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言えなかったひと言―消えずに残る、あの言葉―  作者: 冬馬美沙
第1章 香りの店との出会い
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第6話 「会いたい」

その日は、昼を少し過ぎたころから雨が降っていた。


強くはないが、止みそうでもない雨だった。

軒先から落ちる雫が、一定の間隔で石畳を濡らしていく。

店の中は静かで、香炉の煙だけが細く揺れていた。


晋一は棚の拭き掃除をしながら、ぼんやりと雨音を聞いていた。


「雨の日は、匂いが近くなります」

奥で榊が言う。

「近くなる?」

「閉じ込められるのかもしれません」

「外に逃げないから」

「ええ。人の気持ちも、少し似ています」


晋一は苦笑した。

「今日は何か見えるんですか」

「見えない日の方が少ないでしょう」

「そういう言い方、ずるいですね」

榊は答えず、湯呑みに湯を注いだ。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、三十代半ばくらいの女性と、小さな女の子だった。

女の子は小学校に上がる前か、上がったばかりくらいに見える。

黄色い長靴の先が、雨で少し濡れていた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


母親らしい女性は、少しだけ会釈をしてから、言葉を探すように口を開いた。


「あの……」

それきり、続かない。


女の子は店の中を見回して、それから母親の袖を引いた。


「ここ?」

「うん」

「おばあちゃん、いる?」

母親の顔が強ばった。


「こら、そういうこと言わないの」

女の子はきょとんとする。

「だって会いたい」

「……」

「会いたいから来たんでしょ?」


母親は困ったように息をついた。

その顔には、叱っているというより、どう言えばいいのかわからない人の疲れがあった。


榊が静かに言う。

「どうぞ、お掛けください」


二人は並んで椅子に座った。

女の子の足は床に届かず、ぶらぶらと小さく揺れている。


母親は膝の上で手を組んだまま、少しうつむいていた。


「先月、母が亡くなって」

ぽつりと、言う。

「この子の祖母です」

榊は黙ってうなずく。

「家では、ずっと一緒にいたので……」

そこで言葉が止まる。

代わりに、女の子が言った。


「毎日いた」

「うん」

「おばあちゃん、みかんむいてくれた」

母親が小さく笑う。

「そうだね」

「あとね、髪かわかしてくれた」

「うん」

「あと、へんな歌うたってた」

「変な歌?」

晋一が思わず聞くと、女の子は少しだけ得意そうな顔をした。


「おふろあがりの歌」

「どんな歌」

女の子は小さな声で、でたらめみたいな節を口ずさんだ。

意味のない言葉が並んでいるのに、不思議と楽しそうだった。


母親は笑った。

でも、その笑いはすぐにほどけた。


「葬儀のあとから、この子、ずっと」

そこまで言って、母親は女の子を見た。

「おばあちゃんは、もういないって、わかってるんです」

女の子は黙っている。

「わかってるんですけど……」

「会いたい」

女の子が言った。

母親はすぐにかぶせるように言う。

「そういうこと言わないの」

「なんで」

「おばあちゃん、困るから」

「困らないよ」

「そういうこと言うものじゃないの」

女の子は唇を尖らせた。

「でも会いたい」

「……」

「会いたいって言っちゃだめなの?」


店の中が、しんと静かになった。


雨の音だけが、遠くで続いている。


母親はすぐに答えられなかった。

叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ言葉を失っていた。


その顔を見て、晋一は胸の奥が少し痛んだ。


たぶん、この母親も会いたいのだ。

会いたいけれど、それを口にしたら、何かが崩れる気がするのかもしれない。

だから先に、子どもの言葉を止める。

言葉にしてしまえば、いないことがもっとはっきりしてしまうから。


榊が香皿を静かに引き寄せた。


「今日は、やわらかい香りにしましょう」

女の子が榊を見る。

「おばあちゃんのにおい?」

榊は少しだけ微笑んだ。

「思い出しやすい匂い、かもしれません」


火が入る。

甘さの奥に、少しだけ青い匂いが混じる。

雨の日の縁側みたいな、やわらかい香りだった。


女の子は鼻をひくひくさせた。

