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言えなかったひと言―消えずに残る、あの言葉―  作者: 冬馬美沙
第1章 香りの店との出会い
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3/30

第3話 「好きだった」

十月に入っても、

昼間はまだ少し暑かった。


けれど夕方になると、

風の端にだけ秋が混じる。

駅前の街路樹から落ちた葉が、

歩道の隅に乾いた音を立てて寄っていた。


下田晋一は、

会社を出てからまっすぐ帰る気になれず、

コンビニで缶コーヒーを買って、

駅前の小さな広場のベンチに座っていた。


向かいのビルのガラスに、

夕焼けが鈍く映っている。


スマートフォンには、

昼休みに届いたメッセージがまだ残っていた。


大学時代の友人からだった。


この前、駅で真鍋さん見かけたよ。

覚えてる? 経済学部の。

結婚してこっち戻ってるみたい。


真鍋さん。


名前を見た瞬間、

晋一は少しだけ息を止めた。


覚えているに決まっていた。


大学二年の秋、

同じゼミの飲み会で隣になって、

それから何度か一緒に帰った。

図書館の前で立ち話をした。

学食で偶然会えば、

少しだけ長く話した。


それだけだった。


付き合っていたわけではない。

告白したわけでもない。

手をつないだこともない。


けれど、

何もなかったからこそ、

時間の中で薄まらずに残ってしまうものもある。


好きだった。


たぶん、あの頃。


でも、

その言葉を口にする前に、

就職活動が始まり、

卒業が近づき、

会う理由は少しずつ減っていった。


最後に会った日のことを、

晋一は今でもぼんやり覚えている。


キャンパスの銀杏が色づき始めた頃だった。

真鍋さんは内定先の話をして、

晋一は曖昧に笑って、

「頑張って」と言った。

彼女は「そっちもね」と返した。


それで終わった。


終わると決まっていたわけではない。

ただ、

何も始めなかっただけだった。


缶コーヒーはもうぬるくなっていた。

晋一は一口だけ飲んで、

立ち上がる。


自分でも、

なぜ今さらそんなことを思い出したのかわからなかった。

もう二十年以上前の話だ。

相手は結婚して、

別の人生を生きている。

今さら何かあるわけでもない。


それでも、

胸の奥に小さな棘のようなものが残ったまま、

抜けない。


歩き出すと、

風に乗ってどこかから金木犀の匂いがした。


甘いのに、

少しだけ乾いている。

懐かしいようで、

触れた瞬間に遠ざかる匂いだった。


気づくと、

晋一はあの路地へ足を向けていた。


細い石畳。

古い木の引き戸。

薄く掠れた看板。


「香舗 くらやみ」


戸を開けると、

今日はいつもより少し明るい香りがした。

乾いた花びらと、

古いノートの紙の匂いが混じっているようだった。


榊が顔を上げる。


「いらっしゃいませ」

「こんばんは」

「秋の匂いがしますね」

「外も、そんな感じでした」


晋一は店の中を見回し、

少し迷ってから言った。


「今日は……俺のことじゃないかもしれません」

「そうですか」

「昔のことを思い出しただけで」

「昔のことは、今の中に残るから思い出すのです」


榊の言葉は、

相変わらず説明のようでいて、

説明しきらない。


晋一は苦笑した。


「大した話じゃないんです」

「大した話でなくても、残ることはあります」

「……そうかもしれません」


榊は小さな香皿を机に置いた。


「今日は、誰の言葉でしょう」

晋一は少し考えた。

「“好きだった”……ですかね」

「言えなかったのですか」

「言うほどのことでもなかったのかもしれません」

「そう思いたいのですか」

「……たぶん」


榊はそれ以上追わなかった。


「座りますか」

「はい」


椅子に腰を下ろすと、

木の軋む音が小さく鳴った。


榊が香木に火を入れる。


