第29話 「ありがとう、母さん」
その日は、朝の光がやけに静かだった。
明るくないわけではない。
曇っているわけでもない。
ただ、店の中に差し込む光が、
何かを照らすというより、
長くそこにあったものの輪郭を、そっとなぞっていくように見えた。
晋一は湯呑みを並べながら、
ふと最初のころのことを思い出していた。
この店に来たばかりのころ。
まだ何もわからず、
何も受け止められず、
ただ自分の中に引っかかったものだけを持て余していたころ。
母のことを考えるたび、
最初に浮かぶのはいつも、
言えなかった“ありがとう”だった。
でも今は、
それだけではない気がしていた。
言えなかったことは、たしかに残っている。
けれど、その残り方が、
前とは少し違って見え始めていた。
「今日は、静かですね」
晋一が言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。
「何がですか」
「光」
榊は少しだけ目を細めた。
「同じ言葉でも、戻ってくるときには別の形をしていることがあります」
晋一は手を止める。
「……また最初からそういう感じですか」
「違いましたか」
「まだ何も起きてないでしょう」
「戻ってくるものは、起きる前から少し似ています」
晋一は小さく息をついた。
あの日から、
父との距離は、劇的に変わったわけではなかった。
相変わらず会話は少ないし、
気まずさも残っている。
それでも、
“父さん”と呼んだあの一度きりのことが、
思っていたより長く自分の中に残っていた。
呼び方ひとつで、
過去が変わるわけではない。
でも、今の自分の立ち位置が少し変わることはある。
その感覚が、
今日は母の記憶の方にも、静かに触れていた。
戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。
入ってきたのは、五十代くらいの女性だった。
薄いベージュのコートを着て、
髪は後ろでひとつにまとめている。
落ち着いた印象の人だったが、
その落ち着きの奥に、長く整理しきれなかった感情が静かに沈んでいるように見えた。
「いらっしゃいませ」
榊が声をかける。
女性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。
座ってからも、鞄の持ち手を指先でなぞっている。
「こういうところ、初めてで」
「はい」
「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」
「わからないままで構いません」
榊が言う。
「感謝の言葉ほど、きれいな形のままでは残らないことがあります」
女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
「母のことなんです」
晋一は手を止めた。
榊は静かにうなずく。
「もう、八年になります」
「そうですか」
「最後の数年、介護をしていて」
女性は言った。
「正直、きれいな気持ちばかりじゃなかったんです」
「ええ」
「優しくできない日もあったし」
少し間が空く。
「早く終わってほしいと思ったことも、ありました」
店の中が、少しだけ静かになった気がした。
榊は黙って聞いている。
「亡くなったあと」
女性は続ける。
「ありがとうって言えばよかった、ってずっと思っていました」
「……」
「でも、その“ありがとう”も」
視線を落とす。
「何に対してなのか、自分でもよくわからなくて」
少し苦く笑う。
「世話をしてくれたことなのか、育ててくれたことなのか」
「はい」
「それとも、最後まで面倒を見させたことまで含めてなのか」
榊は香皿を引き寄せた。
「今日は、少し残りものの香りにしましょう」
「残りもの」
「きれいに片づかなかった気持ちほど」
少し間を置く。
「あとから、別の形で匂い立つことがあります」
火が入る。
香りはすぐには立たなかった。
少し遅れて、湯気のようなやわらかさと、
古い木の棚に染みついた甘い匂いが静かに広がる。
台所の奥に長く残る、
食事のあととも、暮らしのあとともつかない、
