最終話「ただいま」
その日は、夕方の光がやけにまっすぐだった。
店の前の路地に差し込む西日が、
石畳の継ぎ目を一本ずつなぞるように伸びている。
明るいのに、騒がしさはない。
一日の終わりに近い光なのに、
何かが閉じていくというより、
ようやく帰る場所の輪郭が見えてくるような明るさだった。
晋一は、暖簾の前で少し立ち止まった。
今日は呼ばれたわけではない。
頼まれごとがあったわけでもない。
それでも、ここへ来るのが自然だった。
最初のころは、
この店に来るたび、自分の中の引っかかりを持て余していた。
母のこと。
父のこと。
元妻のこと。
言えなかったこと。
言わなかったこと。
遅すぎたこと。
ここに来れば何かわかるのかもしれないと思いながら、
本当は、何かを取り戻したかったのだと思う。
でも今は、
取り戻せないものがあることを知っている。
言えなかったことは、言えなかったままだ。
失った時間も、戻らない。
それでも、
戻らないまま生きていくことはできるのかもしれないと、
少しだけ思えるようになっていた。
暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ」
榊の声は、いつも通り静かだった。
店の中は変わらない。
棚の並びも、
帳場の奥の暗がりも、
香のかすかな匂いも、
何ひとつ変わっていないように見える。
けれど晋一には、
最初にここへ来た日の店とは、
もう同じ場所には見えなかった。
変わったのは店ではなく、
たぶん自分の方だった。
「今日は、客じゃないんですけど」
晋一が言うと、
榊は少しだけ目を細めた。
「そうですか」
「邪魔でしたか」
「いいえ」
榊は静かに答える。
「帰ってくる人を、邪魔だと思うことはありません」
晋一は少しだけ笑った。
「帰ってきた、ですか」
「違いましたか」
「……どうでしょうね」
「そういう顔をしています」
晋一は返事をしなかった。
勧められるまま椅子に座る。
湯気の立つ湯呑みが置かれる。
手に取ると、ちょうどいい熱さだった。
しばらく、ふたりとも何も言わなかった。
沈黙は重くなかった。
最初のころなら、
何か言わなければならない気がして落ち着かなかっただろう。
でも今は、
言葉にならない時間があること自体を、
前ほど怖いとは思わなかった。
「結局」
晋一がぽつりと言う。
榊は顔を上げる。
「何がですか」
「言えなかったことって、消えないですね」
榊は少しだけ目を伏せた。
「消えないものもあります」
「ですよね」
晋一は湯呑みを見たまま言う。
「母親のことも」
少し間が空く。
「父のことも」
さらに少し間を置く。
「ほかにも、いろいろ」
榊は黙って聞いている。
「ちゃんと片づいた感じは、しないです」
「ええ」
「前より少しわかった気はするんですけど」
晋一は苦く笑う。
「わかったからって、すっきりするわけでもないんですね」
榊はすぐには答えなかった。
それから静かに言う。
「わかったことが」
「……」
「そのまま、軽くなるとは限りません」
晋一は小さくうなずいた。
「そうですね」
「ただ」
榊が続ける。
「重さの置き場所が変わることはあります」
晋一は顔を上げた。
「置き場所」
「はい」
「前は、言えなかったことそのものに押されていたものが」
少し間を置く。
「それを抱えたまま、どこに立つかに変わることがあります」
晋一はその言葉を、すぐには返せなかった。
言えなかったことは消えない。
でも、それだけに押しつぶされる場所からは、
少しずつ動けるのかもしれない。
その感覚は、
このところ自分の中にあったものに近かった。
母に言えなかった“ありがとう”。
父に長く言えなかった“父さん”。
元妻に返せなかった言葉。
どれも消えていない。
どれも、きれいに終わっていない。
それでも、
それだけが自分の人生ではないと、
ようやく思えるところまで来ていた。
「この店」
晋一が言う。
榊は黙って聞いている。
「最初は、言えなかった言葉を探す場所みたいに思ってました」
「ええ」
「でも、今は少し違う気がします」
榊は何も言わない。
「探すっていうより」
晋一は店の奥を見る。
棚の向こうの暗がりは、
今日も静かにそこにある。
でも、もうただ不思議な場所には見えなかった。
「残ったものを、ちゃんと残ったまま見てる場所っていうか」
少し言葉を探す。
「それで、そこから帰る場所を間違えないための場所、みたいな」
榊はしばらく黙っていた。
「そうかもしれません」
やがて、静かに言う。
「間違えないため、ですか」
「失くした方にばっかり行かないように」
晋一は少し笑う。
「そういう感じです」
榊はその言葉を、少し長く受け止めていた。
「人は」
榊が言う。
「はい」
「失くしたものの方へ、何度でも引かれます」
「……」
「戻れないとわかっていても」
晋一は黙っている。
「けれど」
少し間が空く。
「戻れないことと、帰れないことは別です」
晋一は息を止めた。
その言葉は、
今日ここへ来てから、
いちばん深く胸に入ってきた。
