第25話 「待たせたね」
その日は、昼の光が少し遅れて店に入ってきた。
晴れているはずなのに、路地の奥に残った影がなかなか薄くならない。
暖簾の隙間から差し込む光も、どこかためらうみたいに床の上で止まっていた。
明るいのに、すぐには届かない日だった。
晋一は入口近くの棚を拭きながら、店の奥を見た。
最近は、見ても仕方がないと思いながら、つい見てしまう。
棚の向こうに何かがある気がする日と、
ただ暗いだけに見える日がある。
今日は、そのどちらでもなく、
誰かがまだ来ていない場所みたいに見えた。
「今日は、遅いですね」
言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。
「何がですか」
「光」
榊は少しだけ目を細めた。
「待っているものがある日は、届くのが遅いことがあります」
晋一は苦笑した。
「また最初からそういう感じですか」
「違いましたか」
「まだ何も起きてないでしょう」
「起きる前から、残っていることもあります」
晋一は小さく息をついた。
第4章のあいだに、父のことも、元妻のことも、
少しずつ自分の中で形を変えていた。
わかったこともある。
でも、わからないままのことの方が多い。
この店に来る人たちの言葉が、
最近は前より少しだけ、自分の生活の中に入り込んでくる。
それがいいことなのかどうかは、まだよくわからなかった。
戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。
入ってきたのは、六十代くらいの女性だった。
薄い藤色のカーディガンを羽織り、髪はきれいにまとめられている。
姿勢のいい人だったが、その整い方の奥に、長く待ち続けた時間が静かに沈んでいるように見えた。
「いらっしゃいませ」
榊が声をかける。
女性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。
膝の上に置いた手を、指先だけ少し動かしている。
「こういうところ、初めてで」
「はい」
「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」
「わからないままで構いません」
榊が言う。
「待っていた言葉ほど、遅れて来ることがあります」
女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
「夫のことなんです」
晋一は手を止めた。
榊は静かにうなずく。
「もう亡くなって、十年になります」
「そうですか」
「単身赴任の多い人で」
女性は言った。
「家にいない時間の方が長かったかもしれません」
少し苦く笑う。
「帰ってくるときも、いつも急で」
「ええ」
「連絡もろくによこさない人だったんです」
「……」
「それで、玄関を開けて、決まって同じことを言うんです」
そこで言葉が止まる。
「待たせたね、って」
店の中が、少しだけ静かになった気がした。
榊は黙って聞いている。
「私は毎回、別に待ってないわよ、って返していました」
女性は続ける。
「本当は待っていたくせに」
少し笑う。
「でも、そういうふうにしか言えなかった」
視線を落とす。
「最後も、そうだったんです」
榊は香皿を引き寄せた。
「今日は、少し帰りの香りにしましょう」
「帰りの」
「待つ時間のある場所には、戻ってくる匂いが残ります」
火が入る。
香りは静かに立った。
木の匂いの奥に、乾いた布と、少しだけ外気の冷たさが混じっている。
長く閉まっていた玄関が開いたとき、
外の空気と家の匂いが一緒に流れ込んでくるような香りだった。
女性は目を閉じた。
見えたのは、古い家の玄関だった。
夕方。
鍵の回る音がする。
女性は台所にいる。
鍋の火を見ながら、聞こえないふりをしている。
でも、耳はちゃんと玄関の方を向いている。
「ただいま」
夫の声がする。
少し遅れて、居間に鞄を置く音。
靴を脱ぐ音。
その一連の気配だけで、
家の空気が少し変わる。
「待たせたね」
夫が言う。
女性は振り向かずに答える。
「別に待ってないわよ」
その言い方は、少しだけ素っ気ない。
でも、本気で怒っているわけではない。
待っていたことを、そのまま出すのが照れくさいだけだ。
夫は少し笑う。
「そうか」
「連絡くらいしなさいよ」
「悪い悪い」
「ほんとに」
そんなやりとりが、何度もあった。
場面が変わる。
若いころのふたりがいる。
まだ子どもが小さい。
夫は仕事で家を空けることが多い。
女性は文句を言いながらも、
帰ってくる日には少しだけ食卓を整える。
好きだったおかずを一品増やす。
でも、それを悟られるのは癪だから、
帰ってきても、あまりうれしそうにはしない。
玄関の音がすると、
つい手を止める。
帰ってきた気配だけで、
家の中の時間が少し動く。
また場面が変わる。
子どもが大きくなり、
家を出ていく。
夫婦ふたりの時間が少し増える。
それでも夫は相変わらず忙しい。
出張もある。
帰りは急だ。
連絡は少ない。
「今から帰る」
短い電話が来る。
女性は「はいはい」と答える。
切ったあとで、少しだけ台所を片づける。
湯を沸かす。
急いでいるわけではないふりをしながら、
帰ってくる時間をちゃんと計算している。
また玄関が開く。
いつもの声がして、
いつものように返す。
その繰り返しが、
いつのまにかふたりのあいだの形になっていた。
場面が少し曇る。
最後の帰宅の日だった。
