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言えなかったひと言―消えずに残る、あの言葉―  作者: 冬馬美沙
第4章 晋一と父、晋一と元妻
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24/30

第24話 「ひとりにして」

その日は、朝から空気が薄かった。


晴れているのに、光が遠い。

店の前の路地も、向かいの壁も、いつもより少しだけ奥にあるように見える。

近づけば触れられるはずなのに、何かひとつ膜を挟んでいるみたいだった。


晋一は入口近くの暖簾を整えながら、外を見た。

風はない。

音も少ない。

静かというより、踏み込みすぎると壊れそうな日だった。


「今日は、遠いですね」

言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。

「近づかれることが、重くなる日があります」

晋一は苦笑した。

「また最初から嫌なこと言いますね」

「違いましたか」

「まだ何も起きてないでしょう」

「起きる前から、残っていることもあります」


晋一は小さく息をついた。


父の「夜が長いと怖い」という言葉を聞いてから、

晋一は前より少しだけ父の家に顔を出すようになっていた。

何かが急に変わったわけではない。

優しくなれたわけでもない。

ただ、放っておく、という言い方が前より少しだけしにくくなった。


その日も、妹に頼まれて昼前に父の家へ寄った。

買い物袋を持って、玄関を開ける。

父は居間にいた。

テレビはついているが、見ているのかどうかはわからない。


「来たのか」

「頼まれたから」

「そうか」

それだけだった。


冷蔵庫に食材を入れ、

薬の置き場所を確認し、

ゴミ袋をまとめる。

父はそのあいだ、何度かこちらを見たが、何も言わなかった。


「これ、ちゃんと飲んでる?」

晋一が薬のシートを見ながら言う。

「飲んでる」

「昨日の分、残ってるけど」

「あとで飲むつもりだった」

「そういうのよくないだろ」

父は少し眉を寄せた。

「わかってる」

「わかってるなら」

「おまえは、いちいち」

そこで言葉が止まる。


晋一も少し苛立つ。

「何」

「……いや」

「言いたいことあるなら言えば」

父はしばらく黙っていた。

それから、低い声で言った。


「ひとりにしてくれ」


晋一は一瞬、聞き返せなかった。


「何」

父は視線を合わせないまま、もう一度言う。

「ひとりにしてくれ」

その声は怒鳴っているわけではなかった。

でも、押し返す力だけはあった。


晋一の胸の奥が、少しだけ冷える。


「何それ」

「そのままだ」

「心配して来てるんだけど」

「頼んでない」

「妹が心配してるからだろ」

「だからって」

父はそこで少し息をつく。

「何でもかんでも見に来られると、息が詰まる」


晋一は何も言えなかった。


拒絶された気がした。

でも、それだけでもない気がした。

父の顔は怒っているというより、

何かを守ろうとしているようにも見えた。


「……わかった」

晋一は短く言った。

「帰る」

父は何も返さなかった。


玄関を出てからも、

ひとりにしてくれ、

という声だけが耳に残っていた。


店に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。


暖簾をくぐると、いつもの香木の匂いがした。

それだけで少し息が整うのが、最近はもう悔しくもなかった。


「早かったですね」

帳場の奥から榊が言う。

「追い返された」

晋一は靴を脱ぎながら答える。

「そうですか」

「親父に」

榊は顔を上げる。

「何と」

晋一は少し黙ってから言った。

「ひとりにしてくれ、って」

榊は何も言わなかった。

「意味わかんないですよね」

晋一は苦く笑う。

「心配して行ってるのに」

「……」

「でも、怒ってるだけとも違う感じで」

そこで言葉が止まる。

「余計、腹立つ」


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、五十代後半くらいの女性だった。

細身で、姿勢のいい人だった。

薄いベージュのコートをきちんと着て、髪も乱れなくまとめている。

整った印象の人だったが、その整い方の奥に、長く踏み込みきれなかったものが沈んでいるように見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


