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言えなかったひと言―消えずに残る、あの言葉―  作者: 冬馬美沙
第1章 香りの店との出会い
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第5話 「助けて」

朝、目が覚めたときから、肩が重かった。


疲れているのだと思った。

ここ数日、眠りが浅い。父のこと。妹とのやり取り。会社の企画会議。どれも決定的に何かが起きているわけではないのに、小さな引っかかりだけが残って、眠りの底まで沈みきれない。


洗面所の鏡の前で、晋一は自分の顔を見た。


ひどい顔、というほどではない。

ただ、何も起きていないふりをしている顔だった。


会社へ向かう電車の中で、妹から短いメッセージが来た。


土曜、午後二時でいい?

父さんにはまだ言ってない。


晋一は、いいよ。ありがとう。と返した。


それだけで少し息が詰まる。

父のことを話す。母のことも話す。逃げずに座る。

たぶんそれだけのことが、今の自分には思ったより重い。


会社に着くと、三浦がすでに席にいた。

パソコンを開いたまま、画面を見ているのに、見ていない顔をしている。


「早いな」

声をかけると、三浦は少し遅れて顔を上げた。


「あ、おはようございます」

「どうした」

「いや、別に」

「そうか」


別に。

その言い方だけが、少し浮いた。


午前中の打ち合わせでも、三浦は上の空だった。

資料の数字をひとつ読み違え、自分で言い直して苦笑する。普段ならしないミスだった。


会議のあと、晋一は声をかけた。


「大丈夫か」

三浦は一瞬黙って、それから笑った。


「大丈夫です」

「そうか」

「ちょっと寝不足なだけで」

「無理するなよ」

「してないです」


返事が軽すぎた。


晋一はそれ以上言わなかった。

本人が大丈夫だと言うなら、踏み込みすぎるのも違う気がした。


昼休み、給湯室でコーヒーを入れていると、総務の女性が小声で言った。


「三浦くん、最近ちょっと変じゃないですか」

「変?」

「なんか、ずっと張ってる感じ」

「忙しいんじゃないですか」

「それだけかなあ」


晋一は曖昧に笑って、紙コップを持った。


忙しいだけ。

寝不足なだけ。

大丈夫だと言っている。

そういう言葉で済ませられるうちは、人は案外、見ないふりができる。


午後、三浦は取引先との電話の途中で言葉を詰まらせた。


ほんの数秒だった。

けれど、受話器を持つ手が止まり、呼吸が浅くなるのが見えた。


「……失礼しました」


何とか会話を終えると、三浦は席を立って給湯室へ向かった。


晋一は少し迷ってから、後を追った。


流しの前で、三浦は両手をついていた。

水は出していない。ただ、そこに体を預けているように見えた。


「三浦」

声をかけると、彼は振り向いた。


「すみません」

「いや」

「ちょっと、立ちくらみみたいな」

「顔、白いぞ」

「平気です」

「平気じゃないだろ」

「……」


三浦は目をそらした。


「子どもが熱出してて」

ぽつりと、言い訳みたいに言う。

「昨日からずっとで。妻も夜勤続きで。別に、だから何って話じゃないんですけど」

「……」

「迎えもあるし、朝も病院寄ってきて、寝てないだけです」

「そうか」

「すみません。電話で詰まったの、あれ、ほんとすみません」

「謝ることじゃないだろ」

「いや、でも」

「でもじゃなくて」

晋一はそこで少し言いすぎたと思ったが、引っ込めなかった。

「お前、今、自分で何言ってるかわかってるか」

三浦は黙った。

「寝てないだけって顔じゃない」

「……大丈夫です」

「その大丈夫、便利だな」

三浦の眉がわずかに動いた。

「便利って」

「何でもそれで済む」

「済ませてるつもりないです」

「じゃあ何だ」

「……」

「無理なら無理って言えよ」


その瞬間、三浦の顔が強ばった。


「言えたら言ってます」


思ったより強い声だった。

給湯室の白い壁に、その一言だけが硬く跳ね返る。


晋一は黙った。


三浦はすぐに、しまったという顔をした。


「……すみません」

「謝るな」

「いや、今のは」

「謝るなって」


換気扇の音だけが回っていた。


三浦は流しの縁を握ったまま、しばらく下を向いていた。

やがて、絞り出すみたいに言った。


「助けて、って言ったら」

晋一は顔を上げる。

「終わる気がするんです」

「何が」

「ちゃんとしてる感じが」


三浦は笑おうとして、うまくいかなかった。


「仕事も回して、家のこともやって、父親としても夫としても、何とかやってるって顔、してないと」

「……」

「一回でも無理ですって言ったら、そのまま全部崩れそうで」


晋一は息を止めた。


「妻もしんどいのわかってるんです。だから余計に言えなくて」

「うん」

「会社でも、迷惑かけたくないし」

