第1話 「ありがとう」
雨は、まだ降っていなかった。
けれど、もうすぐ降るのだろうということだけは、
空気にふれた瞬間にわかった。
湿った風が、シャツの袖口にまとわりつく。
誰かが傘をひらいてもおかしくないような夕方だった。
下田晋一は、駅前の大きな通りを外れて、
細い道をゆっくり歩いていた。
急いで帰る理由が、今日はあまりなかった。
会議が長引いたせいかもしれない。
若い部下が出した案は、最後までちゃんと拾われないまま終わった。
上司はいつものように角の立たない言い方で話をまとめ、
晋一もまた、曖昧にうなずいた。
そういうことに慣れてしまったのは、
いつ頃からだっただろう。
誰も傷つけないように言葉を選ぶたび、
そのかわりに、自分の中の何かが少しずつ黙っていく。
そんな一日の終わりだった。
スマートフォンが震えた。
妹からのメッセージだった。
父のことで、今度ちゃんと話したい。
施設のこともあるし、できれば逃げないで。
短い文だった。
けれど、読み終えたあともしばらく、
その最後の一行だけが画面に残っているような気がした。
逃げないで。
晋一は立ち止まり、
返信の画面を開いて、閉じた。
「わかった」と打てば済む。
それだけのことなのに、
指がうまく動かなかった。
父のことを考えると、母のことを思い出す。
母のことを思い出すと、
胸の奥の、なるべく見ないようにしていた場所に、
ひとつの言葉が沈んでいるのがわかる。
ありがとう。
たったそれだけだった。
たったそれだけのことを、
どうして最後まで言えなかったのか、
今でもうまく説明できない。
見舞いには行っていた。
頼まれたものも買ったし、
医師の話も、ちゃんと聞いた。
できることはしていたはずだった。
それでも、
いちばん簡単な言葉だけが言えなかった。
照れくさかったのかもしれない。
今さらのような気がしたのかもしれない。
そのひと言を口にしたら、
本当に終わってしまう気がしたのかもしれなかった。
どれも少しずつ本当で、
どれも決定的ではない気がした。
気づくと、見たことのない路地に入っていた。
細い石畳の先に、
古い木の引き戸の店がある。
看板は小さく、
薄く掠れた文字で「香舗 くらやみ」と読めた。
こんな場所に、こんな店があっただろうかと思う。
けれど、引き戸の隙間から流れてきた香りに、
晋一は足を止めた。
甘い、というほど甘くはない。
乾いているのに、どこかやわらかい。
懐かしいような気もするのに、
何を思い出しかけているのかまでは、わからない。
ただ、その匂いの前では、
通り過ぎることのほうが不自然な気がした。
晋一は、そっと戸を開けた。
店の中は、思っていたよりも静かだった。
棚には小さな箱や香炉が並び、
奥に低い机がひとつ置かれている。
明かりは暗すぎず、明るすぎず、
夕方の色をそのまま室内に残しているようだった。
「いらっしゃいませ」
声のしたほうを見ると、
奥にひとりの女性が座っていた。
六十代くらいだろうか。
白いブラウスに、濃い色のカーディガン。
髪はきちんとまとめられていて、
やわらかな顔立ちをしているのに、
どこか簡単には踏み込ませない静けさがあった。
「お線香、ですか」
そう訊かれて、
晋一は少しだけ戸惑った。
「いえ……たまたま」
「そういう方もいらっしゃいます」
女性は、それ以上は何も訊かなかった。
何を探しているのか、
誰のために来たのか、
そういうことを聞かれないだけで、
少しだけ肩の力が抜ける気がした。
晋一は棚を眺めるふりをしながら、
店の奥に漂う香りをもう一度吸い込んだ。
白檀に似ている気がした。
けれど、もっとやわらかい。
仏壇の前というよりは、
古い箪笥の引き出しや、
洗いたてのシーツの端に残る匂いに近かった。
「その香り、気になりますか」
振り向くと、
女性が小さな香皿を手にしていた。
「人によって、引っかかる香りは違います」
「……引っかかる」
「忘れたつもりの記憶に、
まだ居場所があるときだけです」
晋一は、曖昧に笑った。
少し変わった店だと思った。
けれど、不思議と警戒心は湧かなかった。
言葉の選び方が、どこか静かだったからかもしれない。
女性は香皿を机に置き、
向かいの椅子を軽く示した。
「よろしければ、少しだけ」
「何をですか」
「見えることがあります」
晋一は眉をひそめた。
宗教の勧誘か何かだろうかと、
一瞬だけ思う。
けれど、女性の声には押しつけがましさがなかった。
信じさせようとしているというより、
ただ、そういうこともあると知っている人の言い方だった。
「何が」
「言えなかった言葉の、その先です」
