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白猫フェルと森の薬師 〜精霊に愛された少女は世界を癒す〜  作者: もふ森こはく


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第97話 想いを繋ぐ情熱

火の神殿アグニ・ゼル――。


――その瞬間だった。


黒炎竜の胸の奥で、一本の黒い亀裂が走った。


それは、これまで辛うじて押し留められていた何かが、ついに限界を迎えたかのようだった。


亀裂は瞬く間に枝分かれしながら広がり、紅金色の炎を覆い尽くしていた黒炎の表面を大きく裂いていく。


『グォォォォォォォォォォッ!!』


大地そのものを揺るがす咆哮が、火の神殿アグニ・ゼル全体を震わせた。


天井から無数の石片が崩れ落ち、床に刻まれた古代文字が激しく明滅する。神殿を満たしていた熱気は一瞬にして膨れ上がり、舞い上がった灰が赤黒い渦となって視界を覆った。


その中心にいる黒炎竜の巨体には、もはや自然の炎とは呼べないほど異質な黒い火が絡みついている。


意思を持つ生き物のように蠢く黒炎は、竜王の身体そのものを喰らおうとするかのように這い回り、その胸の奥に残された紅金色の炎を押し潰そうとしていた。


「父様……!」


イグニアの胸元で、紅蓮の紋章が強く脈打った。


ドクン――。


身体の奥を駆け抜けた熱に、イグニアは思わず胸元を押さえる。けれど、その熱は痛みではなかった。


むしろ遠く離れた場所から、誰かが必死に手を伸ばし、自分の名を呼び続けているような、懐かしく切ない感覚だった。


「イグニア!」


駆け寄ってきたリナが、心配そうに彼女の顔を覗き込む。


「大丈夫!?」


「……大丈夫」


そう答えながらも、イグニアの視線は黒炎竜から離れなかった。胸の奥に響く微かな熱を感じ取るたび、その瞳には焦りと希望が入り混じっていく。


「父様が……呼んでる」


その言葉に、リナの表情が強張った。だが次の瞬間、黒炎竜の周囲で炎が大きく膨れ上がった。


「来るぞ!」


レオンが鋭く叫び、剣を構える。


直後、神殿の奥から巨大な黒炎の奔流が押し寄せた。まるで黒い濁流そのものが意思を持って襲いかかってくるような勢いだった。


「くっ……!」


レオンは一歩踏み込み、迫り来る黒炎を剣で横薙ぎに斬り裂いた。炎の壁が二つに割れた瞬間、その僅かな隙間へアルが飛び込む。


「はあああああっ!!」


咆哮とともに振り下ろされた大剣が、黒炎の塊を真正面から叩き潰した。


轟音とともに炎が弾け飛ぶ。


しかし、消えたはずの黒炎はそのまま宙へ散ることなく、蛇のようにうねりながら形を変え、別の方向から再び襲いかかった。


「しつこいな……!」


アルは歯を食いしばりながら大剣を返し、迫る炎を弾き飛ばす。


その横をセレフィーナが駆け抜け、小剣を滑らせるように振るった。


「こちらからも来ます!」


鋭い斬撃が黒炎の一部を切り裂く。


「今です!」


エリオスが杖を掲げると、渦巻く風が神殿の奥へと吹き抜け、黒炎の奔流を大きく押し返した。一瞬だけ、黒炎の海の中に道が開く。


「今だ!」


セインの声が響いた。その声を合図に、ルシエルが飛び出した。


「父様――!」


龍槍を強く握り締め、黒炎竜の胸元へ一直線に駆ける。その瞳には、父を救いたいという強い意志が宿っていた。


「父様を……返してもらう!」


渾身の力を込めた龍槍が、黒炎へ突き刺さった。


――しかし。


ドォォォン!!