「なんか、へやのにおい」

「部屋?」

「おばあちゃんのへや」

母親が顔を上げる。

「……そう」

「たんすあって、ぬのいっぱいあって」

「うん」

「ひるねすると、ちょっとくらいにおい」

母親の目が、そこで少し揺れた。


「この子、母の部屋でよく昼寝してたんです」

「そうですか」

「私はあの部屋、薬の匂いの方を思い出しちゃって」

母親は苦く笑った。

「最後のころ、ずっと病院と行き来してたので」

女の子は母親の顔を見た。

「ママ、おばあちゃんきらいだった?」

「え?」

「だって、へやのにおい、いやそう」

母親は目を見開いた。

「違うの」

すぐに言う。

「嫌じゃないの」

「じゃあなんで、会いたいって言っちゃだめなの」

母親はまた黙った。


その沈黙は、答えがない沈黙ではなかった。

答えがありすぎて、どれを選んでも足りない沈黙だった。


榊が静かに言う。


「会いたい、でいいのだと思います」


母親が顔を上げる。

女の子も榊を見る。


「会いたいと言うことは、忘れていないということです」

榊の声は低く、穏やかだった。

「もう会えないことが悲しいから、会いたいと思うのでしょう」

女の子はじっと聞いている。

「悲しいことを、急いで片づけなくてもいいのです」

母親の目に、うっすらと涙がにじんだ。

「でも」

「はい」

「この子が、ずっとそう言っていたら」

榊は少しだけ首を傾けた。

「言わなくなることが、受け入れたことになるとは限りません」

「……」

「言えるうちは、まだその方と一緒にいるのかもしれません」


女の子が母親の袖を引いた。


「ママ」

「なに」

「ママも会いたい?」

母親は、今度は逃げなかった。

少しだけ唇を震わせて、それから小さくうなずいた。


「……会いたいよ」


女の子はそれを聞いて、安心したような顔をした。

泣きはしなかった。

ただ、当たり前のことがやっとそこに置かれた、という顔だった。


「じゃあ、いっしょだ」

母親は笑って、とうとう涙をこぼした。

「そうだね」

「ママも、会いたいんだ」

「うん」

「わたしも」

「うん」


晋一はそのやり取りを見ながら、胸の奥に静かな波が広がるのを感じていた。


会いたいと言うことは、子どもっぽいわがままではない。

いなくなった人を、まだ大事に思っているということだ。

そしてたぶん、それを口にすることは、いない現実を拒むことではなく、いないまま抱えていくための言葉なのだ。


帰るころには、雨は少しだけ弱くなっていた。


女の子は店を出る前に、榊へ向かって言った。


「ありがとう」

「どういたしまして」

「おばあちゃん、いなかった」

母親が少し身構える。

けれど女の子は、続けた。

「でも、わすれてなかった」

榊は静かにうなずいた。

「はい」


母親は深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

その声は、来たときより少しだけほどけていた。


戸が閉まり、また店に静けさが戻る。


晋一はしばらく何も言わなかった。

榊が湯を注ぐ音だけが、小さく響く。


「会いたい、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「言ったらだめな言葉みたいに、なることあるんですね」

「悲しい言葉ですから」

「でも、言わない方が楽になるわけでもない」

「ええ」

晋一は湯呑みを見た。

立ちのぼる湯気は、形を作ってはすぐにほどけていく。


母のことを思い出した。

もう何年も経っているのに、ふとした拍子に、まだ会いたいと思うことがある。

それをどこかで、自分でも終わっていないことのように感じていたのかもしれない。


「忘れないって、止まることじゃないんですね」

晋一が言う。

榊はうなずく。

「持ったまま歩くことはできます」

「……そうか」


その言葉は、ひどく静かに胸へ落ちた。


会いたいと思うこと。

忘れていないこと。

それでも生きていくこと。


どれも、同時にあっていいのかもしれなかった。


店を出ると、雨上がりの匂いがした。

濡れた石畳が、街の灯りを鈍く映している。


晋一は空を見上げた。

雲はまだ厚いのに、どこか少し明るかった。


会いたい、と思った。


それはどうにもならない願いだった。

けれど、どうにもならないからといって、なかったことにしなくていいのだと、今日は少しだけ思えた。

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