煙はほとんど見えない。

けれど香りは、

静かに輪郭を持って広がっていく。


金木犀。

乾いたノート。

シャープペンシルの芯。

秋の夕方の教室。


晋一は目を閉じた。


遠くで、

チャイムのような音がした。


次に目を開けたとき、

そこは大学のキャンパスだった。


秋の光が、

銀杏並木のあいだから斜めに落ちている。

学生たちの笑い声。

自転車のベル。

遠くでサークル勧誘の声がする。


若い晋一がいた。


今よりずっと細くて、

肩に力が入っていて、

まだ自分の居場所をうまく決められない顔をしている。


その少し先に、

真鍋さんが立っていた。


ベージュのカーディガンに、

紺色のスカート。

髪を耳にかける仕草まで、

記憶の中と同じだった。


胸の奥が、

少しだけ痛んだ。


二人は並んで歩き出す。


「就活、どう?」

真鍋さんが聞く。

「まあまあ」

「何それ」

「まだよくわかんない」

「そっか」


彼女は笑う。

責めるでもなく、

ただ少し困ったように。


「晋一くんって、ほんとに何考えてるかわかんないときあるよね」

「そう?」

「うん。でも、たまに急にやさしい」

「何それ」

「この前、ゼミの資料、私の分まで取ってくれてたでしょ」

「ああ、あれ」

「ありがとう」

「別に」


その“別に”が、

若い晋一の口から出た瞬間、

今の晋一は胸の奥で顔をしかめた。


あの頃から、

何も変わっていない。


本当はうれしいのに、

照れくさくて、

受け取ったことを見せたくなくて、

すぐに言葉を閉じてしまう。


二人は図書館の前のベンチに座る。


真鍋さんが缶のミルクティーを開ける。

その甘い匂いが、

秋の空気に少しだけ混じる。


「私、名古屋の会社に決まりそう」

「へえ」

「へえ、だけ?」

「いや、すごいじゃん」

「ありがとう」


彼女は缶を両手で持ったまま、

少しだけ黙る。


「離れるんだなあ」

「……そうだな」

「晋一くんは?」

「東京かな」

「そっか」


風が吹いて、

銀杏の葉が一枚、

二人のあいだに落ちた。


現実では、

ここで何も起きなかった。


たしか、

就職の話をして、

ゼミの先生の癖を笑って、

それで終わったはずだった。


けれど、

香りの見せる別の時間の気配の中で、

若い晋一は少し長く黙ったあと、

口を開いた。


「真鍋さん」

「うん?」

「俺さ」


声が少し震えている。


「好きだった」


真鍋さんは、

すぐには反応しなかった。

驚いたように目を見開いて、

それから視線を落とす。


「……だった、なんだ」

「今も、たぶん」

「たぶん?」

「そういうとこだよな」


若い晋一は、

困ったように笑う。

真鍋さんも、

少しだけ笑った。


「うれしい」

彼女は言う。

「ほんとに?」

「うん」

「困ってない?」

「少しは困ってる」

「ごめん」

「でも、うれしい」


彼女は缶を膝の上に置いて、

風に揺れる銀杏を見上げた。


「私も、ちょっと好きだったよ」

その言葉に、

若い晋一の顔が止まる。


「ちょっと?」

「ちょっと」

「何だよ、それ」

「全部言わないの、そっちだけじゃないから」


二人は笑う。


その笑い方が、

あまりにも自然で、

今の晋一は見ているだけで苦しくなった。


もし言えていたら、

こういう時間があったのかもしれない。


大きく人生が変わるほどではなくても、

少なくとも、

何もなかったことにはならなかった。


場面が変わる。


卒業前の駅のホーム。

二人が並んで立っている。

真鍋さんは小さな紙袋を持っている。


「これ、前に貸してくれた本」

「読んだ?」

「読んだ。難しかった」

「だろうな」

「でも、最後は好きだった」

「そう」


電車が来る音がする。


真鍋さんが言う。


「言ってくれてよかった」

若い晋一は少し黙ってから、

「うん」と答える。


「付き合えたとか、そういうことじゃなくても?」