次の瞬間、黒炎が内側から爆発した。


「ぐあっ!」


弾き飛ばされたルシエルの身体が宙を舞う。


「ルシエル!」


すぐさまレオンが駆け出し、落下してきた身体を受け止めた。


「大丈夫か!」


「……平気」


苦痛に顔を歪めながらも、ルシエルはレオンの腕から離れると、再び龍槍を握り直した。膝は僅かに震えている。それでも、その瞳から戦う意志だけは消えていなかった。


「まだ……やれる」


その姿を見つめながら、イグニアは唇を強く噛み締めた。


みんなが戦っている。自分の父を救うために、傷つくことも恐れず、命を懸けて黒炎を食い止めている。


それなのに――自分は、何もできない。胸の奥が締め付けられ、握り締めた拳に爪が食い込んだ。


「私……何も……できない」


目の前には、確かに父の炎がある。その存在を感じることはできる。声も、熱も、微かな鼓動さえ届いている。


なのに、自分の炎はそこへ届かない。


「もっと……力があれば……」


零れた言葉に呼応するように、胸の奥から苦い記憶が蘇った。


幼い頃に見上げた父の背中。どれだけ手を伸ばしても届かなかった、大きくて温かな背中。


あの日、もっと強ければ。


もっと力があれば。


あのとき父を失わずに済んだのではないか。


そんな後悔が、何度も何度も胸の奥を締め付けてきた。


『グォォォォォォォォォォッ!!』


黒炎竜の咆哮が響き渡る。


けれど、その声に混じっている苦しみを感じ取った瞬間、イグニアの胸はさらに強く痛んだ。


父は、まだそこにいる。


消えてはいない。


確かに自分を呼んでいる。


それなのに――届かない。


「嫌……」


小さく漏れた声は、次第に震えを帯びていった。


目の前では、仲間たちが戦っている。


何度吹き飛ばされても立ち上がるルシエル。その身を盾にして仲間を守るレオン。大剣を振るい続けるアル。必死に戦線を支えるセレフィーナとエリオス。


そしてセインは、一歩も退くことなく全員の動きを見ながら、迫り来る黒炎を食い止め続けていた。


誰も諦めていない。


誰も父を見捨てようとしていない。


その光景を見つめているうちに、イグニアの胸の奥で押し殺していた感情が、堰を切ったように溢れ出した。


「父様を失うのも……仲間を失うのも、もう嫌だ!」


叫びが神殿中へ響き渡った。


その瞬間――胸の奥で何かが確かに燃えた。


炎というよりも、これまで閉じ込めていた想いそのものが、初めて熱を持ったような感覚だった。


「イグニア」


激しい戦場の中で、不思議なほど穏やかな声が届く。


リナだった。


黒炎の熱と灰に包まれながらも、リナはまっすぐにイグニアを見つめている。


その瞳には、焦りも恐れもなかった。


ただ、目の前にいる一人の少女を信じるような、静かな優しさがあった。


「きっと……力が足りないんじゃないよ」


「……え?」


イグニアが振り返る。


リナは、ゆっくりと言葉を続けた。


「たぶん、あなたの炎は……最初から誰かを倒すためだけのものじゃない」


その言葉が、イグニアの胸に静かに落ちていく。


「フレイアが教えてくれたんでしょう?」


その名を聞いた瞬間、イグニアの脳裏にあの少女の姿が浮かんだ。


炎に包まれた静かな空間。燃え盛る炎の中にいながら、それでも穏やかに微笑んでいた少女ーーフレイア。


あの時の自分は、炎をまだ恐れていた。


強すぎる力。


制御できない熱。


怒り。


悲しみ。


恐怖。


だから、それらを押し込めようとした。炎を強くするためには、弱い感情を捨てなければならないと思っていた。


けれど――フレイアは違った。


『火は、記憶よ』


静かな声が、胸の奥で蘇る。


続いて、もう一つの言葉が重なった。


『情熱』


『それが、あなたの加護』


「……情熱」


イグニアの唇から、静かにその言葉が零れた。その瞬間、胸の奥に閉じ込めていたものが、ゆっくりと動き始めた。


父を失いたくない。


助けたい。


もう一度、あの温かな手に触れたい。


仲間を傷つけたくない。


みんなと一緒に帰りたい。


怖い。


悔しい。


悲しい。


怒っている。


それでも――前へ進みたい。


どれ一つとして、捨てることはできなかった。どれも、自分が大切なものを守りたいと願った証だから。


