第99話 消えゆく背中に
火の神殿アグニ・ゼル――。
黒炎に覆われた空の下、世界はもはや“戦場”という言葉では収まらない領域へと変わっていた。
焼け落ちた大地は、まだ熱を持ったまま静止し、崩れた空間だけが、かすかに歪んで揺れている。
時間そのものが、どこか壊れていた。
『ガァァァァァァァァァァッ!!』
黒炎竜の咆哮が空を裂く。
けれどそれは、ただの破壊音ではなかった。
苦しみでもない。
怒りでもない。
もっと――遠いもの。
届きそうで届かない、“声にならなかった何か”。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
その胸の奥で、紅蓮の光が脈打つ。
まるで、まだ“人の心”がそこに残っているかのように。
その瞬間だった。
紅蓮の光が弾けるように走り――
二つの意識が、世界へ戻る。
「……父、様……?」
ルシエルの声は震えていた。
目に涙が浮かぶのに、それを拭うこともできない。
ただ、見上げている。
あの“存在”を。
隣でイグニアも拳を握りしめる。
指が白くなるほど強く。
それでも、手は震えていた。
「……助ける」
ルシエルが、かすかに言った。
強く言ったわけじゃない。
それでも、その言葉だけは揺れなかった。
イグニアも、ゆっくりと息を吐く。
そして小さく頷く。
「……うん」
たったそれだけ。
けれど、それで十分だった。
二人の紋章が、静かに光を取り戻す。
水と火。
相反するはずの力が、今は不思議なほど自然に共鳴していた。
「今度こそ……」
ルシエルの声が震える。
「今度こそ、届く……」
「絶対に……」
イグニアが続ける。
それは誓いというより、祈りに近かった。
その時、空気が“裂けた”。
ゴォォォォォォォォッ!!
黒炎竜の背後に、巨大な影が浮かび上がる。
それは“闇”ではなく――“侵食”。
ネメシスの意思そのものが、竜王の魂へと絡みついていた。
「……見えます」
セレフィーナの声が震える。
「侵食核……あれが、根です……!」
セインが目を細める。
その瞳には、珍しく苛立ちがあった。
「まだ残ってたか……」
バルグラドが戦斧を肩に担ぐ。
「なら、壊すだけだろ」
「違うよ」
セインの声は、鋭かった。
「壊したら――あいつも消える」
その言葉で、空気が凍る。
リナが一歩前に出る。
熱風に銀髪が揺れた。
けれど、その瞳は揺れなかった。
「だったら……」
声は小さい。
けれど、確かだった。
「私が、助ける」
一瞬、誰も何も言えなかった。
フェルが、静かに目を細める。
『やっと言えたな』
リナは、小さく息を吐く。
そして頷いた。
もう迷いはない。
「火は壊すためのものじゃない」
リナの声が、ゆっくりと戦場に落ちる。
「想いを、残すための力」
イグニアが、はっと顔を上げる。
それは――あの声だった。
あの、どこか遠い記憶の声。
その瞬間、紅蓮の光が静かに“現れた”。
炎は燃えていない。
熱もない。
ただ――優しかった。
その中心に、一人の女性が立っていた。
長い紅蓮の髪。
揺れる瞳は、炎のようで、涙のようでもあった。
「……フレイア」
誰かが、息のように呟いた。
その名に、誰もが息を止める。
ルシエルも。
イグニアも。
セインも。
バルグラドさえも。
フレイアは、ただ微笑んでいた。
長い時間を越えてきたような、静かな笑み。
「おかえりなさい」
その言葉は、誰に向けられたものか分からない。
けれど――確かに、何かが戻ってきた気がした。
バルグラドの目から、一筋の涙が落ちる。
「……ああ」
声が震えている。
「やっと……」
膝が、力なく折れる。
戦場のど真ん中で、それでも誰も止められなかった。
「俺は……」
「守れなかった……」
「……ごめん……」
フレイアは、ゆっくり首を振る。
その動きだけが、やけに優しかった。
「違うわ」
その一言に、空気がほどける。
「あなたは今、ここにいる」
「それだけで、十分よ」
バルグラドは、何も言えなかった。
ただ、肩を震わせるだけだった。
その時――大地が“鳴った”。
ドクン。
火の神殿が、目を覚ます。
『侵食対象を確認した』
『竜王を保護対象とする』
『判定を開始する』
守護神獣グレンディアの声が響く。
世界が静まる。
ネメシスの闇が、激しく揺れ始める。
まるで“拒絶”しているかのように。
だが、グレンディアの瞳は揺れなかった。
ただ静かに――見ていた。
『継承者を確認する』
その瞬間、ルシエルとイグニアの身体が光に包まれる。
「……っ」
ルシエルの背に、蒼銀の翼。
イグニアの背に、紅蓮の翼。
そして、イグニアの拳に火が灯る。
それは炎ではない。
“意志”だった。
「これが……」
イグニアが震える。
「竜王の……」
ルシエルが、涙を拭わずに笑う。
「力……」
『継承を認可する』
グレンディアの声が落ちる。
次の瞬間――
紅蓮の柱が、天へと突き抜けた。
「父様を……返せぇぇぇぇぇ!!」
水の槍。
火の拳。
二つの力が交差する。
世界が、泣いたように揺れた。
そして――黒炎が砕け、静寂が落ちる。
長い、長い静寂。
やがて――
黒炎竜の身体から、黒が抜け落ちていく。
崩れ落ちる巨体。
『……ルシエル』
かすかな声。
『……イグニア』
その声に、二人の涙が溢れた。
「……父様」
「……父様ぁ……」
竜王は、確かに笑っていた。
「……大きく、なったな」
その一言だけで、すべてが満たされてしまうような気がした。
けれど、竜王はゆっくりと首を振る。
「いや……まだだ」
ルシエルとイグニアが顔を上げる。
「これからだ」
竜王の声は、もう戦う者の声ではなかった。
「お前たちの未来は……」
「私たちが、見られなかった未来だ」
風が吹く。
黒炎が、静かに消えていく。
「だから……託す」
竜王の身体が、光になっていく。
「誇りを持って、生きろ」
「私の子供たちよ」
その手が、そっと伸ばされる。
届かない距離。
それでも、確かにそこにある。
ルシエルが、泣きながら手を伸ばす。
イグニアも。
けれど――届かない。
それでも、いいと思えた。
「父様……」
その言葉だけが、静かに落ちた。
そして――
竜王は光になった。
残されたのは、静かな風だけだった。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
イグニアはただ、崩れた空を見上げたまま動かない。
ルシエルは、伸ばした手をまだ下ろせずにいる。
リナの指先には、温もりが残っていた気がした。
けれど――もう、そこには誰もいない。
それでも火の神殿は、静かに脈打っていた。
まるでまだーー。
何かを“見ている”ように。
第99話 終わり
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