第28話 「父さん」
その日は、朝から少しだけ言葉が引っかかった。
店の前を掃いた箒の先が、石畳の継ぎ目に何度か止まる。
暖簾を整えようとして、指が布の端に引っかかる。
湯呑みを並べても、ひとつだけ向きが揃わない気がする。
大したことではない。
でも、長く同じ形で置かれていたものが、
今日はどこか少しだけずれているようだった。
晋一は棚を拭きながら、店の奥を見た。
暗がりはいつも通りそこにある。
けれど今日は、何かが潜んでいるというより、
長く決まっていたものが、静かに置き直されるのを待っている場所みたいに見えた。
「今日は、引っかかりますね」
言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。
「何がですか」
「いろいろ」
榊は少しだけ目を細めた。
「言い慣れたものほど、変わるときに小さく痛むことがあります」
晋一は苦笑した。
「また最初からそういう感じですか」
「違いましたか」
「まだ何も起きてないでしょう」
「起きる前から、引っかかっていることもあります」
晋一は小さく息をついた。
あれから、
榊のことも、店のことも、
前より少しだけ“わからないまま受け取る”しかないと思うようになっていた。
全部が説明されるわけではない。
言えなかったことも、見送れなかったことも、
きれいに片づくわけではない。
それでも、少しずつ何かは動く。
そういう動き方を、
この店で何度も見てきた気がした。
戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。
入ってきたのは、六十代前半くらいの男性だった。
背は高くないが、肩幅のある人で、
濃い灰色の上着をきちんと着ている。
顔立ちは厳しめだが、
その厳しさの奥に、長くほどけなかったものを持っているように見えた。
「いらっしゃいませ」
榊が声をかける。
男性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。
座ってからも、膝の上に置いた手を何度か組み直している。
「こういうところ、初めてで」
「はい」
「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですが」
「わからないままで構いません」
榊が言う。
「長く決まっていた呼び方ほど、変えられないまま残ることがあります」
男性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
「父のことなんです」
晋一は手を止めた。
榊は静かにうなずく。
「もう亡くなって、七年になります」
「そうですか」
「厳しい人で」
男性は言った。
「昔気質というか、家ではあまり笑わない人でした」
「ええ」
「私も、ずっと“親父”としか呼べなくて」
少し間が空く。
「それで別に困っていたわけじゃないんです」
「……」
「でも、最後の入院のとき」
視線を落とす。
「一度だけ、違う呼び方が喉まで出たんです」
店の中が、少しだけ静かになった気がした。
榊は黙って聞いている。
「父さん、って」
男性は言った。
「でも、言えなかった」
「……」
「今さら何だって気がして」
少し苦く笑う。
「気恥ずかしいし、似合わないし」
「はい」
「結局、最後まで“親父”のままでした」
榊は香皿を引き寄せた。
「今日は、少し近づく香りにしましょう」
「近づく」
「長く離れていたものが、急には変わらなくても」
少し間を置く。
「呼び方だけ先に揺れることがあります」
火が入る。
香りは静かに立った。
乾いた木の匂いの奥に、古い紙と、少しだけ陽の当たった布の匂いが混じる。
懐かしいというほど甘くはない。
でも、長く使われたものにだけ残る体温のような気配があった。
男性は目を閉じた。
見えたのは、古い家の居間だった。
父が座っている。
新聞を広げている。
子どものころの自分は、少し離れたところに立っている。
何か言いたいことがある。
でも、どう呼べばいいのかわからない。
「……ねえ」
そんなふうに声をかける。
父は新聞から目を上げる。
「何だ」
名前で呼ぶことはない。
“お父さん”でもない。
“父さん”でもない。
“親父”と呼ぶには、まだ子どもすぎる。
呼び方のないまま、
父はずっと父だった。
場面が変わる。
少し大きくなった自分がいる。
反抗期だったのかもしれない。
父は相変わらず厳しい。
門限、成績、就職。
何を言っても、まず否定から入るように思えた。
「親父はさ」
そう言い返したとき、
初めてその呼び方が口に馴染んだ気がした。
親しさではない。
少し突っぱねるための呼び方だったのかもしれない。
でも、それ以降ずっと、
父は“親父”になった。
場面が変わる。
社会人になってからの父がいる。
年を取って、
昔ほど声を荒げなくなっている。
それでも会話は多くない。
実家に帰っても、
テレビを見ながら二、三言交わす程度だ。
「仕事は」
「まあまあ」
「そうか」
それだけで終わる。
でも、帰ると食卓には好物が出ていたりする。
母が用意したのか、
父が言ったのかはわからない。
そういうことも、確かめないまま過ぎていく。
また場面が変わる。
病室だった。
父は痩せて、
前よりずっと小さく見える。
それでも、顔つきだけは昔のままだ。
男性はベッドのそばに立っている。
「親父」
呼ぶ。
父は目を開ける。
「何だ」
その声も、もう弱い。
何か言おうとする。
喉のあたりまで、
別の呼び方が上がってくる。
父さん。
でも、出ない。
今さらそんなふうに呼んだら、
自分でも驚くし、
相手も驚くだろうと思った。
照れくさい。
似合わない。
そんなことを考えているうちに、
結局いつもの言葉に戻る。
「……また来る」
父は小さくうなずく。
そのあと、
何度か見舞いに行った。
でも、とうとう言えなかった。
父さん。
たったそれだけのことなのに、
長く決まっていた距離の中では、
思っていたよりずっと重かった。