イグニアは胸へ手を当てた。


「……全部」


その声には、先ほどまでの震えとは違うものが宿っていた。


「全部、私の中にある」


怒りも。


悲しみも。


恐怖も。


悔しさも。


父を愛する気持ちも。


仲間を守りたいという願いも。


それらは炎を弱くするものではない。


むしろ、そのすべてを抱えたまま、それでも大切なものへ手を伸ばそうとする心こそが、自分の炎なのだ。


そのときだった。


「……失いたく、ないよね」


黒炎の轟音の向こうから、小さな声が聞こえた。


セインだった。


誰かに話しかけたわけではない。ただ、イグニアの背中を見つめながら、無意識に言葉が零れたようだった。


その手が、ほんの一瞬だけ強く握られる。


「大切な人を……」


そこまで呟いたところで、セインは言葉を止めた。


視線が僅かに揺れる。まるで、胸の奥にしまい込んでいた何かに触れてしまったように。


けれど、それ以上は語らない。すぐに黒炎へ向き直り、武器を構え直した。


「……今は、目の前のものを守るだけだ」


その横顔には、いつもの静かな強さが戻っていた。イグニアは、その言葉を聞いていた。


けれど、今はその意味を深く考える余裕はなかった。ただ、セインの言葉に背中を押されたような気がした。


自分にも、守りたいものがある。


だからこそ、ここで立ち止まるわけにはいかない。


「私は……強くなりたい」


一歩、前へ出る。黒炎の熱が肌を焼く。それでも退かない。


「父様を取り戻すために」


さらに一歩。


「仲間たちを守るために」


そして、胸元の紋章へ手を添える。


「そして――私自身の炎を、もう怖がらないために」


ドクン――。


紅蓮の紋章が脈打った。


その瞬間だった。黒炎竜の胸の奥で、紅金色の炎が揺れた。ほんの僅かだった。けれど、確かに。


「……!」


イグニアが息を呑む。その微かな光の奥から、何かが聞こえた。


『……イ……』


「……父様?」


聞き間違いではない。イグニアが一歩踏み出した瞬間、再び声が届く。


『……イ……グ……ニア……』


「父様……!」


涙が、頬を伝った。


確かに聞こえた。


父は、まだいる。


闇の奥に閉じ込められていても、黒炎に覆われていても、その魂まで消えたわけではない。


その事実が、イグニアの中に残っていた恐怖を、静かな決意へと変えていった。


「だったら……!」


涙を拭うこともしなかった。流れるままに任せ、震える拳を強く握り締める。


「私は、父様を諦めない!」


胸の奥で、熱が膨らんでいく。


「怒りも……」


紅蓮の光が灯る。


「悲しみも……」


黄金の輝きが、その周囲を包み始める。


「恐怖も……」


さらに熱が増していく。


「悔しさも……!」


身体の内側を、燃えるような光が駆け巡る。


「父様を想う気持ちも……!」


ドクン――!!


胸元の紋章が、これまでにないほど強く輝いた。


「全部、私の炎だから!」


――その瞬間。


イグニアの身体を、炎が包み込んだ。最初に灯ったのは胸元の紅蓮だった。


紋章から走った光が鎖骨を伝い、肩へ、腕へ、そして全身へと広がっていく。けれど、それはこれまでの炎とは明らかに違っていた。紅蓮の縁に、淡い黄金の輝きが生まれる。


黄金は炎の輪郭をなぞるように広がり、暗闇の中へ夜明けが差し込むように、黒い神殿を照らし始めた。


そして、その炎の中心へ――青白い光が宿った。


一つ。


また一つ。


やがて青白い光は数え切れないほど増え、無数の星となって炎の中を舞い始める。


「……これは」


レオンが息を呑んだ。


「炎が……変わった?」


アルも大剣を構えたまま、目の前の光景に目を奪われていた。


「圧巻ですね……」


セレフィーナが、思わず声を漏らす。


エリオスも杖を握ったまま、驚きに目を見開いている。


そしてセインは――何も言わなかった。ただ、イグニアを見つめていた。


その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、先ほどとは違う感情が揺れる。イグニアの炎に照らされながら、セインは無意識に自分の胸元へ触れた。


