事のこと。

同僚のこと。

コンビニの新しいお菓子のこと。


何でもない時間が、ちゃんと続いていた。


また場面が変わる。


少しずつ、ずれが出てくる。


大きな喧嘩ではない。

でも、会う回数が減る。

返事が遅くなる。

話していても、少しだけ遠い。

どちらかが悪いというより、

同じ場所に立っているつもりで、少しずつ見ている先が変わっていく。


「最近、忙しい?」

女性が聞く。

「まあ」

彼が答える。

「そっちは」

「普通」

その“普通”の中に、言わないことが増えていく。


また場面が変わる。


別れ話の日だった。


静かな店だったか、

公園のベンチだったか、

細かい場所は曖昧だ。

でも、空気だけは覚えている。

冷たすぎず、あたたかすぎず、

何かを決めるにはちょうど悪い日だった。


彼が先に言ったのかもしれない。

女性が言ったのかもしれない。

そこも曖昧だ。


ただ、

もう続けられないのだと、

どちらも少し前から知っていた。


泣いたかどうかも、はっきりしない。

責め合いはしなかった。

嫌いになったわけじゃないから。

でも、好きだけでも足りなかった。


別れ際、

何か言わなければと思った。


ありがとう。

元気で。

ごめんね。


どれも少し違う気がした。


幸せになって。


その言葉が、一瞬だけ浮かぶ。


でも、言えない。


そんなことを言ったら、

自分のいない未来を、きれいに認めることになる気がした。

相手がこの先、自分とは別の誰かと笑って、

別の生活をつくっていくことを、

ちゃんと受け入れたことになる気がした。


そのときの自分には、まだ無理だった。


だから、言わない。


「じゃあ」

「うん」

それだけで別れる。


場面が飛ぶ。


何年かたって、

共通の知人から、彼の近況を少しだけ聞く。

元気らしい。

仕事も続いているらしい。

誰かいるらしい、という話も聞く。


よかった、と思う。

思うのに、

胸のどこかが少しだけ遅れる。


幸せでいてほしい。

でも、その幸せに自分がいないことを、

完全にはやわらかく受け止められない。


だから、あのとき言えなかったのだと、

今なら少しわかる。


幸せになって、は

やさしい言葉に見える。

でも、本当は少し痛い。

相手の未来を願うふりをして、

自分がそこにいないことを認める言葉でもあるから。


きれいなだけでは、言えない。


「見えましたか」


榊の声で、女性は目を開けた。

目元は少し赤い。

けれど、泣くというより、長く胸の中で形を持てなかったものに、ようやく触れた人の顔だった。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


女性は少し黙ってから言った。


「幸せになって、です」

榊は黙っている。

「でも」

女性は視線を落とす。

「言えませんでした」

「どうして」

「きれいすぎたから、かもしれません」

少し苦く笑う。

「そんなにできた人間じゃなかった」

「……」

「本当は」

そこで言葉が止まる。

「自分のいない未来を、認めたくなかったんだと思います」


しばらく沈黙があった。


「相手の幸せを願うことは」

榊が言う。

「はい」

「ときどき、自分の不在を引き受けることでもあります」

女性は顔を上げる。

「……」

「だから、やさしいだけでは言えないのでしょう」


女性は何も言わなかった。

その言葉を、少し驚いたように聞いていた。


「言えなかったことと」

榊が続ける。

「幸せを願っていなかったことは、別です」

女性の目がわずかに動く。

「別、ですか」

「ええ」

「願えなかったのではなく」

少し間を置く。

「願うには、まだ近すぎたのかもしれません」


女性は長く息を吐いた。

それは諦めというより、ようやく自分の気持ちを少しだけ乱暴に扱わずに済んだ人の息だった。


「今なら」

女性がぽつりと言う。

「少しは思えます」

「はい」

「幸せでいてくれたらいいなって」

「ええ」

「でも、今さら言うことでもないですね」

榊は静かにうなずく。

「そうかもしれません」

「……」

「思えるようになったことまで、遅いとは限りません」


女性は小さくうなずいた。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「言えなかった自分が、ずっと嫌でした」

少し笑う。

「でも、たぶん、無理だったんですね」


戸が閉まり、店の中にまたやわらかい光が戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「幸せになって、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「ずいぶん立派な言葉ですね」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「ええ」

「言えない方が普通な気もします」

「そうかもしれません」

晋一は少し笑った。

「救いがないですね」

「きれいごとではない、というだけでしょう」


晋一は返事をしなかった。


元妻の顔が、また少しだけ浮かぶ。

あのとき、自分は何を思っていたのか。

謝りたかったのか。

説明したかったのか。

まだどこかで、自分のいない彼女の時間をうまく見られなかったのか。


未練、という言葉だけでは少し足りない気がした。

後悔、と言い切るのも違う。

もっと曖昧で、もっと形の悪いものが残っている。


店の奥に目をやる。

今日は暗くない。

でも、棚の向こうに、誰かが通り過ぎたような気がした。

影というほど濃くはない。

ただ、そこに時間だけが一瞬遅れたみたいに見える。


目を凝らす。

次の瞬間には、何もない。


「またですか」

榊が言う。


晋一はそちらを見る。

「最近、ほんとに増えてません?」

「何がですか」

「そういうの」

榊は少しだけ目を伏せた。

「近いのかもしれません」

「何に」

「まだ、言葉の方が先です」

「またそれ」

榊はそれ以上言わなかった。


外に出ると、光はまだやわらかかった。

はっきりしないのに、消えもしない午後の色だった。


幸せになって。


やさしい言葉に見えるのに、

その中には、自分がいない未来を認める痛みがある。


だから言えなかったのだとしても、

それは願えなかったこととは、少し違うのかもしれない。


晋一はそんなことを思いながら、ゆっくり歩いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。