第8話 「寂しかった」
その知らせを、偶然と呼んでいいのか、晋一にはわからなかった。
昼休み、会社の一階にあるコンビニで、ペットボトルの水とサンドイッチを持ってレジに並んでいたときだった。
前にいた二人の女性社員が、声をひそめるでもなく話していた。
「そういえば、見たよ」
「何を?」
「高梨さん」
「え、ほんとに?」
「うん。駅前で。男の人と一緒だった」
「ああ、あの人、再婚したって聞いた」
「そうなんだ」
「なんか、幸せそうだったよ」
高梨。
その苗字を、晋一は一瞬、自分と関係のないものとして聞いた。
けれど次の瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
元妻の旧姓だった。
レジの前で、列が少し進む。
女性たちはもう別の話をしている。
晋一だけが、その場に取り残されたみたいだった。
幸せそうだったよ。
たったそれだけの言葉が、妙に残った。
責められたわけでもない。
何かを奪われたわけでもない。
もう終わった関係だと、自分でも思っていた。
それでも、その一言は、思っていたより深く沈んだ。
会計を済ませ、コンビニを出る。
外は薄曇りで、陽射しは弱いのに、空気だけが妙にぬるかった。
昼食の味は、ほとんどしなかった。
午後の会議で何が話されたのか、晋一は半分も覚えていなかった。
資料の数字を追いながら、頭のどこかで、別のことばかり考えていた。
幸せそうだった。
それは、よかった、と思うべきことのはずだった。
実際、そう思おうとした。
けれど、その言葉の前で、自分の中の何かがうまく整わない。
自分と別れたあとで、あの人はちゃんと幸せになった。
その事実が、安堵より先に、鈍い痛みとして来る。
それは未練なのか、罪悪感なのか、自尊心の傷なのか、自分でもよくわからなかった。
夜、会社を出るころには、空はすっかり灰色に沈んでいた。
雨は降っていない。
けれど、降り出す直前みたいな匂いが、街の隙間にたまっている。
晋一は少し迷ってから、あの店へ向かった。
細い路地に入ると、外の音が遠のく。
石畳は昼の熱をもう失っていて、足元から冷えが上がってくる。
「香舗 くらやみ」
戸を開けると、木と灰と、かすかな甘さの混じる匂いがした。
「いらっしゃいませ」
榊が顔を上げる。
「こんばんは」
「今日は、少し遅いですね」
「そうですか」
「迷っていた時間の分かもしれません」
晋一は苦笑した。
「そういうの、わかるんですか」
「顔に出る方は、わかります」
「出てますか」
「少し」
晋一は椅子に座った。
榊は湯を沸かしながら、何も急かさない。
「元妻の話を聞きました」
晋一が言う。
「はい」
「偶然、会社で」
榊は黙ってうなずく。
「再婚したらしいです」
「そうですか」
「幸せそうだったって」
そこで晋一は少し笑った。
「別に、何もおかしくないんですけどね」
「ええ」
「もう終わったことだし」
「はい」
「なのに、なんか」
言葉が止まる。
榊は待つ。
「……うまく飲み込めなくて」
榊が香皿を引き寄せた。
「今日は、少し湿った香りにしましょう」
「湿った」
「乾いていない記憶には、その方が近いことがあります」
火が入る。
香りはすぐには立たず、少し遅れて、やわらかく広がった。
雨の前の土みたいな、重さのある匂いだった。
晋一は目を閉じた。
見えたのは、見知らぬ女ではなかった。
三十代半ばくらいの女性が、店の椅子に座っていた。
髪をひとつにまとめ、膝の上で指を組んでいる。
姿勢のきれいな人だった。
けれど、そのきれいさが、どこか張りつめて見えた。
「何か、お探しですか」
榊の声がする。
女性は少し迷ってから、言った。
「言えなかったことがあって」
「はい」
「今さらなんですけど」
「ええ」
「夫に、言えなかったんです」
そこで女性は、少しだけ笑った。
笑ったというより、口元を整えた、という方が近い。
「寂しかった、って」
晋一の胸の奥が、わずかに動いた。
場面が近づく。
女性の話は、よくある夫婦の話に聞こえた。
夫は仕事が忙しく、帰りが遅い。
休日も疲れて寝ていることが多い。
会話はある。喧嘩もない。生活は回っている。
けれど、何かが少しずつ減っていく。
「最初は、仕方ないと思ってたんです」
女性は言う。
「忙しい時期なんだろうって」
榊は黙って聞いている。
「でも、ずっとそうだと、だんだん、自分がいなくても同じなんじゃないかって思えてきて」
「……」
「でも、寂しいって言うの、なんか」
女性は視線を落とした。
「責めてるみたいじゃないですか」
「そう思われたくなかった」
「はい」
「重いとも思われたくなかったし、面倒だとも思われたくなかった」
その言葉に、晋一は息を止めた。
面倒だと思われたくない。
それは、ずいぶん聞き覚えのある響きだった。
場面が変わる。
女性が、夜の食卓で向かいに座っている。
夫はスマートフォンを見ながら、遅い夕食をかき込んでいる。
女性は味噌汁の椀を持ったまま、何か言おうとして、やめる。
「今日、どうだった」