そこに何かがあるわけではない。ただ、そこへ触れた指先が、ほんの僅かに震えていた。


「……」


けれど、セインは何も言わない。その小さな動きは、黒炎の轟音と炎の奔流に紛れ、誰にも気づかれることはなかった。


やがて炎は、さらに大きく膨れ上がる。


「……これが、イグニアの火」


フェルが静かに呟いた。


『そうじゃ』


白猫は、イグニアの炎を見つめながら目を細める。


『怒りでも、憎しみでもない。誰かを想い、誰かを救いたいと願う心――その情熱そのものが、炎になったのじゃ』


煌めく炎が黒炎へ触れた。


その瞬間、普通ならば黒炎を焼き払うはずの熱が、まったく異なる現象を起こした。


黒炎は燃え尽きることも、爆発することもない。


ただ、光に触れた場所から、黒い色だけが静かにほどけていく。


まるで深い夜へ朝の光が差し込み、闇そのものを少しずつ溶かしていくように。


イグニアは、自分の手を見つめた。


指先から溢れる光。


胸元で輝く紋章。


身体を包み込む、どこまでも温かな炎。


「……温かい」


その言葉が零れた。すると、心の奥からフレイアの声が響いた。


『情熱ーーそれが、あなたの加護』


ドクン――。


紅蓮の紋章が眩い光を放った。


その光はイグニアの身体から神殿の床へと走り、刻まれていた古代文字を一つ、また一つと目覚めさせていく。


床から壁へ。


壁から柱へ。


柱から天井へ。


紅蓮、黄金、青白い光がアグニ・ゼル全体を駆け巡り、幾重もの光の輪を描きながら巨大な魔法陣を形作っていった。


低い振動が、神殿の奥から返ってくる。


ゴォォォ……。


まるで、千年ものあいだ眠り続けていた巨大な存在が、ゆっくりと目を開けようとしているかのようだった。


火の神殿アグニ・ゼルそのものが、失われた何かを思い出している。


そして――イグニアの背後で、炎が巨大な翼を形作った。ゆっくりと広がっていく炎の翼。


一枚、また一枚と形を成す羽根の一つひとつに青白い星が宿り、そのたびに舞い上がった光が天井へ触れて黄金の波紋を広げていく。


黒炎に覆われた神殿の中で、そこだけが夜明けを迎えたかのようだった。


リナは思わず息を呑んだ。


「……綺麗」


その声を聞いても、フェルはすぐには答えなかった。白猫の瞳には、遠い記憶が映っている。


やがて、その炎を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。


『煌めき聖炎……』


イグニアが振り返る。


「煌めき……聖炎?」


『そうじゃ』


フェルは小さく頷いた。


『それは破壊のための炎ではない』


炎の翼が大きく羽ばたいた。その一度の羽ばたきだけで周囲の黒炎が押し返され、神殿全体の空気が震える。


『閉ざされた心に届き、そこに残された光を照らす炎じゃ』


その言葉を聞いたイグニアは、再び黒炎竜を見つめた。


黒い炎の奥。


そこには、今も紅金色の光が揺れている。


父の炎は消えていない。まだーーここにある。


「だったら――」


イグニアは拳を握り締めた。


「この火で、父様に届く!」


その声に応えるように、炎の翼が大きく広がった。


『グォォォォォォォォォォッ!!』


まるでその言葉を拒むかのように、黒炎竜が咆哮する。巨大な黒炎が一斉に押し寄せた。


空を埋め尽くす黒い奔流。その表面には無数の亀裂が走り、裂け目の奥から赤黒い光が覗いている。


「来る!」


レオンが叫んだ。


だが、イグニアは動かなかった。炎の翼を広げたまま、ただ父を見つめている。


黒炎の奔流が迫る。


床が震え、空気が歪み、神殿そのものが軋みを上げる。それでも、イグニアの周囲だけは不思議なほど静かだった。


彼女の耳に届いているのは、ただ一つ。胸の奥から感じる、父の小さな鼓動だった。


「大丈夫」


イグニアは静かに呟く。その声には、もう迷いがなかった。


「父様は、まだそこにいる」


リナが、その背中を見つめる。


「うん」