戻れないことと、帰れないことは別。
母のいる時間には戻れない。
子どものころにも戻れない。
言えなかったことを言える過去にも戻れない。
でも、
だからといって、
自分が帰る場所まで失ったわけではない。
今の生活。
今の時間。
今の自分が立っている場所。
そこへ帰ることは、
まだできるのかもしれない。
「……そうですね」
晋一はゆっくり言った。
「たぶん、俺」
少し笑う。
「ずっと混ぜてたんだと思います」
榊は黙っている。
「戻れないなら、もう帰る場所もないみたいに」
「ええ」
「でも、違うんですね」
榊は小さくうなずいた。
「違うことがあります」
店の中は静かだった。
外では、誰かの自転車が通り過ぎる音がした。
遠くで、夕方の放送のようなものがかすかに流れている。
ありふれた時間だった。
特別なことは何も起きていない。
でも晋一には、
そのありふれた時間の中にいることが、
前よりずっとはっきり感じられた。
「榊さん」
呼ぶと、榊が顔を上げる。
「はい」
「ここに来て、よかったです」
榊は何も言わなかった。
でも、その沈黙は遠くなかった。
「最初は」
晋一が言う。
「何か答えがあるのかと思ってました」
少し笑う。
「ずいぶん勝手ですけど」
「そうでしょうか」
「だって、来れば何とかなるみたいに思ってたから」
「何とかなりましたか」
晋一は少し考えた。
それから、首を横に振る。
「何とかなった、とは違いますね」
「ええ」
「でも」
湯呑みを置く。
「前より、自分の人生の中に戻れる気はします」
榊は静かにうなずいた。
「それなら、十分です」
晋一はその言葉に、
少しだけ胸の奥がほどけるのを感じた。
十分。
全部解決しなくてもいい。
全部言い直せなくてもいい。
全部わからなくてもいい。
それでも、
自分の人生の中に戻れるなら、
それでいいのかもしれない。
「榊さんは」
晋一が言いかけて、少し止まる。
榊は待っている。
「まだ、ここにいるんですね」
榊は少しだけ目を細めた。
「ええ」
「見送るために」
晋一が言うと、
榊はすぐには答えなかった。
店の奥の暗がりに、
一瞬だけ視線を向ける。
「そうかもしれません」
静かな声だった。
「まだ、見送っている途中のものがありますから」
晋一はその言葉を、追わなかった。
もう、追わなくていい気がした。
榊にまだ残っているものがあることはわかる。
言えなかった言葉も、
見送れなかった時間も、
たぶんまだここにある。
でもそれを、
自分が全部知る必要はないのだと思えた。
知らないままでも、
受け取れるものがある。
踏み込まないままでも、
わかることがある。
それもまた、
この店で覚えたことのひとつだった。
晋一は立ち上がる。
「帰ります」
そう言うと、
榊は静かにうなずいた。
「はい」
「また来る、かどうかは」
晋一は少し笑う。
「わかりませんけど」
榊も、ほんの少しだけ笑った。
「そういうものです」
「ですね」
「ただ」
榊が言う。
「はい」
「帰る場所がわかっているなら」
少し間を置く。
「それで十分です」
晋一は小さくうなずいた。
暖簾をくぐる。
外はもう、夕方から夜に変わりかけていた。
空気は少しひんやりしている。
でも、寒くはない。
路地を歩きながら、
晋一は振り返らなかった。
振り返れば、
店はきっといつも通りそこにあるだろう。
でも今は、
確かめなくてもいい気がした。
歩きながら、
母のことを思う。
父のことを思う。
元妻のことも、
榊のことも思う。
言えなかったことは残っている。
残ったまま、
これからもふとした拍子に痛むのだろう。
それでも、
その痛みだけが自分ではない。
自分には、
今日の夕飯をどうするか考える時間がある。
洗いかけの食器がある。
返していない連絡がある。
明日の朝が来る。
そういう、取り立てて特別ではない生活がある。
失ったものの向こうではなく、
そのこちら側に、
自分の時間は続いている。
部屋の前に着く。
鍵を取り出し、
いつものように扉を開ける。
暗い玄関。
見慣れた靴。
少し冷えた空気。
何も変わっていない。
でも、
何も変わっていないその場所に、
今日はちゃんと自分が戻ってきた気がした。
晋一は靴を脱いで、
小さく息をつく。
それから、
誰に聞かせるでもなく、
ごく自然に言った。
「ただいま」
声は静かな部屋に落ちて、
すぐに消えた。
返事はない。
けれど晋一は、
その返事のなさを、
もう空っぽだとは思わなかった。
戻ってきたのは、
失われた過去ではない。
言い直せる時間でもない。
言えなかったことを抱えたまま、
それでも続いていく、
自分の今の人生だった。
晋一は部屋の明かりをつける。
白い光が、いつもの狭い部屋を照らす。
その明るさの中で、
ようやく少しだけ、
自分のいる場所に輪郭が戻る。
ただいま。
その言葉は、
誰かに向けたものでもあり、
自分自身に向けたものでもあった。
言えなかったひと言を、
全部取り戻せたわけではない。
それでも、
言えなかったまま生きていく自分に、
最後に返す言葉としては、
それで十分だった。