その日も、特別な日ではなかった。
たしか雨が降りそうで、
でもまだ降っていなかった。
女性は夕飯の支度をしていた。
夫から連絡はなかった。
だから、今日は遅いのだろうと思っていた。
玄関が開く音がする。
「え」
思わず声が出る。
夫が立っている。
少し疲れた顔をしている。
でも、いつも通りでもある。
「急に」
女性が言う。
「近くまで来たから」
夫は靴を脱ぎながら答える。
「連絡くらいしてよ」
「悪い」
それから、少し笑って言う。
「待たせたね」
女性はいつものように返す。
「別に待ってないわよ」
本当は、その日も待っていた。
でも、いつもと違う返し方をする理由もなかった。
その言葉は、もう長いあいだ、
ふたりのあいだで形になっていたから。
その夜、夫は少しだけ早く寝た。
疲れているのだと思った。
女性も深くは気にしなかった。
その数日後、
夫は赴任先で倒れた。
急だった。
あまりに急で、
最後に交わしたやりとりだけが、
妙にはっきり残った。
場面が飛ぶ。
葬儀のあと。
家の中が静かになる。
玄関の音がしない。
急な帰宅もない。
連絡の少なさに腹を立てることもない。
でも、夕方になると、
ふと耳が玄関の方を向く。
待っていないつもりで、
ずっと待っていたのだと、そのとき初めてわかる。
帰ってくる人がいると思って整える時間。
まだかなと思いながら、聞こえないふりをする時間。
そういうもの全部が、
自分の毎日の中にちゃんとあったのだと気づく。
だから、言えなかった。
待ってたわよ。
帰ってきてくれて、うれしい。
そういうことを、
最後までちゃんとした形では言えなかった。
「見えましたか」
榊の声で、女性は目を開けた。
目元は少し赤い。
けれど、泣くというより、長く胸の中で繰り返していたやりとりの意味を、ようやく別の角度から見た人の顔だった。
「はい」
「何を言えなかったのですか」
女性は少し黙ってから言った。
「待ってた、です」
榊は黙っている。
「ずっと、待っていたんです」
女性は視線を落とす。
「でも、そんなこと言うの、悔しいみたいで」
少し笑う。
「可愛くないですよね」
「……」
「最後まで、別に待ってない、って返してしまった」
しばらく沈黙があった。
「待つことは」
榊が言う。
「はい」
「相手に時間を預けることでもあります」
女性の目がわずかに動く。
「……」
「だから、簡単には言えないのでしょう」
女性は何も言わなかった。
その言葉を、少し驚いたように聞いていた。
「言えなかったことと」
榊が続ける。
「待っていなかったことは、別です」
女性は小さく息をつく。
「そう、ですね」
「ええ」
「帰りを待つ時間は」
少し間を置く。
「言葉にしなくても、そこに残ります」
女性は長く息を吐いた。
それは諦めというより、照れや意地の奥にあったものを、ようやく自分でも認められた人の息だった。
「今さらですけど」
女性がぽつりと言う。
「待ってたんだと思います」
「はい」
「毎回」
榊は静かにうなずいた。
「そうでしょう」
女性は小さくうなずいた。
帰る前に、深く頭を下げる。
「来てよかったです」
「そうですか」
「最後の言葉ばかり気にしていました」
少し笑う。
「でも、その前からずっと、同じことを繰り返していたんですね」
戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。
晋一はしばらく黙っていた。
榊も何も言わない。
「待つって」
晋一がぽつりと言う。
「はい」
「思ってるより、長いんですね」
榊は香炉の灰を静かにならした。
「そうでしょう」
「しかも、待ってる方は、待ってるって言わない」
「言わないこともあります」
「面倒ですね」
「ええ」
榊の声は静かだった。
「とても」
そのとき、
榊の指が、香炉の縁でほんのわずかに止まった。
本当に一瞬だった。
でも、晋一は見逃さなかった。
「……榊さん」
呼ぶと、榊は顔を上げる。
「はい」
「今の客の話」
「ええ」
「何か、ありました?」
榊はすぐには答えなかった。
その沈黙は、いつもの“言わない”とは少し違っていた。
言葉を選んでいるというより、
選ばないまま持っているものに、少しだけ触れてしまった顔だった。
「待つことは」
榊が静かに言う。
「はい」
「長いですから」
それだけだった。
晋一は眉をひそめる。
「それだけですか」
「それ以上、要りますか」
「いや」
少し迷う。
「……要る気はします」
榊は答えなかった。
でも、その横顔は、
いつもより少しだけ遠かった。
店の奥に目をやる。
今日は暗さより、
“まだ来ていないもの”の気配が強かった。
棚の向こうに、誰かのために空けられた場所があるように見える。
そこに何があるのかはわからない。
ただ、ずっとそのまま残されている感じだけがある。
「この店って」
晋一がぽつりと言う。
榊は顔を上げない。
「何ですか」
「誰かのためにあるんですか」
少し間が空く。
「そうかもしれません」
「客の?」
榊はそこで、ほんのわずかに目を伏せた。
「それだけではないのかもしれません」
晋一は何も言えなかった。
その言い方は、
店のことを言っているようで、
榊自身のことを言っているようでもあった。
外に出ると、昼の光はまだ少し遅れていた。
明るいのに、どこか届ききらない午後だった。
待っていたことを言えない人がいる。
その言葉を、ずっと抱えたままの人もいる。
晋一はそんなことを思いながら、ゆっくり歩いた。




