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言えなかったひと言―消えずに残る、あの言葉―  作者: 冬馬美沙
第4章 晋一と父、晋一と元妻
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23/30

第23話 「怖かった」

その日は、朝から風が強かった。


店の前の暖簾が何度も揺れて、軒先の影が落ち着かない。

晴れているのに、光まで少しざわついて見える。

何かが崩れるというほどではない。

でも、きちんと立っていたものの輪郭が、風に少しずつ削られていくような日だった。


晋一は入口近くの棚を押さえながら、外を見た。

風が吹くたび、路地の奥から乾いた音がする。

何かが転がっているのか、何かがぶつかっているのか、よくわからない。


「今日は落ち着かないですね」

言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。

「崩さないようにしていたものが、先に揺れる日があります」

晋一は苦笑した。

「また最初から嫌なこと言いますね」

「違いましたか」

「まだ何も起きてないでしょう」

「起きる前から、残っていることもあります」


晋一は小さく息をついた。


父とは、あれから少しだけ連絡を取っていた。

第20話の電話のあと、結局、なくした紙は冷蔵庫の横に挟まっていたらしい。

妹から聞いた。

父から直接の連絡はなかった。

晋一も、わざわざその話を蒸し返す気にはなれなかった。


それでも、数日前にまた顔を出した。

用事があったわけではない。

近くまで来たついで、ということにして。

父は相変わらずだった。

機嫌がいいのか悪いのかよくわからない顔で、

テレビを見ながら、来たのか、とだけ言った。


そのときも、特に何かが変わったわけではない。

でも、前より少しだけ、沈黙が重くなかった気がした。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、六十代後半くらいの男性だった。

背は高いが、少し肩が落ちている。

濃い色のジャケットを着て、髪はきちんと整えられている。

きちんとしているのに、その整い方の奥に、長く言葉にしなかったものが沈んでいるように見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


男性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

座ってからも、膝の上で指先を軽く組み直している。


「こういうところは初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですが」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「弱い言葉ほど、遅れて出てくることがあります」


男性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「兄のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「もう亡くなっていて」

