第2話 「ごめん」
父の通院の日は、いつも空気が重い。
朝から曇っていた。
雨は降りそうで降らず、
街じゅうが息を止めているような天気だった。
下田晋一は、父の住む古い団地の階段を上りながら、
手にした紙袋を持ち直した。
中には病院の帰りに頼まれていた湿布と、
妹に言われて買ったレトルトのおかゆが入っている。
呼び鈴を押す前から、
部屋の中でテレビの音がしていた。
いつもの、昼の情報番組だった。
「俺だよ」
返事はない。
けれど鍵は開いていた。
「入るぞ」
靴を脱いで上がると、
父は居間の座椅子に座ったまま、
テレビのほうを見ていた。
振り向きもしない。
「病院、二時だろ」
「わかってる」
短い返事だった。
晋一は紙袋を台所に置き、
流しに洗っていない湯呑みが二つあるのを見た。
昨日、妹が来たのだろうと思う。
そのまま袖をまくって洗い始めると、
父が不機嫌そうに言った。
「そんなことしなくていい」
「別に、ついでだよ」
「ついでで人の家をいじるな」
晋一は少しだけ手を止めた。
水の音だけが残る。
「……悪い」
そう言って洗い終えた湯呑みを伏せる。
父は何も言わない。
昔からこうだった。
親切にしたいのか、放っておいてほしいのか、
最後までわからない人だった。
病院までの道でも、
会話はほとんどなかった。
父は杖をついて歩く。
歩けないほどではないが、
以前より明らかに遅くなっていた。
晋一が少し歩幅をゆるめると、
父はそれに気づいたように眉をひそめる。
「普通に歩け」
「普通に歩いてるよ」
「気を遣うな」
「遣ってない」
そう返しながら、
晋一は自分でも、どこまでが本当かわからなかった。
診察はすぐに終わった。
医師は膝の状態と血圧の話をして、
転倒に気をつけるようにとだけ言った。
父は「はい」とも「いいえ」ともつかない返事をし、
晋一は横で頭を下げた。
会計を待つあいだ、
妹からメッセージが来た。
どうだった?
先生、何て?
晋一は短く、
いつも通り。あとで話す
と返した。
その直後、また通知が来る。
施設の資料、見た?
今週中に返事しないといけないんだけど。
晋一は画面を見たまま、
しばらく指を止めた。
見たよ。
でも、まだ早い気がする。
送ると、すぐ既読がついた。
早いとか遅いじゃなくて、
今のうちに考えないと困るの。
私ばっかり動くの、もう無理。
胸の奥に、
鈍いものが沈んだ。
わかってる。
今度ちゃんと話そう。
送ってから、
自分でも嫌になる。
“今度”“ちゃんと”。
そういう言葉で先延ばしにしてきたことを、
いちばんよく知っているのは自分だった。
病院を出ると、
父がベンチに座りたいと言った。
自販機でお茶を二本買って戻ると、
父は空を見ていた。
「降りそうだな」
「そうだな」
一本を差し出すと、
父は黙って受け取った。
しばらくして、
父がぽつりと言う。
「お前、仕事はいいのか」
「半休だから」
「そうか」
「うん」
それきりだった。
何か話せばいいのにと思う。
施設のことでも、
妹のことでも、
母のことでも。
でも、父と向かい合うと、
言葉はいつも喉の手前で形を失う。
帰り道、
父はスーパーに寄ると言った。
牛乳と豆腐だけでいい、と言うので、
晋一はかごを持って後ろを歩いた。
豆腐売り場の前で、
父が急に立ち止まる。
「……あいつは、木綿しか買わなかったな」
晋一は一瞬、何のことかわからなかった。
それから、“あいつ”が母のことだと気づく。
「絹は崩れるから嫌だって」
「うん」
父は豆腐の棚を見たまま、
それ以上は何も言わなかった。
その横顔が、
ひどく年を取って見えた。
団地に戻ると、
玄関の前に妹が立っていた。
腕を組んで、
少し苛立った顔をしている。
「来てたんだ」
「さっき着いた」
「連絡すればよかったのに」
「したよ。返事なかったけど」
晋一はポケットのスマートフォンを見た。
マナーモードのまま、
通知がいくつか溜まっていた。
「悪い」
「最近そればっかり」
妹は小さく息をついた。
父が先に部屋へ入っていく。
兄妹は玄関先に少し残された。
「資料、見たんでしょ」
「見たよ」
「じゃあ何で何も言わないの」
「何も言わないわけじゃない」
「言ってないのと同じだよ」
声は抑えていたが、
怒っているのはわかった。
「まだ父さん、そこまでじゃないだろ」
「そこまでって何」
「施設に入るとか、そういう話を今すぐ決めるのは」
「今すぐ入れる話じゃないから、今から考えるんでしょ」
正しい。
妹の言うことは正しい。
だから余計に、
晋一はうまく返せなくなる。
「お兄ちゃんさ」
妹は少しだけ声を落とした。
「逃げてるだけじゃないの」
その言葉が、
思ったより深く刺さった。
「逃げてないよ」
「じゃあ何」
「慎重に考えてるだけだろ」