「うん」

「そっか」

「何も知らないまま終わるより、よかった」


その言葉が、

静かに胸へ落ちる。


何も始まらない恋でも、

言葉にしたことで、

“なかったこと”にはならない。


それは、

報われることとは少し違う。

でも、

確かに存在した時間として残る。


さらに場面が流れる。


数年後らしい、

小さな喫茶店。

真鍋さんは結婚前なのか、

まだ左手に指輪はない。

東京に出張で来たついでに会ったようだった。


二人は向かい合って座っている。

恋人同士ではない。

けれど、

気まずさもない。


「元気そうでよかった」

彼女が言う。

「そっちも」

「うん」

「結婚するんだって?」

「そう」

「おめでとう」

「ありがとう」


若い晋一は、

少しだけ寂しそうに笑う。

でもその顔には、

あの頃のような言い残しはない。


「好きだったよ」

彼はもう一度言う。

「知ってる」

「今は?」

「今は、懐かしい」

「そっか」

「でも、ちゃんと言ってくれたこと、たぶんずっと忘れない」


その言葉を最後に、

景色が少しずつ薄れていく。


喫茶店のコーヒーの匂い。

駅のホームの風。

金木犀。

古い本の紙。


気づくと、

晋一は店の椅子に座っていた。


榊が湯呑みを置く。

今日は少しだけ、

花の匂いに似た湯気がした。


「見えましたか」

「……はい」


晋一はしばらく、

湯呑みの表面を見つめていた。


「大したことじゃないと思ってました」

「そうですか」

「付き合ってたわけでもないし、

 何かを失ったってほどでもないし」

「はい」

「でも」


晋一はそこで言葉を探す。


「何もなかったから、

 何もなかったことにしてきたんだと思います」


榊は静かに聞いている。


「好きだったって、

 言えなかっただけで、

 あの時間ごと、なかったみたいにしてた」

「言葉にしないと、形にならないことがあります」

「……そうですね」


晋一は少し笑った。


「若い頃の俺、今よりひどかったですね」

「今も少し似ています」

「やっぱり」

「ええ」


その返しが少しおかしくて、

晋一は小さく笑った。


笑ってから、

ふと真顔に戻る。


「言わないことが、

 相手のためだと思ってた時期がありました」

「本当にそういうこともあります」

「でも、違うこともある」

「ええ」

「ただ、自分が傷つきたくなかっただけかもしれない」


榊は香皿の灰を静かにならした。


「言葉は、相手に渡すものです」

「はい」

「渡さなければ、やさしさだったのか、臆病だったのか、

 誰にもわからないまま残ります」


晋一はその言葉を、

胸の中でゆっくり反芻した。


やさしさだったのか。

臆病だったのか。


たぶん、

両方だったのだろう。


店を出ると、

夜風は少し冷えていた。


路地を抜けて駅へ向かう途中、

晋一はスマートフォンを取り出した。

昼にメッセージを送ってきた友人との画面を開く。


真鍋さん、元気そうだった?


それだけ打って、

少し迷う。

今さら何を知りたいのか、

自分でもよくわからない。


けれど、

送ってしまった。


すぐに返事が来る。


うん、元気そうだったよ。

子ども連れてた。

声かけようか迷ったけど、やめた。

懐かしかったな。


晋一は画面を見つめて、

小さく息を吐いた。


それでよかったと思う。


会いたいわけではない。

何かをやり直したいわけでもない。

ただ、

あの頃たしかに好きだったことを、

自分の中でなかったことにしないで済めば、

それでよかった。


駅の階段を上りながら、

また金木犀の匂いがした。


短い季節の匂いだった。

強く香るのに、

気づけばすぐに過ぎていく。


それでも、

通り過ぎたことがなかったことにはならない。


恋も、

言葉も、

たぶん同じだった。

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