「そうですか」

「三年前です」

男性は言った。

「病気でした」

少し間が空く。

「長くはなかったんですが」

「はい」

「最後の方で、一度だけ」

視線を落とす。

「怖かった、と言ったんです」


店の中が、少しだけ静かになった気がした。


「兄は、そういうことを言う人じゃなかった」

男性は続ける。

「昔から、強い人で」

「ええ」

「家のことも、仕事のことも、何でも自分で決めるような人でした」

「……」

「弱音なんて、聞いたことがなかった」

少し苦く笑う。

「だから、そのとき」

そこで言葉が止まる。

「何も返せなかったんです」


榊は黙って聞いている。


「大丈夫だ、とか」

男性は言う。

「すぐよくなる、とか」

「……」

「そんなこと、言えなかった」

少し息をつく。

「嘘になる気がして」

「はい」

「でも、何も言わないのも違った気がして」

視線を落とす。

「結局、黙ってしまった」


榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し低い香りにしましょう」

「低い」

「強がりの下にあるものは、あまり高いところにありません」


火が入る。

香りは静かに立った。

木の匂いの奥に、土のような重さがある。

湿った土ではない。

長く踏み固められた地面みたいな、沈んでいるのに、そこに確かに支えがある香りだった。


男性は目を閉じた。


見えたのは、病室だった。


白い壁。

窓の外は曇っている。

ベッドの上に兄がいる。

痩せてはいるが、顔つきはまだしっかりしている。

点滴の管が腕に伸びている。

弟は椅子に座っている。


兄は昔から、こういう場所が似合わない人だった。

病院着を着ていても、どこかきちんとして見える。

弱っているはずなのに、弱っているように見せない。


「仕事は」

兄が言う。

「なんとか」

弟が答える。

「そうか」

「そっちは」

「まあまあだ」

そんな会話をしている。

病気の話は、あまりしない。

兄がしたがらないのか、

弟が避けているのか、

その両方なのかもしれない。


場面が変わる。


子どものころの家だ。

兄はいつも先に立っていた。

学校のことも、近所づきあいも、親の手伝いも、

弟より先に覚えて、先にこなしていた。

頼りになる人だった。

少し怖いくらいに、ちゃんとしていた。


弟は、兄に弱いところを見た記憶がほとんどない。

怒ることはあっても、怯えることはなかった。

困っていても、困ったとは言わなかった。


また場面が変わる。


病室の夕方だった。


窓の外の光が薄くなっている。

兄はしばらく黙っていた。

弟も、何を話せばいいかわからずにいた。


そのとき、不意に兄が言った。


「……怖いな」


弟は一瞬、聞き返せなかった。


「何が」

そう言った気がする。

兄は少しだけ笑った。

笑ったというより、口元がそう動いただけだった。


「いろいろだ」

それだけだった。


死ぬことか。

痛みか。

この先のことか。

家族を残すことか。

ひとりになることか。


何が怖いのか、兄は言わなかった。

弟も、聞けなかった。


ただ、その一言だけで、

兄が急に知らない人みたいに見えた。


強い人だと思っていた。

何でも決める人だと思っていた。

でも、その人も怖がるのだと、

そのとき初めて知った。


知ったのに、

何も言えなかった。


大丈夫だとは言えない。

怖いよな、と言うのも軽い気がした。

自分が代われるわけでもない。

何を言っても足りない気がした。


だから、黙った。


兄もそれ以上は言わなかった。


場面が飛ぶ。


そのあと、病状は少しずつ悪くなった。

面会の時間。

医師の説明。

家族の顔。

どれも曖昧になっていく。


でも、

怖いな、

という兄の声だけが、妙にはっきり残っている。


最後まで強い人だった、とは言えない。

最後に弱音を吐いた人だった、とも言いたくない。


ただ、

強いと思っていた人にも、

怖いと言う夜があった。


そのことを、

弟はうまく受け止めきれないまま残している。


「見えましたか」


榊の声で、男性は目を開けた。

目元は少し赤い。

けれど、泣くというより、長く胸の奥に置いていたものの重さをようやく測り直した人の顔だった。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


男性は少し黙ってから言った。


「何も、です」

榊は黙っている。

「兄が、怖いと言ったとき」

男性は視線を落とす。

「何も返せなかった」

「……」

「今でも、何て言えばよかったのかわかりません」

少し息をつく。

「大丈夫だなんて言えないし」

「はい」

「でも、黙るのも違った気がして」

しばらく沈黙があった。


「怖い、という言葉は」

榊が言う。

「はい」

「助けを求めているとは限りません」

男性が顔を上げる。

「……」

「ただ、ひとりで持ちきれなくなった重さを」

少し間を置く。

「一度、外に置いただけかもしれません」


男性は何も言わなかった。

その言葉を、少し驚いたように聞いていた。


「返す言葉がなくても」

榊が続ける。

「聞いていたことまで、なかったことにはなりません」

男性の目がわずかに動く。

「聞いていた」

「ええ」

「兄上は、あなたの前でそれを言ったのでしょう」

「……」

「それは、ひとりでは言わなかった言葉かもしれません」


男性は長く息を吐いた。

それは諦めというより、ようやく自分の沈黙を少しだけ責めすぎずに見られた人の息だった。


「強い人だと思っていました」

男性がぽつりと言う。

「はい」

「最後まで、そう思っていたかったのかもしれません」

榊は静かにうなずく。

「弱さを見ることは」

少し間を置く。

「ときどき、相手を小さくすることではなく」

男性が顔を上げる。

「……」

「ひとりの人として見ることなのかもしれません」


男性は小さくうなずいた。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「何も言えなかったことばかり考えていました」

少し笑う。

「でも、聞いていたことまで消えるわけじゃないんですね」


戸が閉まり、店の中にまた風の音が戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「怖かった、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「強い人が言うと、きついですね」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「ええ」

「見たくなかったものまで見える感じがする」

「そうかもしれません」


そのとき、晋一のスマートフォンが震えた。

妹からだった。


短いメッセージだった。


**さっき、お父さんがちょっと変なこと言ってた。

“最近、夜が長いと怖い”って。**


晋一は画面を見たまま、しばらく動かなかった。


「どうしました」

榊が言う。


晋一はすぐには答えられなかった。

喉の奥が少し詰まる。


「親父が」

やっと言う。

「怖い、みたいなこと」

榊は黙っている。


父がそんなことを言うのを、晋一は聞いたことがなかった。

母が亡くなったときも、

体調を崩したときも、

病院に通うようになってからも、

父はずっと、文句か沈黙のどちらかだった。


怖い。


その言葉だけで、

父が急に、父親ではなくなる気がした。


老いること。

夜が長いこと。

ひとりでいること。

母がいないこと。


そういうものを、

父もまた、うまく言えないまま持っていたのかもしれない。


「……榊さん」

晋一が言う。

「はい」

「父親って」

そこで止まる。

うまく続かない。

「弱いんですね」

榊は少しだけ目を伏せた。

「人ですから」


晋一は返事をしなかった。


その一言が、

妙にまっすぐ胸に落ちた。


父は父親である前に、

ひとりの人間だったのかもしれない。

そんな当たり前のことを、

今さら初めて知った気がした。


店の奥に目をやる。

今日は暗さより、揺れの方が近かった。

棚の向こうに、誰かが立っているような気がする。

でも輪郭はない。

ただ、そこにいるものもまた、

強い形では立っていない気がした。


目を凝らす。

次の瞬間には、何もない。


外に出ると、風はまだ強かった。

路地の奥で、何かがまた乾いた音を立てる。


怖かった。


その言葉を言えるのは、

弱くなったからなのか、

もう強いふりをしきれなくなったからなのか、

晋一にはまだわからなかった。


でも、

父もまた、ひとりで怖がる人なのかもしれないと、

今日はじめて思った。

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