イグニアは小さく笑った。涙の跡が頬に残っている。それでも、その表情には確かな強さがあった。


「だから、迎えに行く」


右腕をゆっくりと引く。


それに呼応して、背後の炎の翼が大きく羽ばたいた。


紅蓮の炎が右腕へ流れ込み、黄金の光が腕の輪郭をなぞる。


無数の青白い星々が螺旋を描きながら拳へ集まり、三つの輝きが一点へと収束していく。


やがて拳全体が、巨大な光の籠手へと変わった。その中心には、小さな太陽のような光が生まれている。


ドクン。


一度。


ドクン。


二度。


拳が脈打つたび、神殿の古代文字が呼応するように輝きを増していった。


セインが目を見開く。


「……何をするつもりだ?」


けれど、フェルは答えなかった。


ただ、イグニアの拳と黒炎竜を静かに見つめている。


やがて――。


イグニアの拳が、眩い光を放った。


迫り来る黒炎の奔流が、ついに目前まで到達する。


先端が炎の翼へ触れた瞬間、凄まじい轟音が神殿を揺るがした。


それでも翼は砕けない。無数の光の羽根が黒炎を受け止め、その触れた部分から静かに道を開いていく。


闇の海の中に――一本の道が生まれた。


その先に、父がいる。


イグニアは拳を引いた。


「父様」


炎の翼が大きく羽ばたく。


「今、迎えに行くから――!」


その瞬間ーー神殿のすべての光が、イグニアの拳へ集まった。


床に広がる魔法陣。


壁を走る古代文字。


炎の翼に宿る無数の星。


そして――黒炎竜の胸の奥で揺れる、紅金色の炎。


すべての光が一本の軌跡となり、イグニアの右腕へ流れ込んでいく。


煌めき聖炎が、爆発的に膨れ上がった。


「聖炎拳――」


その瞬間、神殿からすべての音が消えた。


黒炎の轟きも。


崩れ落ちる石の音も。


仲間たちの息遣いさえも。


まるで世界そのものが、次の一瞬を待っているかのようだった。


イグニアの瞳に、父の姿が映る。


幼い頃に見上げた大きな背中。


炎の翼。


温かな手。


そして――今も闇の奥で消えずに残る、小さな光。


イグニアは拳を握り締める。


「この炎は、父様を傷つけるためじゃない」


拳の中心で、小さな太陽が弾けた。


「父様の中に残る光へ――」


一歩、踏み出す。


足元の魔法陣が大きく輝いた。


「私の全部を、届ける!」


そして――。


「セレスティアル・イグニッション!!」


イグニアが拳を突き出した。


――刹那。


拳の中心から、一筋の光が放たれた。それは、ただの炎の奔流ではなかった。


巨大な光の槍でもない。紅蓮と黄金と青白い星々をまとった一本の輝く軌跡。


その光の中には、無数の記憶が流れていた。


幼い頃に見上げた父の背中。


父と交わした言葉。


仲間たちと過ごした時間。


旅の中で見つけた笑顔。


流した涙。


守れなかった悔しさ。


それでも諦めなかった想い。


そして――決して父を諦めないという、イグニア自身の意志。


それらすべてが一つの光となり、黒炎へ突き進んでいく。


轟ォォォォォォォォォォッ!!


衝突の瞬間、黒炎の壁が大きく膨れ上がった。神殿の柱が軋み、床に刻まれた古代文字が次々と砕け散る。


それでも、光は止まらなかった。


紅蓮の炎が黒炎を押し開き、黄金の光が闇の裂け目を縫う。その周囲を青白い星々が舞い、黒炎の内部へ無数の光点を刻み込んでいく。


黒炎は焼き払われない。


消し去られもしない。


ただ――光に触れた部分から、黒い色だけが静かにほどけていった。


まるで、千年ものあいだ閉ざされていた夜へ、初めて朝の光が差し込むように。


「届けぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


イグニアの叫びが神殿を震わせた。


光は黒炎の奥へ進む。


さらに奥へ。


さらに深く。


黒い闇を掻き分けながら、たった一つの光を目指して。


そして――。


黒炎に覆われた、たった一つの炎へ。


光が触れた。


ドォォォォォォォン!!