「見えましたか」
榊の声で、男性は目を開けた。
目元は少し赤い。
けれど、泣くというより、
長く変えられなかったものの形を、
ようやく自分で見つめた人の顔だった。
「はい」
「何を言えなかったのですか」
男性は少し黙ってから言った。
「父さん、です」
榊は黙っている。
「たったそれだけなんですけど」
男性は視線を落とす。
「最後まで言えなかった」
「……」
「親父で困ってたわけじゃないんです」
少し息をつく。
「でも、一度だけ、そう呼びたかった」
しばらく沈黙があった。
「呼び方は」
榊が言う。
「はい」
「相手との距離だけでなく」
少し間を置く。
「自分が、その人の前でどういう子どもでいたかの形でもあります」
男性の目がわずかに動く。
「……」
「変えられなかったことと」
榊が続ける。
「変えたかったことは、別です」
男性は何も言わなかった。
その言葉を、少し痛そうに聞いていた。
「今さら、ですよね」
男性がぽつりと言う。
「そうかもしれません」
榊は静かに答える。
「でも、今さらと思うところまで来たからこそ」
「……」
「その呼び方が、喉まで来たのかもしれません」
男性は長く息を吐いた。
それは後悔が消えた息ではなかった。
でも、言えなかったことの中に、
確かに動いていた気持ちがあったと認められた人の息だった。
「来てよかったです」
帰る前に、男性は言った。
「呼べなかったことばかり気にしていました」
少し笑う。
「でも、呼びたかったんだとは思えました」
戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。
晋一はしばらく黙っていた。
榊も何も言わない。
「父さん、って」
晋一がぽつりと言う。
「はい」
「変ですよね」
榊は顔を上げる。
「何がですか」
「今さら、って感じがするでしょう」
「そうでしょうか」
「だって、長年そうじゃなかったのに」
「長年そうでなかったからこそ」
榊は静かに言う。
「別の呼び方が、急に重くなることがあります」
晋一は返事をしなかった。
その日の夕方、
妹から短い連絡が来た。
――今日、行ける?
薬、ちゃんと飲んでるか見てほしい。
晋一は少し迷ってから、
わかった、とだけ返した。
父の家に着くと、
玄関の前に小さな植木鉢がひとつ増えていた。
妹が持ってきたのか、
父が自分で買ったのかはわからない。
呼び鈴を押すと、
少し間があってから扉が開く。
「来たのか」
父が言う。
「頼まれたから」
晋一は答える。
「そうか」
いつものやりとりだった。
居間に入る。
テレビはついているが、音は小さい。
薬の袋がテーブルに置かれている。
晋一はそれを手に取る。
「昨日の分、残ってる」
「あとで飲むつもりだった」
「そういうの、よくないだろ」
「わかってる」
「わかってるなら」
そこで言葉が止まる。
父は少し眉を寄せる。
「おまえは、いちいち」
晋一も少し苛立つ。
「何だよ」
「……いや」
「言いたいことあるなら言えよ」
父はしばらく黙っていた。
それから、少し視線を逸らして言う。
「来るなら、来るで」
「……」
「そんなに見張るみたいにするな」
晋一は一瞬、言い返しかけてやめた。
前なら、そこでまたぶつかっていたかもしれない。
でも今日は、
店で聞いた話が、まだどこかに残っていた。
「見張ってるわけじゃない」
晋一は言う。
「じゃあ何だ」
「……気になるだけだよ」
父は何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
晋一は薬の袋を揃えながら、
次に何を言うでもなく口を開いた。
「父さん」
自分でも、言ってから気づいた。
部屋の空気が、ほんの少し止まる。
父が顔を上げる。
晋一も固まる。
今のは何だ、と自分で思う。
言おうとして言ったわけではない。
ただ、その場でいちばん自然に出たのが、その呼び方だった。
父はしばらく晋一を見ていた。
それから、何事もなかったみたいに視線を落とす。
「……薬、そこに置いといてくれ」
晋一は返事ができなかった。
置いとけ、ではなかった。
ほんの少しだけ、
言い方がやわらかかった。
それだけだった。
それだけなのに、
長く固まっていた何かが、
音もなく置き直された気がした。
晋一は薬を揃えて、テーブルの端に置く。
父はそれを見て、
少し間を置いてから言った。
「おまえが小さいころ」
晋一は顔を上げる。
父は視線を合わせないまま続ける。
「どう言えばいいか、わからんことがあった」
「……」
「怒るしかないみたいになってた」
晋一は何も言えなかった。
父も、こちらを見ない。
「別に」
父が言う。
「今さら言うことでもないが」
少し咳払いをする。
「まあ……そういうことも、あった」
謝っているわけではない。
説明しているわけでもない。
でも、その不器用な言い方の中に、
父なりに口に出せるぎりぎりのものが入っているのはわかった。
晋一はすぐには返せなかった。
許したわけでもない。
全部わかったわけでもない。
でも、
前みたいに突っぱねたい気持ちも起きなかった。
「……そう」
それだけ言う。
父は小さくうなずいた。
帰るとき、
玄関で靴を履きながら、
晋一は一度だけ振り返った。
父は居間の奥に立っている。
少し小さくなった背中だった。
でも、昔の父の気配もまだ残っている。
「じゃあ」
晋一が言う。
父はうなずく。
「また」
「……ああ」
その“ああ”も、
前より少しだけやわらかかった。
外に出ると、夕方の空気は少し乾いていた。
冷たいわけではない。
でも、長く閉まっていた引き出しが、
ほんの少しだけ開いたあとの空気みたいだった。
父さん。
たったそれだけの呼び方で、
何かが解決するわけではない。
昔のことは消えない。
言えなかったことも、
されたことも、
なかったことにはならない。
それでも、
長く決まっていた距離が、
ほんの少しだけ動くことはある。
晋一はそんなことを思いながら、
ゆっくり歩いた。