夫が聞く。
「別に」
「そっか」
「うん」
それだけで会話が終わる。
本当は、そのあとに続くはずだった言葉がある。
今日、ひとりでごはん食べるの、寂しかった。
帰ってきても、あなたがずっとスマホ見てるの、寂しかった。
話しかけるのを迷うの、寂しかった。
でも、そのどれも言えない。
言えば、困らせる気がした。
疲れている相手に、さらに何かを背負わせる気がした。
だから飲み込む。
飲み込んで、平気な顔をする。
その顔を、夫は信じる。
場面がまた変わる。
洗面所の前で、女性がひとりで歯を磨いている。
鏡の中の自分を見ながら、ふいに涙が落ちる。
泣くほどのことじゃない、と自分で思う。
でも、泣いている。
その姿が、妙に静かで、晋一は目をそらしたくなった。
「言わなかったんですね」
榊の声がする。
「言えませんでした」
女性は答える。
「一度も?」
「……たぶん」
少し考えてから、首を振る。
「ちゃんとは、一度も」
「どうして」
「言ったら、終わる気がしたんです」
「終わる」
「この人は、私が寂しいって言っても、何も変わらないんだって、はっきりするのが怖かった」
晋一はそこで、胸の奥を鈍く殴られたみたいな気がした。
言われなかったから、問題がなかったわけじゃない。
言われなかったのは、言っても無駄だと思われていたからかもしれない。
あるいは、言ったことで壊れるくらいなら、黙っていた方がましだと思われていたからかもしれない。
その可能性が、遅れて胸に入ってくる。
場面が、また変わる。
自分の家だった。
元妻が、洗い物をしている。
背中越しに、「最近、遅いね」と言う。
自分はネクタイを緩めながら、「今ちょっと立て込んでて」と答える。
元妻は少し黙ってから、「大丈夫?」と聞く。
自分は、何も考えずに「大丈夫」と返す。
そのとき、元妻が何を飲み込んだのか、今になってわかる気がした。
別の日。
ソファに座る元妻が、テレビを見たまま言う。
「ねえ、今度の日曜、空いてる?」
「たぶん無理」
「そっか」
「何かあった?」
「ううん、別に」
別に、の中に何が入っていたのか。
そのときの自分は、考えもしなかった。
また別の日。
「晋一くんって、私がいなくても平気そうだよね」
冗談みたいに笑って言われたその一言を、晋一は思い出した。
あのとき、自分は何と返しただろう。
たしか、そんなことないよ、と笑った。
笑って、それで終わらせた。
終わらせたのは、自分だったのかもしれない。
「見えましたか」
榊の声で、晋一は目を開けた。
香りはまだ細く残っている。
湿った匂いが、店の奥に静かに沈んでいた。
「……はい」
「どなたが」
「依頼人と」
晋一は少し間を置いた。
「元妻です」
榊は何も言わない。
「寂しかった、って」
晋一が言う。
「はい」
「責める言葉みたいに聞こえるから、言えないんですね」
「そういうこともあります」
「でも、言わなかったら、ないことになる」
「ええ」
「言われなかった側は、気づかない」
榊は静かに湯呑みを置いた。
「気づかない方を選ぶこともあります」
晋一は顔を上げた。
「選ぶ」
「はい。聞けば受け止めなければならないことを、人は聞かないままにすることがあります」
その言葉は、やわらかいのに逃げ場がなかった。
晋一は湯呑みに手を伸ばした。
熱が、少し遅れて掌に伝わる。
「自分は」
声が少しかすれた。
「言われなかったから、平気なんだと思ってたのかもしれません」
「ええ」
「でも、違った」
「かもしれません」
「……」
「沈黙は、了承とは限りません」
晋一はその言葉を、胸の中で繰り返した。
沈黙は、了承とは限らない。
店を出るころには、外の空気が少しだけ冷えていた。
雨はまだ降っていない。
けれど、もうすぐ降るとわかる匂いがした。
路地を歩きながら、晋一はスマートフォンを取り出した。
連絡先の一覧を開く。
もうそこにはない名前を、指が探しかける。
当然、見つからない。
立ち止まって、画面を消す。
今さら何を言うつもりだったのか、自分でもわからなかった。
寂しかったのか、と聞くのか。
気づかなかった、と言うのか。
それとも、あのとき何を言おうとしていたのか、今なら聞ける気がする、などと勝手なことを思ったのか。
どれも遅い。
遅いことだけが、はっきりしていた。
それでも、遅いとわかることと、何もなかったことにするのは違うのだと、今日は思った。
誰かが言えなかったひと言は、言われなかった側の中で、あとから形を持つことがある。
届かなかったくせに、消えない。
むしろ、届かなかったからこそ、長く残る。
空を見上げる。
雲は低く、街の灯りを鈍く返していた。
その夜、帰宅してからも、晋一はしばらく部屋の明かりをつけなかった。
暗い部屋の中で、ふと思う。
あの人は、どれくらい前から寂しかったのだろう。
どれくらい前から、言っても無駄だと思っていたのだろう。
考えても答えは出ない。
もう確かめることもできない。
それでも、その想像を引き受けることが、せめて今の自分にできることのような気がした。