その言葉にだけは、
うまく笑えなかった。
女性は、静かな声のまま続けた。
「過去は変わりません。
でも、もしあの時、そのひと言を口にしていたら、
あなたがどんな時間を生きたか――
その気配だけ、香りが見せることがあります」
帰るべきだと思った。
こんな話を信じる年齢でもない。
それに、疲れているだけかもしれない。
少し休めば済むことを、
大げさに受け取っているだけかもしれなかった。
けれど、妹からのメッセージがまだ胸に残っていた。
父のこと。
母のこと。
そして、ありがとう、という、
たった五文字のこと。
「……見たら、どうなるんですか」
「何も変わりません」
女性は静かに言った。
「変えられるのは、見たあとの今だけです」
その言い方が、
妙に誠実だった。
晋一は、ゆっくり椅子に座った。
女性は小さな香木を灰の上に置き、
火を入れた。
煙はほとんど立たない。
ただ、香りだけが、ゆっくりと広がっていく。
「目を閉じても、閉じなくても」
「あなたは誰なんですか」
「店番です」
「名前は」
「榊と申します」
榊はそれだけ言って、
少し離れた。
香りが深くなる。
白檀。
でも、それだけではなかった。
干した布団。
病院の廊下。
冬のコート。
母のハンドクリーム。
そんなものが、
順番もなく胸の奥から浮かんでくる。
晋一は、そっと目を閉じた。
遠くで、何かが軋むような音がした。
それが店の木の床なのか、
記憶の継ぎ目なのかは、わからなかった。
次に目を開けたとき、
そこは病室だった。
午後の光が、
薄いカーテン越しに白く差している。
ベッドの上に、母がいた。
痩せてはいたけれど、
まだ話せる頃の顔だった。
亡くなる数日前。
晋一が何度も思い返した、
あの日の午後だった。
若い頃の自分が、
ベッド脇の椅子に座っている。
スーツの上着を脱ぎ、
ネクタイを少し緩めて、
落ち着かない手つきで紙袋をいじっていた。
母が言う。
「仕事、忙しいのに悪いね」
若い晋一は、首を振る。
「別に」
「その“別に”って言い方、お父さんにそっくり」
母は少し笑った。
その会話も、覚えていた。
ここまでは、現実と同じだった。
違ったのは、そのあとだった。
母が窓の外を見て、
ぽつりと言う。
「晋一、あんたは、ちゃんと食べてるの」
若い晋一は少し黙る。
現実では、ここで曖昧に笑って終わった。
母もそれ以上は言わなかった。
でも今、
別の人生の中の晋一は、笑わなかった。
「……母さん」
声が震えている。
「なに」
「俺、ちゃんと言ってなかったけど」
母がこちらを見る。
若い晋一は、
喉につかえたものを押し出すように言った。
「ありがとう」
病室の空気が、
そこで少し変わった気がした。
母はすぐには返事をしなかった。
驚いたように目を見開いて、
それから、困ったように笑う。
その笑い方が、
晋一の知っている母そのままで、
胸の奥が痛くなった。
「何、急に」
「急じゃないよ」
「急だよ」
「……ずっと言ってなかったから」
「そんなの、別に」
「別にじゃない」
若い晋一は、
泣きそうな顔で笑っていた。
「弁当も、洗濯も、受験のときも、就職のときも、離婚したあとも……」
母が目を伏せる。
「離婚のことは、あんたが悪いわけじゃ」
「そういうことじゃなくて」
若い晋一は一度、息を吸った。
「母さんがいたから、俺、なんとかやってこれた」
母の目に涙が浮かぶ。
でも泣くまいとするように、
少しだけ顎を上げた。
「そういうのは、もっと早く言いなさいよ」
「うん」
「死ぬ前みたいじゃない」
「……死ぬ前だろ」
「やめなさい」
母は泣きながら笑った。
若い晋一も笑った。
その笑い声が、
病室の白さを少しだけやわらかくした。
場面が変わる。
葬儀のあとだった。
父が台所でひとり、
湯のみを洗っている。
現実では、晋一は何も言えずに帰った。
けれど別の人生では、
晋一が父の隣に立っていた。
「親父」
「なんだ」
「母さんに、ありがとうって言えた」
父の手が止まる。
「……そうか」
「親父は?」
父はしばらく黙ってから、
蛇口を閉めた。
「言ってない」
「そっか」
「言わなくてもわかると思ってた」
晋一は小さく笑う。
「俺も」
父はそこで初めて、
少しだけ泣いた。
現実では見たことのない泣き方だった。
背中を丸めて、
声を殺して、
短く。
また場面が変わる。
数年後。
父はまだ元気で、
晋一は実家に前より帰るようになっていた。
食卓で、父が味噌汁に文句を言い、
晋一が呆れ、
母のいない席にふと沈黙が落ちる。
でもその沈黙は、
現実のような冷たさではなく、