「慎重、ね」
妹は笑わなかった。
ただ疲れた顔で晋一を見る。
「お母さんのときも、そうだった」
「……何が」
「ちゃんと話そうって言って、結局何も言わないまま終わったじゃん」
晋一の顔から、
すっと熱が引いた。
「それ、今ここで言うことか」
「今だから言ってるの」
「関係ないだろ」
「あるよ」
妹の目が赤くなっていた。
怒っているのか、
泣きそうなのか、
晋一にはわからなかった。
「私だって怖いよ」
妹は言った。
「でも、誰かが決めなきゃいけないじゃん」
「だから今度」
「今度じゃなくて今なの!」
父の咳払いが、
部屋の奥から聞こえた。
二人とも黙る。
妹は唇を噛んで、
小さく「もういい」と言った。
それから靴を脱いで部屋に入っていく。
晋一はしばらく玄関に立ったまま、
動けなかった。
夕方、
妹は父の夕飯を整えてから帰った。
晋一にはほとんど目を合わせなかった。
「じゃあね、父さん」
「ああ」
「薬、ちゃんと飲んで」
「わかってる」
「お兄ちゃんも」
妹はそこで少しだけ言葉を切った。
「……別にいいけど」
それは“よくない”の言い換えだと、
晋一にもわかった。
妹が帰ったあと、
父はテレビを見ながら言った。
「お前たちも、年を取ったな」
晋一は苦く笑う。
「父さんに言われたくないよ」
「そうか」
父はそれだけ言って、
湯呑みに口をつけた。
その夜、
晋一はまっすぐ家に帰る気になれなかった。
駅をひとつ手前で降りて、
あてもなく歩く。
空気は湿っていて、
雨の匂いがした。
妹の言葉が、
何度も胸の中で繰り返される。
お母さんのときも、そうだった。
ちゃんと話そうって言って、
結局何も言わないまま終わったじゃん。
言い返したかった。
あのときは仕方なかったと。
自分なりにやっていたと。
見舞いにも行ったし、
必要なことはしていたと。
でも、
“必要なこと”と“言うべきこと”は、
たぶん同じではなかった。
気づくと、
あの路地に入っていた。
細い石畳。
古い木の引き戸。
薄く掠れた文字の看板。
「香舗 くらやみ」
店の前に立つと、
今日は少しだけ、
甘さの少ない香りがした。
乾いた土と、
古い紙の匂いが混じったような、
静かな香りだった。
戸を開けると、
榊がいつもの場所に座っていた。
「いらっしゃいませ」
「……こんばんは」
「雨はまだですね」
「そうですね」
晋一は少し迷ってから、
店の奥を見た。
「今日も、見えるんですか」
「必要なら」
榊の声は変わらない。
急かしもしないし、
慰めもしない。
晋一は小さく息をついた。
「今日は、俺じゃなくて」
「はい」
「たぶん、妹のことを考えてたんだと思います」
榊は黙って聞いている。
「謝りたい相手がいるんです」
「言えなかったのですか」
「……言えなかったというか」
晋一は少し笑って、
すぐにその笑みを消した。
「言う前に、意地になった」
榊は小さな香皿を机に置いた。
「“ごめん”は、遅れることの多い言葉です」
「そうかもしれません」
「遅れたからといって、意味がなくなるとは限りません」
晋一は椅子に座る。
「でも、言われる側は、もう待ってないかもしれない」
「ええ」
「それでも言うんですか」
「それでも、言わなければならないことがあります」
榊は香木に火を入れた。
立ちのぼるというほどの煙はない。
けれど香りは、
ゆっくりと空気の輪郭を変えていく。
乾いた紙。
雨の前の土。
古い学生鞄。
消しゴムのかす。
晋一は眉を寄せた。
「これは……」
「あなたの記憶ではないかもしれません」
「妹の?」
「あるいは、あなたが見落としていた時間の匂いです」
目を閉じる。
遠くで、
チャイムの音がした。
次に見えたのは、
夕方の小学校だった。
校門の前に、
ランドセルを背負った少女が立っている。
まだ低学年くらいの、
小さな妹だった。
雨が降りそうな空を見上げながら、
何度も道の向こうを気にしている。
やがて、
若い母が駆け足でやってくる。
エプロンのまま、
髪を少し乱している。
「ごめん、ごめん、待った?」
母がしゃがんで言う。
妹は唇を尖らせて、
でも泣かなかった。
「……ちょっとだけ」
「ほんとにごめんね。お兄ちゃんが熱出して」
「うん」
母は妹の頭を撫でる。
妹はその手を振り払わない。
場面が変わる。
今度は中学生の妹だった。
部活帰りらしく、
制服の袖をまくっている。
台所で皿を洗いながら、
母に言う。
「お兄ちゃんばっかり」
「何が?」
「心配されるの」
母は少し驚いた顔をして、
それから困ったように笑う。
「そんなことないよ」
「あるよ」
「晋一は放っておくと何も言わないから」
「私だって言わないよ」
「あなたは言わなくても顔に出るもの」
妹はふてくされたように黙る。
