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第27話 「さようなら」

その日は、朝から店の奥がやけに静かだった。


いつも静かな場所なのに、

今日はその静けさに底があるように見える。

棚の向こうの暗がりも、ただ光が届かないだけではなく、

何かが長く沈んだまま、動かずに残っている場所みたいだった。


晋一は湯を沸かしながら、何度かそちらを見た。

見たところで何かがわかるわけではない。

それでも、目が向く。

第25話からずっと続いている違和感が、

今日はもう、違和感というより気配に近かった。


榊は帳場の奥にいた。

いつも通り背筋を伸ばし、

いつも通り静かな顔をしている。

けれど、その静けさが今日は少し薄い。

崩れているわけではない。

ただ、きちんと整えられたものの奥で、

何かがずっと起きたままになっている感じがした。


「今日は、深いですね」

晋一が言うと、榊が顔を上げた。

「何がですか」

「奥」

榊は少しだけ目を細めた。

「戻らないものが近い日は、深く見えることがあります」

晋一は手を止める。

「……また最初からそういう感じですか」

「違いましたか」

「まだ何も起きてないでしょう」

「起きたことが、まだ終わっていないだけかもしれません」


晋一は小さく息をついた。


第26話のあとから、

榊に対して、前のようにはいられなくなっていた。


聞こえてた。

なかったことにしていたものが、そうではなかったのかもしれない。


あの言葉は、依頼人に向けたものだった。

でも同時に、榊自身のどこかにも返っていた。

晋一にもそれがわかった。

わかったからこそ、

これ以上踏み込んでいいのかどうかが、前より難しくなった。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、三十代後半くらいの男性だった。

黒に近い紺のシャツを着て、

髪は短く整えられている。

きちんとした印象の人だったが、

その整い方の奥に、長く言葉を置き去りにしてきた人の疲れが見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


男性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

座ってからも、膝の上で手を組み直している。


「こういうところ、初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですが」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「別れの言葉ほど、言う前より、言えなかったあとに残ることがあります」


男性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「妹のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「もう、十年以上前に亡くなっていて」

「そうですか」

「事故でした」

男性は言った。

「急で」

少し間が空く。

「最後に会ったとき、喧嘩していたんです」

店の中が、少しだけ静かになった気がした。


榊は黙って聞いている。


「大したことじゃなかったんです」

男性は続ける。

「約束を破ったとか、そういう」

「ええ」

「でも、腹が立って」

「……」

「もう知らない、みたいなことを言って」

視線を落とす。

「そのまま別れた」

少し息をつく。

「だから、さようならを言ってないんです」

榊の指先が、ほんのわずかに止まった。


晋一はそれを見た。


「言っていたら、何か違ったのか」

男性が言う。

「そんなこと、今さらわからないんですけど」

「……」

「でも、最後があれだったことだけが、ずっと残っていて」

榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し離れていく香りにしましょう」

「離れていく」

「見送る言葉は、ときどき遅れて形になります」


火が入る。

香りは静かに立った。

最初は白い花のように淡いのに、

少し遅れて、冷えた空気と古い木の匂いが混じる。

春の終わりに、誰かが立ち去ったあとの廊下みたいな、

やわらかいのに、もう戻らない気配を含んだ香りだった。


男性は目を閉じた。


見えたのは、夕方の駅前だった。


妹がいる。

まだ若い。

少し気の強そうな顔をしている。

兄に似ているところもある。

ふたりは向かい合って立っている。


「だから、前から言ってるだろ」

兄が言う。

「そっちこそ」

妹が返す。

「いつも勝手に決めるじゃん」

「心配して言ってるんだよ」

「頼んでない」

その言い方に、兄も苛立つ。

「もういい」

「いいよ、別に」

「好きにしろよ」

「そっちこそ」


大したことではない。

でも、そのときは互いに引けなかった。


妹は先に背を向ける。

兄も追いかけない。

いつもなら、少し時間を置けばどちらかが連絡した。

そういう距離だった。


でも、その日はしなかった。


場面が飛ぶ。


夜。

電話が鳴る。

事故だった。

急だった。

病院に向かう。

間に合わない。

説明の言葉が、うまく頭に入ってこない。


最後に交わした言葉だけが、

妙にはっきり残る。


好きにしろよ。

そっちこそ。


それが最後になるなんて、

思っていなかった。


場面が変わる。


葬儀のあと。

家族の泣き声。

手続き。

片づけ。

時間だけが過ぎていく。


兄は何度も思う。

せめて、じゃあまた、でもよかった。

気をつけて、でもよかった。

さようなら、でもよかった。


別れの言葉は、

永遠の別れを予感して言うものではない。

また会うつもりで交わすものだ。

だからこそ、

その普通のひと言がないまま終わると、

時間の切れ目だけがむき出しで残る。


兄はずっと、

その切れ目に触れられないまま生きてきた。


「見えましたか」


榊の声で、男性は目を開けた。

目元は少し赤い。

けれど、泣くというより、長く触れられなかった最後の形を、ようやく見つめ返した人の顔だった。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