衝撃は轟音ではなく、巨大な光の波となって神殿全体へ広がった。


黒炎竜の胸から幾重もの光輪が放たれ、床を、壁を、柱を、天井を駆け抜けていく。


古代文字が一斉に輝いた。


アグニ・ゼルが――目を覚ます。


光が、届いた。


黒炎竜の胸の奥で、紅金色の炎が大きく燃え上がった。


先ほどまでの小さな火種とは明らかに違う。


ほんの一瞬だけ。


かつての竜王を思わせるほどの輝きが、黒炎の奥から溢れ出した。


「……っ!」


イグニアが息を呑む。


黒炎竜の巨体が大きく震えた。


黒い炎の表面には無数の光の亀裂が走り、その裂け目から紅金色の輝きが溢れ出していく。


そして――。


ゆっくりと、紅い瞳が動いた。


『……イ……グ……ニア……?』


かすれた声だった。それでも、確かに届いた。


「……父様」


イグニアの瞳から、涙が溢れる。


「父様……!」


その声に呼応するように、隣にいたルシエルも目に涙を浮かべた。


「父様……!」


黒炎竜の胸の奥で、小さな紅蓮の光が灯る。今にも消えてしまいそうなほど弱々しい。それでも、消えなかった。


その小さな炎から一本の細い光が伸び、イグニアの煌めき聖炎へと繋がっていく。


まるで互いの存在を確かめ合うように、光の糸はゆっくりと脈打ちながら淡い輝きを放っていた。


フェルが目を細める。


『……届いたの』


リナも静かに頷いた。


「うん……」


その二人の言葉を聞きながら、セインは黒炎竜とグレンディアを交互に見つめた。


そして――ほんの一瞬だけ、イグニアへ視線を向ける。


涙を浮かべながら、それでも父へ手を伸ばしている少女。


その姿に、何か遠い記憶を重ねるように。


セインの指が、僅かに震えた。


「……」


けれど、彼は何も言わない。ただ、ほんの少しだけ目を伏せる。やがて小さく息を吐き、静かに呟いた。


「……大切な人は、ちゃんと迎えに行かないとな」


誰にも届かないほど小さな声だった。


その言葉を胸の奥へしまうように、セインは再び顔を上げる。その瞳には、いつもの静かな強さが戻っていた。


そして――グレンディアを見つめる。


「……裁定が変わる」


その言葉に呼応するように、グレンディアの黄金の瞳がゆっくりと動いた。


裁定者の視線が、黒炎竜の胸に灯った小さな炎を捉える。


その瞬間――。


神殿に刻まれた古代文字が、一斉に輝きを増した。


床の魔法陣がゆっくりと回転し、黒炎竜の足元から黄金の光が立ち上がっていく。


それは、単なる魔力の奔流ではなかった。


まるでアグニ・ゼルそのものが、千年前に失われた炎の存在を確かめ、その命がまだ絶えていないことを認めているかのようだった。


イグニアは頬を伝う涙を手の甲で拭った。


「父様……」


そこに、もう絶望はなかった。


「まだ終わってないよ」


胸の奥で、紅金色の炎が小さく揺れる。


その小さな光を見つめながら、イグニアは静かに、けれど力強く言葉を紡いだ。


「私が……絶対に闇の中から救うから」


ドクン――。


その言葉に応えるように、炎が一度だけ強く脈打った。


――その瞬間だった。


黒炎の奥深くで、別の何かが蠢いた。


イグニアの煌めき聖炎によって押し退けられていた闇が、再びゆっくりと形を取り始める。


黒い亀裂が、静かに伸びていく。


その中心から滲み出してきたのは、炎とは正反対の――冷たい気配だった。


フェルが顔を上げる。


先ほどまで宿していた穏やかな光が、その瞳から消えた。代わりに浮かんだのは、鋭い警戒だった。


『……まだじゃ』


リナが振り返る。


「フェル?」


フェルは答えず、黒炎の奥を見つめ続けた。


紅金色の炎と煌めき聖炎を繋ぐ、一本の光。そして、その光を引き裂こうとしている闇。


『まだ、終わっておらぬ』


その声には、先ほどまでとは違う重みがあった。


黒炎竜の胸の奥で、黒い光が脈打つ。


ドクン。


紅金色の炎を呑み込もうとするように。


ドクン。


神殿のさらに奥で、何かが目を覚ます。その気配は、炎の熱とはまるで違っていた。


冷たい。


深い。


そして、千年前からこの神殿のどこかに潜み続けていたものだけが持つ、底知れない気配だった。


イグニアは拳を強く握り締める。煌めき聖炎の光は、まだ消えていない。父の炎も、まだ消えていない。ならば、まだ戦える。


けれど、その二つを再び引き裂こうとする闇もまた、消えてはいなかった。


千年前から続く戦いは、まだ終わっていない。


そして今、その闇が――再び動き始めた。


セインは黙ったまま、黒炎の向こうを見据えていた。


先ほどまでイグニアへ向けていた視線も、今は完全に闇へと向けられている。


ただ、その横顔には、ほんの僅かな寂しさが残っていた。


「……まだ、終わってない」


低く呟いた声は、黒炎の轟音に紛れて消えていく。


その言葉の奥に、何を想っているのか。


誰を想っているのか。


今はまだ、誰にも分からない。


ただ一人、セイン自身だけが胸の奥にしまったものを知っている。


そして彼は、それを語ることなく再び武器を構えた。


目の前には、まだ救わなければならないものがある。


守らなければならない仲間がいる。


そして――いつか迎えに行かなければならない、大切な人がいる。


それを胸の奥へ静かに抱えたまま、セインは黒炎の奥に潜む闇を見据えた。


火の神殿アグニ・ゼルに刻まれた古代文字が、再び低く明滅する。


煌めき聖炎が照らした光と、千年前から潜み続けていた闇。


二つの力が交わるその場所で、長きにわたって閉ざされていた物語が、再び動き始めていた。


――千年前の闇が、再び目を覚ます。


そして、まだ誰も知らない場所で、別の物語へと繋がる小さな歯車もまた――静かに回り始めていた。


第97話 終わり

ここまで読んでいただきありがとうございます!


少しでも続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


次回もぜひ読んでいただけたら嬉しいです!

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