第4話 「行かないで」
雨上がりの夕方だった。
昼すぎまで降っていた雨はもう止んで、
駅前の舗道には薄い水の膜だけが残っていた。
街路樹の葉先から、ときどき遅れて雫が落ちる。
空は明るさを取り戻しかけているのに、
空気の底にはまだ湿った重さが沈んでいた。
下田晋一は、会社を出てからしばらく、
駅へ向かう人の流れに混じって歩いていた。
今日は朝から、妙に疲れていた。
企画会議で、若手の案が上に通らなかった。
無難ではないが、悪くない案だった。
営業は慎重で、部長は面倒を嫌い、
場はいつものように“今はやめておこう”という空気でまとまった。
晋一は何か言うべきかと思った。
けれど、言ったところで空気が変わる気がしなかった。
結局、「もう少し整理してからでもいいかもしれないな」と、
どちらにも取れる言葉で会議を閉じる側に回った。
昼休み、給湯室で紙コップのコーヒーを持っていると、
後輩の三浦が隣で言った。
「下田さん、ほんとはあの案、残したかったですよね」
「どうだろうな」
「いや、わかりますよ」
「顔に出てた?」
「ちょっとだけ」
三浦は笑ってから、
コーヒーの蓋をはめた。
「でも、言わないと、なかったことになりますよね」
その言葉が、
夕方になっても胸のどこかに残っていた。
言わないと、なかったことになる。
駅前の横断歩道で信号を待っていると、
向こう側に親子がいた。
若い母親と、
五歳くらいの男の子。
男の子は黄色い長靴で、
わざと水たまりを踏みながら歩いている。
「こら、濡れるでしょ」
母親が笑う。
「だいじょうぶ」
「大丈夫じゃないの」
「だいじょうぶだもん」
そのやり取りを見て、
晋一はなぜか少しだけ目をそらした。
子どもは、
行きたいほうへ行こうとする。
大人はそれを止める。
でも本当に引き止めたい相手には、
案外、何も言えなかったりする。
青になった信号を渡りきったところで、
晋一は足を止めた。
まっすぐ帰るつもりだった。
けれど、今日はあの店の前を通る気がした。
細い路地に入る。
石畳はまだ濡れていて、
古い木の引き戸の前に小さな水たまりができている。
「香舗 くらやみ」
戸を開けると、
今日は少し青い匂いがした。
濡れた布。
石鹸。
乾ききらない髪。
雨の日の玄関先。
そんなものが混じったような、
やわらかくて、どこか心細い匂いだった。
「いらっしゃいませ」
榊がいつもの場所に座っていた。
白い湯気の立つ湯呑みを手元に置き、
静かに顔を上げる。
「こんばんは」
「雨の匂いがしますね」
「まだ少し残ってますね」
「ええ」
晋一が椅子に手をかけたところで、
引き戸がもう一度開いた。
入ってきたのは、
三十代半ばくらいの女性だった。
片手に小さな男の子の手を引いている。
男の子は紺色のリュックを背負ったまま、
眠そうな顔で母親の脚に寄りかかっていた。
女性は店の中を見回し、
少しだけためらってから言った。
「……前に、一度だけ来たことがあって」
「ええ」
榊がうなずく。
「また来てもいいのか、わからなかったんですけど」
「必要なら」
その言葉に、
女性は少しだけ肩の力を抜いた。
男の子が母親の袖を引く。
「ママ、ここ、いいにおい」
「そうだね」
「ねむい」
「寝ないで」
女性は笑った。
けれどその笑い方は、
笑っているのに少し疲れて見えた。
榊が晋一のほうを見る。
「よろしければ、今日はご一緒でも」
晋一は少し驚いた。
「俺がいてもいいんですか」
「この方がよければ」
女性は晋一を見て、
小さく頭を下げた。
「すみません。もし、ご迷惑でなければ」
「いえ」
晋一も軽く会釈する。
「俺は、ただ……たまに来るだけなので」
自分で言って、
少しおかしかった。
女性と男の子は向かいに座った。
男の子は母親の膝に寄りかかり、
もう半分眠っている。
榊が静かに尋ねる。
「今日は、どんな言葉でしょう」