誰かと生きた時間そのものみたいな香りだった。
女性は目を閉じた。
見えたのは、台所だった。
母がいる。
背中を向けて、何かを煮ている。
鍋の蓋が少し鳴る。
子どものころの自分は、
その背中を見ながら、何かを話している。
学校のことかもしれない。
友だちのことかもしれない。
母はちゃんと聞いているのかいないのか、
曖昧な返事をしながら手を動かしている。
「あとでね」
「今、手が離せないから」
そんな言葉も多かった。
でも、食卓にはいつも何かが並んでいた。
洗濯物は畳まれていた。
朝になれば弁当があった。
当たり前すぎて、
それをひとつずつ受け取っていたとは思わなかった。
場面が変わる。
少し大人になった自分がいる。
母は相変わらず口うるさい。
帰りが遅いと文句を言う。
食べたのかと聞く。
上着を着ろと言う。
そんなことばかりだ。
うるさい、と思う。
放っておいてほしい、と思う。
でも、放っておかれると、それはそれで腹が立つ。
感謝なんて、
そのころは考えたこともなかった。
また場面が変わる。
母が弱っていく。
通院が増える。
できないことが増える。
同じことを何度も聞く。
夜中に起きる。
食事をこぼす。
着替えに時間がかかる。
娘は世話をする。
仕事の合間に病院へ行く。
買い物をする。
洗濯をする。
苛立つ。
言わなくていいことまで言ってしまう。
「さっきも言ったでしょ」
「なんでそんなこともできないの」
言ったあとで、自己嫌悪になる。
でも、次の日にはまた同じことを繰り返す。
母も黙る日が増える。
昔みたいに言い返さない。
それが余計につらい。
場面が少し曇る。
ある夜、
食事をほとんど食べなかった母に向かって、
娘はきつい声を出してしまう。
「ちゃんとしてよ」
母は何も言わない。
ただ、少しだけ目を伏せる。
その顔が、
あとになって何度も残る。
優しくしたかったわけではない。
でも、あんな言い方をしたかったわけでもない。
そのあいだに、
感謝も、苛立ちも、疲れも、情けなさも、
全部が混ざっていく。
最後のころ、
何か言わなければと思った。
ありがとう。
ごめん。
おつかれさま。
いろいろな言葉が浮かぶ。
でも、どれもきれいすぎる気がした。
ありがとう、だけでは足りない。
ごめん、だけでも違う。
好きだった、でもない。
嫌だったことも、たくさんあった。
だから結局、
何もちゃんとした形では言えなかった。
母が亡くなったあと、
残ったのは、
言えなかった“ありがとう”だった。
でもそれは、
ただ感謝していた、という意味ではない。
うるさかった。
面倒だった。
腹も立った。
逃げたかった日もあった。
それでも、
あの人のしていたことの上に、
自分の毎日が乗っていた。
そのことを、
もっと早く知っていればよかったと思う。
でも、知るのが遅かったからといって、
受け取っていなかったことにはならないのかもしれない。
ありがとう、は
きれいな気持ちだけに向ける言葉ではない。
うまく愛せなかったことも、
十分に返せなかったことも、
面倒だと思ったことも、
全部抱えたまま、
それでも確かに受け取っていたものに向けて言う言葉なのかもしれない。
「見えましたか」
榊の声で、女性は目を開けた。
目元は少し赤い。
けれど、泣くというより、
長く混ざったままだった感情の輪郭を、
ようやくそのまま見つめられた人の顔だった。
「はい」
「何を言えなかったのですか」
女性は少し黙ってから言った。
「ありがとう、です」
榊は黙っている。
「でも、きれいなありがとうじゃないんです」
女性は視線を落とす。
「もっと優しくできればよかったとか」
「……」
「腹を立てたこととか」
少し息をつく。
「そういうのが全部混ざっていて」
しばらく沈黙があった。
「感謝は」
榊が言う。
「はい」
「きれいに整理された気持ちの中にだけあるものではありません」
女性の目がわずかに動く。
「……」
「うまく愛せなかったことと」
榊が続ける。
「受け取っていなかったことは、別です」
女性は何も言わなかった。
その言葉を、少し痛そうに聞いていた。
「でも」
女性がぽつりと言う。
