第7話 「大丈夫」
朝から、曇っていた。
雨が降るほどではないが、空の色が低い。
窓の外のビル群まで、どこか薄い膜をかけたように見える。
晋一は会社の給湯室で、紙コップにコーヒーを注いでいた。
黒い液面から立つ湯気を見ながら、ふと、自分が何杯目を飲んでいるのかわからなくなった。
「飲みすぎじゃないですか」
振り向くと、三浦がいた。
彼は前より少しだけ、無理を隠さなくなった気がする。
「そうかもな」
「寝てないんですか」
「まあ」
「大丈夫ですか」
晋一は紙コップを持ったまま、少しだけ笑った。
「大丈夫」
言ってから、自分で引っかかった。
三浦は何も言わなかった。
ただ、ああ、という顔をして、小さく会釈して給湯室を出ていった。
その背中を見送りながら、晋一はコーヒーをひと口飲んだ。
少し苦すぎた。
午後、取引先との打ち合わせを終えて戻ると、フロアの空気が少しざわついていた。
「どうしたんですか」
近くの席の社員に聞くと、相手は声をひそめた。
「佐伯さん、休憩室で倒れたらしくて」
「倒れた?」
「貧血みたいな感じらしいですけど。今はもう平気だって」
晋一は小さく眉を寄せた。
佐伯は同じ部署の、四十前後の女性だった。
仕事は正確で、気が利いて、誰かが困っていると自然に手を貸す。
その代わり、自分のことはほとんど話さない。
忙しそうですね、と声をかけられても、手伝いましょうか、と言われても、いつも同じように笑っていた。
夕方、佐伯は何事もなかったように席へ戻ってきた。
顔色は少し白いが、もうパソコンを開いている。
晋一は迷ったが、席を立った。
「佐伯さん」
「はい?」
「さっき、倒れたって」
「ああ」
佐伯は少しだけ笑った。
「大したことじゃないです。ちょっと立ちくらみしただけで」
「病院は」
「行くほどじゃないです」
「でも」
「大丈夫です」
その言い方が、あまりに滑らかだった。
考える前に出てくる言葉のように。
「今日はもう帰った方がいいんじゃないですか」
晋一が言うと、佐伯は首を振った。
「まだやることあるので」
「明日でも」
「今日のうちに返したいメールがあるんです」
「……」
「ほんとに平気ですから」
晋一は佐伯の机の上を見た。
付箋の貼られた資料。開きっぱなしのメール画面。飲みかけの水。端に寄せられた市販薬の箱。
生活のほころびみたいなものが、机の上にだけ少し出ていた。
「佐伯さん」
「はい」
「誰かに頼めないんですか」
佐伯は一瞬だけ黙った。
「頼むほどのことじゃないです」
「倒れるのは、頼むほどのことじゃないんですか」
言ってから、少し強すぎたと思った。
けれど、引っ込められなかった。
佐伯は困ったように笑った。
「すみません、心配かけて」
「いや」
「でも、ほんとに平気なんです」
「……」
「こういうの、たまにあるので」
たまにある。
その言葉の方が、倒れたことより痛かった。
慣れているから、問題ない。
そうやって、自分の異常を自分で小さくしていく言い方。
晋一はそれ以上言えなかった。
本人がそう言うなら、外から押し切るのも違う気がした。
けれど、その“違う気がする”は、どこか言い訳にも似ていた。
夜、会社を出るころには、空気が少し湿っていた。
雨は降っていないのに、街全体が濡れる前の匂いを含んでいる。
晋一は駅へ向かいかけて、足を止めた。
今日は、あの店へ行く気がした。
細い路地に入ると、外のざわめきが少し遠のく。
石畳の隙間にたまった冷気が、靴底からじわりと伝わってきた。
「香舗 くらやみ」
戸を開けると、乾いた木の匂いに、少しだけ甘さの混じる香りがした。
「いらっしゃいませ」
榊が顔を上げる。
「こんばんは」
「今日は早いですね」
「そうですか」
「まだ、夜になりきっていません」
晋一は苦笑した。
「そういう言い方、たまにずるいですね」
「便利ですから」
晋一は椅子に座った。
榊は何も急かさない。
「会社の人が倒れました」
晋一が言う。
「はい」
「でも、平気だって言うんです」
「そうですか」
「たぶん、本当にしんどいんだと思います」
榊は黙って聞いている。
「なのに、ああいう人っていますよね。何を聞いても、平気だって言う」
「いますね」
「周りも、そのうち本当にそうなんだと思う」
「ええ」
「本人も、たぶん、そう言うしかなくなる」
榊が香皿を引き寄せた。
「今日は、薄い香りにしましょう」
「薄い」
「強い匂いは、隠しているものを追い詰めることがあります」
「追い詰める」
「言葉も同じです」
火が入る。
香りはすぐには立たず、少し遅れて、静かに広がってきた。
白い布を一枚ずつ重ねるみたいな、淡い匂いだった。
晋一は目を閉じた。
最初に見えたのは、佐伯の顔ではなかった。
食卓だった。
まだ結婚していたころの、夜の食卓。
向かいに座る元妻が、「最近、遅いね」と言う。
自分は「今ちょっと立て込んでて」と答える。
元妻は少し黙ってから、「大丈夫?」と聞く。
そのときの自分は、箸を置きもせずに言うのだ。
――大丈夫。
場面が変わる。
母が入院していたころ、妹が電話口で「そっちは平気?」と聞く。