同じ人を失った者同士の静けさだった。
さらに場面が流れる。
妹と三人で母の墓参りに行く日。
父が少し弱って、
晋一が自然に腕を貸す日。
実家を片づけながら、
母の古いエプロンを見つけて笑う日。
誰かを失った悲しみは消えない。
けれど、
あの病室で「ありがとう」を言えたことで、
家族の時間の流れ方が
少しだけ違っていた。
幸せだった。
たしかに、こちらの人生も。
けれど。
次に見えたのは、
見たことのない部屋だった。
明るいリビング。
食卓に、見知らぬ女性と小さな男の子がいる。
若い晋一が笑っている。
その顔は、
今の自分より少しだけやわらかかった。
ああ、と晋一は思う。
この人生では、
たぶん離婚しなかったのだ。
母にありがとうを言えたことが、
父との関係を変え、
家族との距離を変え、
その先で、
妻とのすれ違い方まで
少しずつ変わったのかもしれない。
その光景はあたたかかった。
胸が締めつけられるほどに。
けれど同時に、
晋一は気づく。
この部屋には、
今の人生で出会った人たちがいない。
離婚後に偶然再会して、
今も時々食事をする大学時代の友人も。
仕事で失敗したとき、
黙って缶コーヒーを置いてくれた後輩も。
最近になって少しずつ話せるようになった、
妹の変化も。
そして、
今の自分がようやく持てるようになった、
遅すぎる優しさも。
別の人生は、
たしかに幸せだった。
でも、
今の人生が間違いだったわけではない。
その思いが浮かんだ瞬間、
景色がゆっくり薄れていった。
気づくと、
晋一は店の椅子に座っていた。
香りはまだ、かすかに残っている。
榊が、湯気の立つ湯呑みを机に置いた。
「お疲れさまでした」
晋一はすぐには声が出なかった。
喉の奥が熱い。
泣いたあとのような、
長く息を止めていたあとのような感覚だった。
「……あれは」
「見えたものです」
「もし、あの時……」
「そうかもしれませんし、違うかもしれません」
榊は静かに言った。
「大事なのは、あなたが何を見たかです」
晋一は湯呑みに触れた。
温かかった。
しばらくして、
榊が尋ねる。
「羨ましかったですか」
晋一は考える。
母にありがとうを言えた人生。
父と少し近くいられた人生。
失わずに済んだものが、
たしかにあった。
でも。
「……羨ましい、とは少し違います」
「では」
「よかった、と思いました」
榊は黙って聞いている。
「ちゃんと言えた自分がいて、
母がそれを聞けたなら、
それはよかった」
「はい」
「でも」
晋一はそこで息をついた。
「今の人生にも、
いなかったはずの人がいるんです」
榊の目が、
ほんの少しだけやわらいだ。
「そうですか」
「だから、
あっちが正しかったとは思わない」
「ええ」
榊は香皿の灰を静かにならした。
「言えなかったから今がある。
けれど、
言えなかったままでいいとは限りません」
晋一は顔を上げる。
「過去の相手には届かなくても、
今の誰かに届く言葉はあります」
妹からのメッセージが、
また胸に浮かぶ。
父のこと。
逃げないで、と書かれていたこと。
晋一は店を出る前に、
榊に聞いた。
「また来てもいいんですか」
「必要なら」
「必要かどうかは」
「あなたが決めることです」
外に出ると、
雨が降り始めていた。
さっきまでの湿った空気が、
ようやく形になったような雨だった。
晋一は駅へ向かいかけて、
立ち止まる。
スマートフォンを取り出し、
妹のメッセージを開く。
指が少し震えた。
わかった。
今度じゃなくて、今週行く。
父さんのこと、ちゃんと話そう。
送信する。
すぐには返事は来ない。
でも、それでよかった。
少し歩いてから、
晋一はもう一度立ち止まった。
連絡先の一覧を開く。
長いあいだ、
用事があるときしかかけていない番号。
父の携帯だった。
呼び出し音が鳴る。
一回。二回。三回。
切ろうかと思ったところで、
出た。
「……なんだ」
ぶっきらぼうな声だった。
年を取った父の声だった。
晋一は一瞬、
何も言えなくなる。
喉まで、
いくつもの言葉が上がってきて、
ぶつかる。
元気か。
今度行く。
施設のことだけど。
母さんのこと、思い出してた。
でも結局、
最初に出たのは、それではなかった。
「飯、ちゃんと食ってる?」
電話の向こうで、
父が黙る。
それから、
少しだけ鼻を鳴らすように笑った。
「お前に言われたくない」
晋一も笑った。
雨の中で、
少しだけ泣きそうになりながら。
その夜、
母に言えなかった「ありがとう」は、
まだ母には届かないままだった。
けれど、
その言葉の残り香は、
たしかに今の人生へ続いていた。