「もっとちゃんとできた気がするんです」
榊はすぐには答えなかった。
「そう思うのでしょう」
「……」
「けれど」
少し間が空く。
「ちゃんとできなかった自分ごと残るからこそ、言葉になることもあります」
女性は長く息を吐いた。
それは救われた息というより、
自分の中でずっと分けようとして分けきれなかったものを、
ようやく混ざったまま置けた人の息だった。
「来てよかったです」
帰る前に、女性は言った。
「ありがとうって、もっときれいな言葉だと思っていました」
少し笑う。
「でも、そうじゃなくてもいいのかもしれませんね」
戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。
晋一はしばらく黙っていた。
榊も何も言わない。
「ありがとう、って」
晋一がぽつりと言う。
「はい」
「もっと、ちゃんとした人が言う言葉みたいに思ってました」
榊は顔を上げる。
「そうでしょうか」
「だって」
晋一は少し笑う。
「感謝してるなら、もっと優しくできただろって思うし」
「ええ」
「腹も立てるし、逃げたくもなるし」
「はい」
「それでありがとうって、都合がいい気もする」
榊はしばらく黙っていた。
それから静かに言う。
「都合のよい言葉でなければ」
「……」
「人は、もっと早く言えているのかもしれません」
晋一は返事をしなかった。
その言葉は、
少し意地が悪いようでいて、
でも本当のことでもあった。
店の奥を見る。
今日は暗がりの向こうに、
何かがあるというより、
長く言えなかった言葉が、
ようやく元の場所へ戻っていく気配があった。
「最初のころ」
晋一が言う。
榊は黙って聞いている。
「俺、母親にありがとうって言えなかったことばっかり考えてました」
「ええ」
「それさえ言えてたら、何か違ったみたいに」
少し間が空く。
「でも、たぶん違わないですね」
榊はすぐには答えなかった。
「違わないこともあります」
「……」
「けれど」
少し間を置く。
「同じ言葉でも、戻ってきたときには、別の意味を持つことがあります」
晋一は目を伏せた。
母のことを思い出す。
やさしかったことだけではない。
うるさかったこともある。
勝手に決められて腹が立ったこともある。
何でもわかっているみたいな顔が嫌だったこともある。
でも、具合が悪いときに黙ってお粥を置いていったことも、
朝、起きると弁当ができていたことも、
帰りが遅い日に玄関の音を待っていた気配も、
今なら思い出せる。
あの人のしていたことの上に、
自分の毎日があった。
それを、
当たり前だと思っていた。
ありがとう、母さん。
心の中でそう言う。
最初のころと同じ言葉だった。
でも、意味はもう違っていた。
あのときは、
言えなかったことを取り返したかった。
後悔を少しでも埋めたかった。
届くかどうかを確かめたかった。
今は違う。
言えなかったまま、
ここまで生きてきた。
そのことは消えない。
もっと優しくできたかもしれないし、
できなかった自分も本当だ。
でも、
それでも受け取っていたものがあったことまで、
なかったことにはしたくなかった。
ありがとう、母さん。
それは過去をやり直すための言葉ではなかった。
言えなかった自分を、
全部許すための言葉でもなかった。
ただ、
言えなかったまま生きてきた自分ごと、
ようやく少し引き受けるための言葉だった。
晋一は長く息を吐いた。
榊は何も言わない。
でも、その沈黙は、
最初のころの遠い沈黙とは違っていた。
見届けるような、
それでいて踏み込みすぎない沈黙だった。
「同じ言葉でも」
晋一がぽつりと言う。
「はい」
「こんなに違うんですね」
榊は静かにうなずいた。
「戻ってくるまでに、時間が入っていますから」
外に出ると、夕方の光はやわらかかった。
明るいのに、どこか終わりに近い色をしている。
でも、それは消えていく色というより、
一日をちゃんと終わらせるための色に見えた。
ありがとう、母さん。
その言葉は、
もう後悔だけの中にはなかった。
抱えたまま進むために、
ようやく自分の中へ戻ってきた言葉だった。