晋一は窓の外を見ながら、「まあ、平気」と返す。
本当は、病室へ行くたびに息が詰まっていた。
母の顔を見るたび、何か言わなければいけない気がして、でも何も言えなかった。
その一言で、会話を終わらせた。
また変わる。
元妻が、洗い物をしながら言う。
「ねえ、私ばっかり話してない?」
自分は新聞から目を上げずに、「そんなことないだろ」と答える。
「だって、晋一くん、何考えてるかわからないときある」
「別に何も」
「何も、じゃなくて」
「疲れてるだけ」
「じゃあ疲れてるって言ってよ」
「大丈夫だから」
そのとき、元妻は何も言わなかった。
何も言わずに、蛇口の水を少し強くした。
その音だけが、やけに残っている。
また場面が変わる。
会社で、誰かに「手伝いましょうか」と言われる。
自分は反射みたいに笑って、「いや、結構です」と言う。
相手は「そうですか」と引く。
その瞬間、少しだけほっとして、少しだけ腹の底が冷える。
助かった、と思う。
踏み込まれずに済んだ、と。
同時に、もう来ないな、とも思う。
「見えましたか」
榊の声が、遠くから戻ってくる。
晋一はすぐには目を開けなかった。
「……はい」
「どなたが」
「会社の人、じゃなかったです」
「ええ」
「自分でした」
榊は何も言わない。
「便利なんですよね」
晋一が言う。
「はい」
「相手を安心させた気になるし、自分も説明しなくて済む」
「ええ」
「でも、あれ」
晋一は喉の奥に何か引っかかるのを感じた。
「閉めるための言葉なんですね」
榊は静かにうなずいた。
「開かないための」
「……」
「本当にそうであるときにも使えますが、そうでないときほど、よく働きます」
晋一は目を開けた。
香炉の煙は細く、途中でほどけて見えなくなる。
「佐伯さんも、そうなんですかね」
「かもしれません」
「周りが信じたせいで、余計に言えなくなることってありますか」
「あります」
榊は淡々と言う。
「一度“平気な人”になってしまうと、その役目を降りるのは難しいものです」
「役目」
「ええ。本人が引き受けてしまった役目です」
晋一はその言葉を、胸の中でゆっくり反芻した。
平気な人。
困らない人。
手のかからない人。
そう見られることに、どこかで自分も安心していたのかもしれない。
期待に応えている気がしたし、面倒を増やさずに済む気もした。
でもその代わり、誰にも本当に触れられない場所ができていく。
「言い続けると」
晋一がぽつりと言う。
「はい」
「最後、自分でも、何が平気なのかわからなくなりそうですね」
「そうでしょうね」
榊は湯呑みに湯を注いだ。
「言葉は、使っているうちに形を作りますから」
「形」
「ええ。自分のための檻にもなります」
晋一は湯呑みを受け取った。
掌に伝わる熱が、少しだけ強かった。
店を出るころには、外はすっかり暗くなっていた。
結局、雨は降らなかった。
けれど空気はまだ重く、何かをこらえているようだった。
駅へ向かう途中、晋一はスマートフォンを取り出した。
会社の連絡先を開き、少し迷ってから、佐伯の名前を探す。
打ちかけて、消す。
また打って、止まる。
お疲れさまです。今日は無理しないでください。
何かあれば、明日の資料こちらで見ます。
そこまで打って、少し考える。
気を遣いすぎだろうか。余計なお世話かもしれない。
それでも、何も送らないよりはましな気がした。
晋一は送信した。
少しして、返事が来た。
ありがとうございます。
大丈夫です。
その五文字を見た瞬間、晋一は立ち止まった。
画面の白い光が、指先だけを冷たく照らしている。
それ以上は何もない。
絵文字も、言い訳も、助けを求める気配もない。
きれいに閉じた返事だった。
晋一はしばらく画面を見ていた。
何か返した方がいいのかもしれないと思う。
でも、何を返しても、その言葉の外には届かない気がした。
あれは相手を安心させる言葉なんかじゃないのかもしれない。
これ以上来ないでください、という、静かな線引きなのかもしれない。
あるいは、来てほしいのに、来ないでくださいとしか言えなくなった人の言葉なのかもしれない。
ポケットにスマートフォンをしまいながら、晋一は歩き出す。
自分も、同じことをしてきた。
元妻にも。
妹にも。
たぶん母にも。
心配して手を伸ばしてくれた相手に、平気なふりをして、そこで終わらせてきた。
終わらせたかったわけじゃない。
むしろ、終わってほしくなかったのかもしれない。
でも、どう開けばいいのかわからなかった。
だから先に閉めた。
曇った夜空を見上げる。
雲は低いままだった。
自分はこれからも、たぶんまた言ってしまうのだろう。
大丈夫、と。
反射みたいに。癖みたいに。
けれど、その言葉を口にしたあとで、
今、自分は助けを断ったのか、
それとも助けてほしいのに断るふりをしたのか、
せめてそれだけは、自分に問い返さなければならない気がした。
夜気は重く、少しぬるかった。
雨はまだ降らない。
降らないままの空の方が、泣けない人間みたいだと、晋一はふと思った。