「……」

「俺、たぶん、困ってるって顔するの下手なんですよ」


その言葉に、晋一は胸の奥を軽く殴られたような気がした。


困ってるって顔するのが下手。


それは、ほとんどそのまま自分のことでもあった。


「今日は帰れ」

晋一は言った。

「でも」

「帰れ」

「資料、まだ」

「明日でいい」

「……すみません」

「だから謝るな」

「はい」


三浦は小さく頭を下げた。


その背中を見送りながら、晋一は自分の胸の内側に、妙なざらつきが残るのを感じていた。


助けてと言ったら、終わる気がする。


それは三浦の言葉であると同時に、ずっと昔から自分の中にもあった感覚だった。


困っていないふり。平気なふり。まだ大丈夫だという顔。

そうしていれば、何とか保てる気がしていた。でも本当は、保っていたのではなく、見えないところへ押し込んでいただけなのかもしれない。


仕事を終えて会社を出るころには、空はすっかり暗くなっていた。


風が少し冷たい。

自販機の明かりが、舗道を妙に白く照らしている。


晋一は駅へ向かいかけて、途中で足を止めた。


今日は、あの店へ行く気がした。


細い路地に入る。

石畳は静かで、夜の匂いが先に立っていた。


「香舗 くらやみ」


戸を開けると、少し苦い匂いがした。

古い木の棚の前に立ったときのような匂いだった。


「いらっしゃいませ」


榊が顔を上げる。


「こんばんは」

「お疲れのようですね」

「顔に出てますか」

「少しだけ」

晋一は苦笑した。

「今日は、俺じゃないんです」

「そうですか」

「会社の後輩で」

榊は黙って聞いている。

「助けてって言えなかったみたいで」

「はい」

「たぶん、言ったら終わると思ってたんだと思います」

「何が」

「ちゃんとしてる自分、みたいなものが」


榊は少しだけ目を伏せた。


「壊れそうなものほど、人は先に守ろうとします」

「守れてるんですかね」

「守っているつもりで、閉じ込めていることもあります」


晋一は椅子に座った。


「俺も、似たようなものかもしれません」

「ええ」

「そこ、否定しないんですね」

「違うようには見えません」


晋一は少しだけ笑ったが、すぐに消えた。


「助けてって、そんなに言いにくい言葉ですかね」

「言ったあと、相手がどう見るかを考える方には」

「……そうか」


榊が香皿を机に置く。


「今日は、少し静かな香りにしましょう」

「静かな」

「声にならないものは、たいてい大きすぎるので」


榊が香木に火を入れる。


香りがゆっくり広がる。


古い木の棚。

何年も同じ場所に置かれて、黙ったまま重みだけを増していくもの。

触れればそこにあるとわかるのに、ふだんは見ないふりをしてしまうもの。


晋一は目を閉じた。


思い出したのは、三浦の顔ではなかった。


母が入院すると決まった日の、病院の廊下。

妹が「どうする」と聞いたのに、自分は「別に」と答えた。

元妻に「話してくれないとわからない」と言われた夜も、「話すほどのことじゃない」と返した。

父からの電話を切ったあと、しばらく動けなかった日も、誰にも何も言わなかった。


どの場面の自分も、同じ顔をしていた。


困っていないふり。

平気なふり。

まだ大丈夫だという顔。


香りの中で、その顔だけが妙にはっきり浮かんだ。


「見えましたか」

榊の声が、遠くから戻ってくる。


「……はい」

晋一はすぐには顔を上げられなかった。

「俺、助けてって言えない人間を見てたつもりで」

「ええ」

「自分のこと見てたんですね」


榊は何も言わない。


「言えないのは、強いからじゃないんですね」

「ええ」

「弱いから?」

「傷つくのが怖いからです」


その言葉が、静かに胸へ落ちた。


助けてと言って、断られるのが怖い。

迷惑だと思われるのが怖い。

ちゃんとしていない人間だと見られるのが怖い。

だから、困っていないふりをする。


それは強さではなく、たしかに恐れだった。


店を出ると、夜風は少し冷たかった。


駅へ向かいながら、晋一はスマートフォンを取り出す。

少し迷ってから、妹との画面を開いた。


土曜、たぶん俺、うまく話せない。

悪いけど、少し助けて。


打ち終えて、しばらく画面を見つめる。


短すぎる気がした。

情けない気もした。

今さらだとも思った。


でも、それ以上足したら、また何も言わないのと同じになる気がした。


晋一は送信した。


少しして、返事が来る。


わかった。

私もたぶん無理だから、そのときは止めて。


晋一は画面を見て、小さく息を吐いた。


助けて、は、全部を預ける言葉ではないのかもしれない。

ひとりでは持ちきれないと認めるための、最初の言葉なのかもしれない。


夜の空気の中に、古い木の棚を思わせる静けさがまだ少し残っていた。

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