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第26話 「聞こえてた」

その日は、朝から音がやけに近かった。


店の前を通る自転車のブレーキの音。

遠くで閉まるシャッターの音。

向かいの家の窓が開く音。

いつもなら気にも留めないようなものが、

今日はひとつひとつ、少し近くで鳴っている気がした。


晋一は湯呑みを拭きながら、店の奥を見た。

棚の向こうは、相変わらず暗い。

でも今日は、暗いというより、

何かがそこにいて、じっと耳を澄ませているように見えた。


「今日は、近いですね」

言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。

「何がですか」

「音」

榊は少しだけ目を細めた。

「届かなかったと思っていたものが、近くにある日があります」

晋一は手を止める。

「……また最初からそういう感じですか」

「違いましたか」

「まだ何も起きてないでしょう」

「起きる前から、聞こえていることもあります」


晋一は小さく息をついた。


第25話のあとから、

榊のことが少し気になっていた。


待つことは長い。


あの一言だけだった。

でも、あれは客に向けた言葉というより、

自分の中のどこかに触れて出た声に近かった。


榊は相変わらず、何も言わない。

いつも通り店にいて、

いつも通り静かで、

いつも通り、こちらが踏み込めばするりとかわす。


それでも晋一には、

あの日から榊の沈黙の質が少し変わった気がしていた。

隠しているというより、

何かを動かさないようにしている沈黙だった。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、四十代前半くらいの女性だった。

白いシャツに濃い色のカーディガンを羽織り、

髪は肩のあたりでまとめている。

きちんとした印象の人だったが、

その整い方の奥に、長く確かめられなかったものが静かに残っているように見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


女性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

座ってからも、膝の上で指先を軽く組み直している。


「こういうところ、初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「届かなかったと思っていた言葉ほど、あとから形を変えることがあります」


女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「父のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「もう亡くなって、五年になります」