女性はしばらく黙っていた。
それから、
男の子の髪を撫でながら言った。
「……“行かないで”です」
その言葉が、
店の空気を少しだけ変えた気がした。
「誰に」
榊が問う。
女性は目を伏せる。
「母に、です」
「言えなかったのですか」
「言えませんでした」
声は落ち着いていた。
でも、
落ち着こうとしている声だった。
「出ていく朝だったんです」
女性は言う。
「私、小学校に上がる前で。
母は旅行に行くみたいな顔をしてました」
「はい」
「だから、すぐ帰ってくるんだと思ってた」
男の子が、
眠そうなまま母親の腕に頬を押しつける。
女性はその重みを受け止めながら続けた。
「でも、帰ってこなかった」
晋一は黙って聞いていた。
「父は何も言わなくて、
祖母がしばらく家に来て、
そのうち“お母さんは遠くにいるから”って言われて」
女性は少し笑った。
「遠くって、便利な言葉ですよね。
死んだのか、捨てられたのか、
子どもにはわからない」
榊は何も挟まない。
「私、あの朝、
母が靴を履いてるのを見てたんです」
女性の指先が、
男の子の髪を撫でるたび少し震える。
「でも、言えなかった。
行かないで、って」
「なぜ」
「言ったら困らせる気がしたから」
晋一は、
その言葉に少しだけ息を止めた。
言ったら困らせる。
言わないほうが相手のため。
そう思って飲み込んできた言葉が、
自分にもいくつあっただろう。
女性は続ける。
「母、きれいな人だったんです。
怒ると怖かったけど、
笑うとすごくやさしくて」
「はい」
「だから、困らせたくなかった。
泣いたら嫌われる気がしたし、
引き止めたら、もっと早くいなくなる気がした」
男の子がうとうとしながら、
小さく言う。
「ママ、どこもいかない?」
女性ははっとして、
すぐに笑った。
「……うん」
「ほんと?」
「ほんと」
その“ほんと”が、
少しだけ遅れた。
榊が香皿を机に置く。
「見ますか」
女性は男の子を抱き寄せたまま、
小さくうなずいた。
「この子がいても」
「眠ってしまえば、夢と変わりません」
榊はそう言って、
香木に火を入れた。
香りがゆっくり広がる。
濡れたタオル。
子ども用の石鹸。
雨の日の玄関。
古い木の箪笥。
少しだけ甘い、
ミルクのような匂い。
晋一も、
自然に目を閉じていた。
遠くで、
傘を閉じる音がした。
次に見えたのは、
薄暗い玄関だった。
古い家の、
少し狭い玄関。
曇ったガラス戸の向こうに、
雨の気配がある。
小さな女の子が立っていた。
たぶん五歳くらい。
さっきの女性の、
子どもの頃なのだろう。
母親が鏡の前で髪を整えている。
薄いベージュのコート。
小さなバッグ。
口紅の色だけが、
妙に鮮やかだった。
「いい子にしててね」
母親が言う。
「すぐ帰るから」
女の子は黙って見ている。
現実では、
ここで何も言えなかったのだろう。
けれど、
香りの見せる別の時間の気配の中で、
女の子は母親の服の裾をつかむ。
「おかあさん」
「なあに」
「いかないで」
その声は、
思ったより小さかった。
泣き叫ぶでもなく、
ただ、やっと絞り出したような声だった。
母親の手が止まる。
「……え?」
「いかないで」
女の子はもう一度言う。
「どこにもいかないで」
母親は振り向く。
その顔には、
驚きと、
困ったような影と、
ほんの少しの痛みが混じっていた。
「すぐ帰るよ」
「やだ」
「いい子にしてて」
「いいこにするから」
「……」
「おてつだいもする」
女の子の目に涙がたまる。
「だから、いかないで」
その言葉が、
玄関の狭い空気をいっぱいにした。
母親はしゃがみこむ。
女の子と目の高さを合わせる。
「ごめんね」
その声は、
大人の女性の声なのに、
どこか子どもみたいに頼りなかった。
「ごめんね」
女の子は泣きながら首を振る。
「ごめんじゃない」
「……うん」
「いかないで」
「うん」