でもその横顔は、
少しだけ寂しそうだった。
また場面が変わる。
母の病室。
晋一の記憶にもある、
あの白い午後だった。
けれど今回は、
晋一ではなく妹がいる。
ベッド脇で、
母の手を握っている。
泣くまいとして、
肩に力が入っている。
「お母さん」
「ん?」
「私、この前、きついこと言ってごめん」
母は目を細める。
「何のこと?」
「もう知らないって言った」
「ああ」
母は少し笑った。
「言ったねえ」
「ごめん」
「いいよ、あんなの」
「よくない」
「よくなくても、わかるよ」
妹の目から、
そこで涙が落ちた。
「私、ほんとは」
「うん」
「怖い」
母は握られた手を、
弱く握り返す。
「うん」
「お母さんがいなくなるの、やだ」
「うん」
「でも、そんなこと言ったら困らせると思って」
「困らないよ」
母の声は、
やわらかかった。
「言ってくれてよかった」
妹は泣きながらうなずく。
その光景を見て、
晋一の胸の奥が痛んだ。
妹は言えていたのだ。
少なくとも、
自分よりはずっと。
ごめんも、
怖いも、
やだも。
言葉にして、
母に渡していた。
場面はさらに流れる。
葬儀のあと。
実家の台所で、
妹がひとり皿を洗っている。
若い晋一が入ってくる。
現実では、
たしか何も言わなかった。
水の音だけがして、
二人とも疲れていて、
そのまま別の部屋へ行ったはずだった。
でも、
別の時間の気配の中では、
晋一が立ち止まる。
「……ごめん」
妹が振り向く。
「何が」
「いろいろ」
「いろいろじゃわかんない」
「母さんのことも」
「うん」
「父さんのことも」
「うん」
「お前に任せるみたいになって」
妹はしばらく黙っていた。
それから、
少しだけ泣きそうな顔で笑う。
「ほんとだよ」
「うん」
「遅いよ」
「うん」
「でも」
妹は袖で目元を拭う。
「言わないよりは、まし」
その言葉が、
静かに胸へ落ちた。
見えていた景色が、
ゆっくり薄れていく。
水の音。
台所の蛍光灯。
洗剤の匂い。
泣いたあとの鼻の奥の熱さ。
気づくと、
晋一は店の椅子に座っていた。
榊が湯呑みを置く。
今日は少し熱めの湯気が立っていた。
「見えましたか」
「……はい」
晋一はすぐには顔を上げられなかった。
「妹は、ちゃんと言えてたんですね」
「そう見えたのですね」
「俺より、ずっと」
榊は何も評価しない。
ただ、そこにいる。
晋一は湯呑みに手を添えた。
「俺、妹のこと、勝手に強いと思ってたのかもしれない」
「強い人ほど、先に言葉を使うことがあります」
「え?」
「黙っていれば済むことを、言わなければならないからです」
晋一はその言葉を、
すぐには飲み込めなかった。
妹は強い。
たしかにそうだ。
でもそれは、
平気だからではなかったのかもしれない。
怖くても、
腹が立っても、
傷ついても、
言わなければ前に進まないと知っていたから、
言っていたのかもしれない。
「……ごめん、って」
晋一はぽつりと言う。
「言われたい言葉でもあるんですね」
「そうですね」
「謝りたい言葉だと思ってました」
「どちらでもあります」
榊は静かに香皿の灰をならした。
「謝罪は、過ちを消すための言葉ではありません」
「じゃあ、何ですか」
「相手の痛みを、見なかったことにしないための言葉です」
晋一は目を閉じた。
妹の顔が浮かぶ。
玄関先で、
怒りをこらえていた顔。
赤くなった目。
“今度じゃなくて今なの”と言った声。
店を出るとき、
外はもう雨だった。
細い雨が、
石畳を静かに濡らしている。
晋一は軒先で少し立ち止まり、
スマートフォンを取り出した。
妹とのメッセージ画面を開く。
何度か打って、
消す。
ごめん。
今日は悪かった。
逃げてないつもりだったけど、
たぶん逃げてた。
父さんのこと、任せるみたいになってて悪かった。
今週、ちゃんと時間つくる。
そこまで打って、
また止まる。
長い。
言い訳っぽい。
もっと違う言い方がある気もする。
でも、
完璧な言葉を待っていたら、
また遅れる気がした。
晋一は息をついて、
送信した。
すぐには返事は来ない。
それでも、
少しだけ肩の力が抜けた。
駅へ向かって歩き出したところで、
通知が震える。
妹からだった。
了解。
土曜、午後なら空く。
父さんの前では言いにくいから、先に二人で話そ。
晋一は画面を見つめたまま、
小さく息を吐いた。
許されたわけではない。
何かが解決したわけでもない。
でも、
見なかったことにはしなかった。
雨はまだ弱い。
傘を差すほどでもない細さで、
頬に触れると少し冷たかった。
晋一は空を見上げる。
母に言えなかった言葉は、
もう届かない。
けれど、
今ならまだ間に合う相手がいる。
そのことが、
雨の匂いと一緒に、
静かに胸へ入ってきた。