女性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

膝の上で、手を静かに重ねている。


「こういうところは初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「近づきたい気持ちと、近づかれたくない気持ちが、同じ場所にあることもあります」


女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「母のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「まだ生きています」

「そうですか」

「施設ではなく、ひとりで暮らしていて」

女性は言った。

「でも、だいぶ弱ってきていて」

「はい」

「私も兄も、できるだけ顔を出していたんです」

少し間が空く。

「なのに、母が」

視線を落とす。

「ひとりにして、って言ったんです」


店の中が、少しだけ静かになった気がした。


「最初は腹が立ちました」

女性は続ける。

「こっちは心配して来てるのにって」

「ええ」

「食事のことも、薬のことも、転ばないかも」

「……」

「放っておけるわけないでしょう」

少し息をつく。

「でも、母は」

そこで言葉が止まる。

「見られたくなかったのかもしれないんです」

榊は黙って聞いている。


「できないことが増えていくのを」

女性は言う。

「忘れることとか、歩くのが遅くなることとか」

「はい」

「娘に見られるのが、つらかったのかもしれない」

「……」

「でも、そうだとしても」

少し苦く笑う。

「こっちだって、近づかないわけにいかない」

榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し離れた香りにしましょう」

「離れた」

「近づきすぎると、見えなくなることがあります」


火が入る。

香りは静かに立った。

最初はほとんど届かない。

けれど、少し待つと、乾いた木と白い布の匂いが、遠くからゆっくり近づいてくる。

病室でも家でもない、誰かの生活の端にだけ残るような、清潔なのに少し寂しい香りだった。


女性は目を閉じた。


見えたのは、古い家の台所だった。


母が立っている。

まだ元気だったころだ。

手際よく包丁を動かし、鍋の火加減を見ている。

娘は少し離れたところで、それを見ている。

母は何でも自分でやる人だった。

頼るのが苦手で、

弱ったところを見せるのはもっと苦手だった。


場面が変わる。


年を取った母がいる。

同じ台所なのに、動きが少し遅い。

包丁を持つ手が危なっかしい。

鍋の火を消したか何度も確かめる。

娘はつい口を出す。


「それ、私やるよ」

「いいの」

「危ないから」

「大丈夫」

「大丈夫じゃないでしょ」

声が少し強くなる。


母は黙る。

その黙り方が、拗ねているのか、傷ついているのか、娘にはわからない。


また場面が変わる。


居間だった。

薬の袋がテーブルに並んでいる。

娘は飲み方を説明している。

母はうなずいている。

でも、そのうなずきが、本当に聞いているうなずきなのか、

早く終わってほしいうなずきなのか、わからない。


「ちゃんと飲んでね」

「わかってる」

「ほんとに?」

「子どもじゃないんだから」

その言い方に、娘も少し苛立つ。

「じゃあ、ちゃんとしてよ」

「してるわよ」

「してないから言ってるの」

空気が少し硬くなる。


また場面が変わる。


夕方。

娘が買い物袋を持って来る。

冷蔵庫を開ける。

賞味期限の切れたものを捨てる。

洗濯物をたたむ。

母は椅子に座って、それを見ている。


「そんなの、あとでやるのに」

「あとでやらないでしょ」

「やるわよ」

「無理しなくていいから」

その“無理しなくていい”が、

母には別の意味に聞こえたのかもしれない。


「……ひとりにして」


娘は手を止める。


「何」

「ひとりにしてちょうだい」

母は視線を合わせない。

「少しでいいから」

その声は怒っていない。

でも、押し返している。


娘は腹が立つ。

心配して来ているのに。

助けようとしているのに。

何が悪いのかと思う。


でも同時に、

母が守ろうとしているものがある気もする。


できなくなった自分を、

娘の前に全部は出したくない。

世話される側に、きれいに収まりたくない。

まだ自分で決めたい。

まだ自分の暮らしの形を、他人の手で全部変えられたくない。


そういうものが、

あの短い言葉の中に押し込まれていたのかもしれない。


場面が飛ぶ。


そのあとも、娘は通う。