「そうですか」

「入院していたとき」

女性は言った。

「最後の方は、あまり話せなくなっていて」

「はい」

「私も、何を言えばいいのかわからなくて」

少し間が空く。

「結局、ちゃんとありがとうって言えなかったと思っていたんです」

店の中が、少しだけ静かになった気がした。


榊は黙って聞いている。


「でも、この前」

女性は続ける。

「父の遺品を整理していたら、古いメモが出てきて」

「メモ」

「病院で使っていたノートの切れ端みたいなものでした」

視線を落とす。

「そこに、私のことだと思う言葉が書いてあったんです」

「……」

「“聞こえてた”って」

晋一は思わず顔を上げた。


女性は少し苦く笑った。

「それだけじゃないんですけど」

「はい」

「“うまく返せなかったけど、聞こえてた”って」

そこで言葉が止まる。

「たぶん、私が病室で言ったことに対してだと思うんです」

榊の指先が、ほんのわずかに止まった。


晋一はそれを見た。


「私は」

女性が言う。

「何も届かなかったと思っていました」

「……」

「父は目を閉じていることも多かったし」

「はい」

「返事もほとんどなかった」

少し息をつく。

「だから、言っても仕方なかったのかもしれないって」

「でも、違ったかもしれない」

榊が静かに言う。


女性は小さくうなずいた。


榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し残る香りにしましょう」

「残る」

「消えたと思っていたものが、別の場所に留まっていることがあります」


火が入る。

香りはすぐには立たなかった。

少し遅れて、乾いた紙と白い花の匂いが、静かに広がる。

読み返されることのなかった手紙のような、

閉じられたままでも、そこに気配だけは残り続ける香りだった。


女性は目を閉じた。


見えたのは、病室だった。


白い壁。

午後の薄い光。

ベッドの上に父がいる。

痩せていて、目を閉じている時間が長い。

娘は椅子に座っている。

手には小さな紙袋がある。

着替えか、飲み物か、何か頼まれたものかもしれない。


「持ってきたよ」

娘が言う。

父は少しだけ目を開ける。

でも、返事はない。

聞こえているのかどうかもわからない。


場面が変わる。


病室の夕方。

テレビはついているが、音は小さい。

娘は何か話している。

仕事のことかもしれない。

天気のことかもしれない。

医師に言われたことを、やわらかく言い換えているのかもしれない。


父はほとんど話さない。

うなずいたのかどうかも、よくわからない。

娘はだんだん、自分の声が空回りしている気がしてくる。


また場面が変わる。


夜に近い時間だった。


病室には娘しかいない。

父は眠っているように見える。

呼吸は浅い。

娘はしばらく黙って座っている。


何か言わなければと思う。

でも、何を言えばいいのかわからない。


大丈夫、は言えない。

頑張って、も違う。

ありがとう、も急すぎる気がする。

ごめんね、も違う。


でも、このまま何も言わないのは嫌だった。


娘は小さな声で言う。


「……お父さん」

父は動かない。

「ちゃんと、言ってなかったけど」

喉が少し詰まる。

「いろいろ、ありがとう」

少し間が空く。

「厳しかったし、腹立つことも多かったけど」

そこで少し笑う。

「でも、助けられてた」

父は何も言わない。

目も閉じたままだ。


娘は続ける。


「聞こえてなくてもいいから」

その言葉は、半分やけのようでもあり、

半分祈りのようでもあった。

「言っとこうと思って」

少し息を吸う。

「ありがとう」


返事はない。


何も変わらない。

病室は静かなままだ。

父の手も動かない。

娘は、自分の言葉が白い壁に吸われていく気がする。


だから、

届かなかったと思った。


場面が飛ぶ。


葬儀のあと。

手続き。

片づけ。

時間だけが過ぎていく。


娘はときどき思い出す。

あの病室で言ったことを。

言わないよりはよかったのかもしれない。

でも、届いた感じはしなかった。

自己満足だったのかもしれない。

そう思うこともあった。


また場面が変わる。


五年後。

遺品の整理。

引き出しの奥から、小さな紙切れが出てくる。

病院のメモ帳を破ったような紙だ。

父の字だった。


そこには、いくつか短い言葉が書いてある。

日付のようなもの。

薬のこと。

誰かの名前。

その端に、少し乱れた字で、


聞こえてた

うまく返せなかったけど


とある。


娘はしばらく、その紙を見ている。


自分のことだと、すぐには言い切れない。

でも、たぶんそうだと思った。

あの夜のことだと。


聞こえていた。


返せなかっただけで。


そのとき初めて、

届かなかったと思っていた言葉が、

別の場所でちゃんと受け取られていたのかもしれないと知る。


言葉は、その場で返ってこなければ、

なかったことになるわけではない。


聞こえていたのに、

返せなかった。

返せなかったけれど、

残っていた。


そのことが、

救いなのか、

余計につらいのか、

娘にはまだよくわからない。


ただ、

届かなかったと決めつけていた時間だけが、

少し形を変える。


「見えましたか」


榊の声で、女性は目を開けた。

目元は少し赤い。

けれど、泣くというより、長く閉じていた解釈が、静かに開き直された人の顔だった。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


女性は少し黙ってから言った。


「ありがとう、です」

榊は黙っている。

「言ったつもりだったんです」

女性は視線を落とす。

「でも、届かなかったと思っていました」

「……」

「父は何も返してくれなかったから」

少し息をつく。

「でも、聞こえていたのかもしれない」

しばらく沈黙があった。


「返事がないことと」

榊が言う。

「はい」

「届いていないことは、同じではありません」

女性の目がわずかに動く。

「……」

「言葉は、ときどき」

少し間を置く。

「相手の中で、遅れて受け取られることがあります」

女性は何も言わなかった。

その言葉を、少し痛そうに聞いていた。


「でも」

女性がぽつりと言う。

「だったら、もっと早く知りたかったです」

榊はすぐには答えなかった。

「そうでしょう」

「……」

「届いていたと知るのが遅いことは」

少し間が空く。

「救いであると同時に、取り返せなさでもあります」


女性は長く息を吐いた。

それは安堵だけではなかった。

でも、長く抱えていた“届かなかった”という決めつけを、

少しだけ手放せた人の息だった。


「来てよかったです」

女性は帰る前に言った。

「ずっと、ひとりで言っただけだと思っていました」

少し笑う。

「でも、そうじゃなかったのかもしれない」


戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「聞こえてた、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「ずるいですね」

榊は顔を上げる。

「何がですか」

「届いてたなら、もっと早くわかればいいのに」

「そうかもしれません」

「あとからわかるの、きついでしょう」

「ええ」

榊の声は静かだった。

「とても」


晋一はそこで、榊を見る。


その“とても”は、

今の客に向けたものだけではなかった。


「……榊さん」

呼ぶと、榊は答えない。

香炉の灰をならす指先が、ほんの少しだけ止まる。


「聞こえてたこと、あるんですか」

晋一は自分でも驚くほどまっすぐに聞いていた。


榊はしばらく黙っていた。

店の奥の暗がりが、今日は少しだけ近い。

何かがそこにいて、

答えを待っているように見えた。


「なかったことにしていたものが」

榊が静かに言う。

「はい」

「そうではなかったのかもしれない、と」

少し間が空く。

「思う日もあります」


晋一は何も言えなかった。


それは答えのようで、

答えではなかった。

でも、榊が自分のことを話すときの、

ぎりぎりの線に触れた気がした。


「相手は」

晋一が言いかける。

榊はわずかに首を振る。

「まだ、そこまでは」

その言い方は拒絶ではなかった。

ただ、本当にまだそこまでしか来ていない声だった。


晋一は口を閉じた。


店の奥に目をやる。

今日は暗さの中に、

誰かの気配というより、

聞こえなかったはずのものが留まっている感じがあった。

声ではない。

言葉でもない。

でも、消えきらなかった何かが、

そこに静かに残っているように見えた。


「この店」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「言えなかった言葉を探してるんじゃなくて」

少し止まる。

「届いたかどうかわからないものも、見てるんですか」

榊はすぐには答えなかった。

それから、静かに言う。

「わからないまま残るものを」

「……」

「見ているのかもしれません」


晋一はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。


第25話で感じた違和感が、

今日はもう少しはっきりした形を持っていた。


この店は、客のためだけにあるのではない。

榊は、誰かの言葉を見送っているだけではない。

自分自身の中で、

届かなかったと思っていた何かを、

ずっと確かめ続けているのかもしれない。


外に出ると、音はまだ近かった。

遠くのシャッターの音も、

誰かの話し声も、

今日は少しだけ耳に残る。


聞こえてた。


その一言で救われることもある。

でも、その一言で、

遅すぎた時間まで戻ってくることもある。


晋一はそんなことを思いながら、ゆっくり歩いた。


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