男性は少し黙ってから言った。


「さようなら、です」

榊は黙っている。

「そんなの、普段わざわざ言わないじゃないですか」

男性は視線を落とす。

「また会うつもりなら、なおさら」

「……」

「でも、なかったんです」

少し息をつく。

「最後に、別れる言葉が」

しばらく沈黙があった。


「さようなら、は」

榊が言う。

「はい」

「終わりを受け入れた人だけが言える言葉ではありません」

男性の目がわずかに動く。

「……」

「終わると知らずに交わされる別れにも」

少し間を置く。

「本当は、あったはずの言葉です」

男性は何も言わなかった。

その言葉を、少し苦しそうに聞いていた。


「言えなかったことと」

榊が続ける。

「別れがなかったことは、別です」

男性は小さく息をつく。

「そう、ですね」

「ええ」

「別れの言葉がないまま残ると」

少し間が空く。

「人は、去ったあとも、まだ見送れていないままになります」


男性は長く息を吐いた。

それは安堵というより、

長く止まっていた時間が、少しだけ先へ進むことを許された人の息だった。


「来てよかったです」

帰る前に、男性は言った。

「ずっと、最後の喧嘩ばかり思い出していました」

少し笑う。

「でも、言えなかったのは、怒りだけじゃなかったのかもしれない」


戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「さようなら、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「ちゃんと言うには、重い言葉ですね」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「ええ」

「でも、ないまま終わると、もっと重い」

「そうかもしれません」


晋一はそこで、榊を見る。


榊の横顔は静かだった。

けれど、その静けさはもう、いつもの静けさではなかった。

何かを見送ってきた人の顔だった。

しかも一度ではなく、

ずっと同じ場所で、同じ不在を見つめてきた人の顔だった。


「……榊さん」

呼ぶと、榊は答えない。

「榊さんにも、あるんですか」

少し間が空く。

「言えなかった、さようなら」


榊の指先が止まる。


店の奥の暗がりが、

今日は急に近くなった気がした。

棚の向こうにあるものが、

ただの気配ではなく、

誰かの不在そのものみたいに見える。


榊はしばらく黙っていた。

その沈黙は長かった。

でも、拒んでいる沈黙ではなかった。

どこまで言葉にしていいのか、

自分でもまだ測っている沈黙だった。


「ありました」

榊が静かに言う。


晋一は息を止める。


「昔」

榊は店の奥を見たまま続ける。

「ひとり、いました」

「……」

「ちゃんと見送れなかった人が」

晋一は何も言えなかった。


榊は多くを語らない。

名前も言わない。

いつのことかも言わない。

死別なのか、離別なのかも、まだわからない。


でも、その“ひとりいました”の中に、

長い時間が入っているのがわかった。


「言えなかったんですか」

晋一がやっと言う。


榊は少しだけ目を伏せた。

「言うつもりでいました」

「……」

「あとで、と思っていました」

その声は静かだった。

静かなのに、

今まで聞いたどの榊の声よりも、

人の声だった。


「でも、間に合わなかった」

晋一は胸の奥が少し詰まるのを感じた。


榊は香炉の縁に指を置いたまま、

しばらく動かなかった。


「だから」

榊が言う。

「去っていく人と、残される人のあいだに」

少し間が空く。

「言葉が残るのを見ると、わかる気がするんです」

「……」

「終わったあとにしか、形にならないものがあることを」


晋一は店の奥を見る。


あそこに何があるのか、

まだわからない。

でも、ただ不思議な場所なのではなく、

榊がひとつの言葉を置き去りにしたまま、

ずっと立ち続けている場所なのかもしれないと思った。


「この店は」

晋一がぽつりと言う。

榊は答えない。

「客のためだけじゃ、ないんですね」

長い沈黙があった。


「そうであってはいけないのかもしれません」

榊が言う。

「……」

「でも」

そこで初めて、榊は少しだけ笑った。

それはいつもの、温度の薄い笑みではなかった。

うまく消しきれないものを抱えた人の、

小さく不器用な笑みだった。


「ここにいれば」

榊は静かに言う。

「まだ、見送っている途中でいられる気がすることがあります」


晋一は何も言えなかった。


それは店の説明ではなかった。

榊自身の説明でも、たぶんまだない。

でも、ここまで来て初めて、

榊がなぜこの場所にいるのかの輪郭に触れた気がした。


店は誰かを救うためだけにあるのではない。

榊自身が、

最後まで言えなかったひと言を、

完全に失わないために立っている場所でもあるのかもしれなかった。


外に出ると、夕方の光が少し白かった。

明るいのに、どこか終わりに近い色だった。


さようなら。


それは去る人に向ける言葉であると同時に、

残される側が、ようやく別れに触れるための言葉でもあるのかもしれない。


でも、言えなかった別れは、

終わったあとも、長くその場に残る。


たぶん榊は、

その残り方を知っている。


だからあの店で、

去っていく人と残される人のあいだに漂うものを、

ずっと見つめ続けているのだと、

晋一ははじめて思った。


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