兄も来る。

母は機嫌のいい日もあれば、悪い日もある。

「来てくれて助かる」と言う日もある。

「放っておいて」と言う日もある。


どちらが本音なのか、わからない。


たぶん、どちらも本音なのだ。


近づいてほしい。

でも、近づかれたくない。

助けてほしい。

でも、助けられる側にだけなりたくない。


家族だからこそ、

その矛盾はうまく言えない。


「見えましたか」


榊の声で、女性は目を開けた。

目元は少し赤い。

けれど、泣くというより、長くひとつの意味に決めつけていた言葉を、ようやく別の角度から見た人の顔だった。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


女性は少し黙ってから言った。


「何も、です」

榊は黙っている。

「母に、ひとりにしてって言われたとき」

女性は視線を落とす。

「腹が立って」

「……」

「でも、傷ついていたのかもしれないとも思って」

少し息をつく。

「結局、何も言えなかった」

しばらく沈黙があった。


「ひとりにして、は」

榊が言う。

「はい」

「拒絶とは限りません」

女性が顔を上げる。

「……」

「近づかれることで、保てなくなるものを守ろうとする言葉かもしれません」

女性は何も言わなかった。

その言葉を、少し痛そうに聞いていた。


「でも」

女性がぽつりと言う。

「こっちだって、放っておけないんです」

「ええ」

「家族なんだから」

「はい」

「近づかない方がいいなんて、思えない」

榊は静かにうなずく。

「そうでしょう」

少し間を置く。

「近づきたい側にも、痛みがあります」

女性の目がわずかに動く。

「……」

「踏み込みすぎる苦しさと、踏み込めない苦しさは、別のようでよく似ています」


女性は長く息を吐いた。

それは諦めというより、相手の言葉だけでなく、自分の痛みも少しだけ認められた人の息だった。


「どっちが正しいんでしょう」

女性が言う。

榊はすぐには答えなかった。

「決めきれないままの距離もあります」

「……」

「家族だからこそ」


女性は小さくうなずいた。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「拒絶されたんだと思っていました」

少し笑う。

「それだけじゃないのかもしれませんね」


戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「ひとりにして、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「ずいぶん冷たい言葉に聞こえるのに」

そこで少し止まる。

「守ってる感じも、あるんですね」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「ええ」

「何を」

「人によって違うのでしょう」

少し間が空く。

「暮らし方かもしれませんし」

「……」

「弱った自分の形かもしれません」


晋一は返事をしなかった。


父の顔が浮かぶ。

怒っていたようにも見えた。

でも、それだけではなかった。

見られたくないものがあったのかもしれない。

できなくなったこと。

助けられる側に回っていくこと。

ひとりでは保てなくなりつつある生活の形。


それでも、

こっちだって放っておけない。


その両方が本当なのだとしたら、

家族というのはずいぶん厄介だと思った。


店の奥に目をやる。

今日は暗さが薄い。

その代わり、奥行きだけがある。

棚の向こうに、誰かが座っているような気がする。

近づけば消える距離で、

ただそこにいる。


目を凝らす。

次の瞬間には、何もない。


「またですか」

榊が言う。


晋一はそちらを見る。

「最近、もう驚かなくなってきたんですけど」

「そうですか」

「それも嫌なんですよね」

榊は少しだけ目を伏せた。

「慣れることと、わかることは別です」

「……」

「たぶん」

晋一は苦笑した。

「最後までそれですね」

「たぶん」


外に出ると、光はまだ遠かった。

晴れているのに、どこか手の届かない午後だった。


ひとりにして。


拒絶なのか、

尊厳なのか、

ただ少し息をしたいだけなのか。


たぶん、そのどれかひとつではないのだろうと、

晋一はゆっくり歩きながら思った。


近づきたい側にも、

近づかれたくない側にも、

それぞれの痛みがある。


家族だからこそ、

その距離は簡単には決められないのかもしれなかった。

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