「いかないでよ」
母親はそこで、
初めて泣いた。
きれいに化粧をして、
出ていく準備を整えていた人が、
急にただの母親の顔になる。
「ごめんね」
それしか言えないように、
何度も繰り返す。
女の子は泣きながら、
母親の首にしがみつく。
その光景を見て、
晋一の胸の奥が痛んだ。
言えたから、
引き止められたわけではない。
母親はたぶん、
それでも出ていくのだろう。
でも、
言えたことで、
残される側の時間は少し違ったのかもしれない。
場面が変わる。
今度は現在に近い時間だった。
薄暗い寝室。
床には半分開いた旅行鞄が置かれている。
女性ものの服が何枚か、
急いで詰められたように入っている。
洗面台から持ってきたらしいポーチ。
通帳。
封筒。
充電器。
大人になった女性が、
その前に座り込んでいた。
顔は見えなくても、
さっきの女性だとわかる。
部屋の外では、
夫らしい男の低い声がした。
何を言っているのかは聞き取れない。
ただ、
長いあいだ積み重なってきた疲れだけが、
部屋の空気に沈んでいる。
女性は鞄の中を見つめたまま、
動かない。
やがて、
寝室の戸が少し開く。
小さな男の子が立っている。
眠そうな目で、
母親を見ている。
「ママ」
女性が振り向く。
「……どうしたの」
「どこかいくの」
女性はすぐに答えられない。
「ちょっと、ね」
「どこ」
「……」
男の子は、
半分眠ったまま、
それでも不安そうに立っている。
「ママ、どこもいかない?」
その言葉が、
さっきの記憶と重なる。
女性の顔が、
目に見えて強ばる。
彼女は今、
置いていかれる子どもではなく、
置いていく側になりかけていた。
そのことに気づいた瞬間の、
息の詰まるような沈黙だった。
男の子がもう一度言う。
「どこもいかない?」
女性は何かを言おうとして、
言葉にならない。
喉の奥で止まる。
目の前の子どもの顔と、
さっきの幼い自分の顔が、
ひとつに重なって見える。
やがて女性は、
ゆっくり首を振った。
「……ごめん」
男の子の目が揺れる。
「ごめんね」
女性は立ち上がり、
男の子の前にしゃがみこむ。
「ママ、ちょっと、いなくなろうとしてた」
男の子は意味がわからないまま、
黙って見ている。
「でも」
女性はそこで、
泣きそうな顔のまま笑った。
「置いていかない」
「……ほんと?」
「うん」
「どこにも?」
「どこかへ行くなら、一緒に行く」
男の子はしばらく黙っていた。
それから、
眠そうなまま小さくうなずく。
女性はその子を抱きしめる。
強く。
今度は離さないように。
それから、
開いた鞄の前に戻る。
自分の服の横に、
小さなTシャツを入れる。
靴下を丸めて入れる。
子どもの歯ブラシ。
青い恐竜の絵がついたコップ。
くたびれたぬいぐるみ。
そのひとつひとつが、
“置いていく”ための荷造りを、
“連れていく”ための荷造りに変えていく。
景色がゆっくり薄れていく。
石鹸の匂い。
雨の玄関。
子どもの体温。
濡れた髪。
閉まりかけた鞄のファスナーの音。
気づくと、
晋一は店の椅子に座っていた。
向かいの女性は、
眠っていた男の子を抱いたまま、
静かに泣いていた。
声は出していない。
ただ、
涙だけが頬を伝っている。
榊が湯呑みを置く。
「見えましたか」
女性はうなずく。
「……私」
声が少しかすれる。
「同じことをしようとしてました」
晋一は顔を上げる。
女性は男の子の背中を、
一定の速さで撫で続けている。
「今日、ここに来る前、
荷物をまとめてたんです」
「はい」
「夫と、もうずっとだめで。
この家にいたら、私までおかしくなりそうで」
彼女は少し笑った。
笑いというより、
息がこぼれたような音だった。
「最初は、少し離れるだけのつもりでした」
「……」
「でも本当は、
この子を置いていこうとしてた」
晋一は何も言えなかった。
女性は続ける。
「夫に任せればいいって思ってました。
母が私を置いていったのとは違うって、
何度も自分に言い聞かせて」
男の子の髪に顔を寄せる。
「でも、違わないですよね。
この子にしたら」
榊は静かに聞いている。
「私、
あの人みたいにはならないって思ってたんです」
女性の肩が小さく震える。
「なのに、気づいたら、
同じ玄関に立ってた」
しばらく沈黙があった。
やがて女性は、
低い声で言った。
「この子を連れていくのが、
この子にとって幸せなんですかね」
榊は少し黙った。
「わかりません」
女性はうつむく。
責められたわけでもないのに、
その言葉は思ったより深く落ちたようだった。
「……そうですよね」
「けれど」
榊の声は静かだった。
「置いていかれる痛みを、
あなたは知っている」
女性は顔を上げる。
「はい」
「知らないまま選ぶのとは、違います」
女性の目に、
また涙がたまる。
「私と一緒にいたって、
この子が幸せになるとは限らない」
「ええ」
「でも」
彼女は男の子を抱く腕に、
少しだけ力を込めた。
「何も言わずに置いていかれる痛みだけは、
この子に渡したくないんです」
榊は小さくうなずいた。
「それは、あなたが選べることです」
女性は目を閉じる。
長いあいだ、
息を整えるように黙っていた。
やがて、
泣いたあとの少しかすれた声で言う。
「……連れていきます」
誰に言うでもなく、
自分に言い聞かせるような声だった。
「ちゃんと起こして、
ちゃんと話して、
一緒に行くって言います」
榊は何も褒めなかった。
ただ、
そこにある決意を静かに受け止めるように、
湯呑みを女性の前へ少し押した。
女性は男の子を抱いたまま、
立ち上がる。
「ありがとうございました」
榊に頭を下げ、
それから晋一にも小さく会釈する。
「すみません、ご一緒してしまって」
「いえ」
晋一は少し迷ってから言った。
「……言えて、よかったですね」
女性は一瞬だけ目を見開いて、
それから静かに笑った。
「はい。
たぶん、これからですけど」
引き戸が閉まる。
店の中に、
また静けさが戻る。
晋一は湯呑みに手を伸ばした。
もう少しで冷める温度だった。
「正しいかどうか、
誰にもわからないんですね」
榊は香皿の灰をならしながら答える。
「ええ」
「それでも、選ぶしかない」
「はい」
「……言葉って、
正解を言うためのものじゃないのかもしれませんね」
榊は少しだけ目を細めた。
「言葉は、ときどき、
覚悟の形になります」
その言葉が、
静かに胸へ落ちた。
母に言えなかった「ありがとう」も。
妹に遅れて送った「ごめん」も。
たぶん、
何かを正しくするためというより、
見なかったことにしないための言葉だった。
店を出ると、
夜の空気は少し冷えていた。
雨はもう止んでいる。
石畳の水たまりに、
街灯の光が揺れていた。
駅へ向かいながら、
晋一はスマートフォンを取り出す。
少し迷ってから、
妹とのメッセージ画面を開いた。
土曜の件、ありがとう。
父さんのことだけじゃなくて、
母さんのことも、少し話したい。
打って、
止まる。
重いだろうか。
今さらだろうか。
でも、
送らないまま閉じたら、
また何もなかったことになる気がした。
晋一は送信した。
すぐには返事は来ない。
それでよかった。
少し歩いたところで、
通知が震える。
うん。
私も、たぶんその話したかった。
短い文だった。
でも、
その“たぶん”の中に、
妹らしい照れと、
長く置かれていた時間が少しだけ見えた気がした。
晋一は画面を閉じる。
行かないで。
あの言葉は、
相手を縛るためだけの言葉ではなかった。
ここにいてほしいと願った、
残される側の切実さだった。
言えなかった願いは消えない。
けれど、
今ならまだ、
別の形で置いていけるものがある。
夜風の中に、
石鹸のような、
雨上がりのような匂いがまだ少し残っていた。




