第95話 火の記憶層
火の神殿アグニ・ゼル――。
グレンディアの裁定が始まろうとした、その瞬間。
世界の“音”が、再び遠のいた。
ゴォォォォォォ……ッ
黒炎竜の咆哮。
バルグラドの笑い声。
レオンの剣戟。
リナの叫び。
すべてが、薄い水膜の向こう側に沈んでいく。
ただ一人。
イグニアだけが――“残った”。
「……あれ?」
リナの声が遠い。
セインの視線も、アルの警戒も、届かない。
イグニアは胸元を押さえる。
紅蓮の紋章が、異常なほど強く脈打っていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
呼ばれている。
火の奥から。
(こっちへ)
(もっと深く)
足が、勝手に動いた。
「イグニア!!戻れ!!」
レオンの声。
届かない。
一歩。
もう一歩。
そして――
世界が“裏返る”。
⸻
静寂。
炎はあるのに、熱がない。
光はあるのに、眩しくない。
そこは戦場ではなかった。
火の神殿アグニ・ゼルの“記憶層”。
イグニアは息を呑む。
「……ここは……?」
崩れていない神殿。
燃えていない炎。
傷ひとつない柱。
まるで時間が止まる前の世界。
そして――
そこに“誰か”がいた。
長い髪。
炎のようで、揺れる水のような瞳。
イグニアは無意識に呟く。
「……フレイア」
その名前を、初めて知るはずなのに。
知っていた。
その存在は、振り返らない。
ただ炎を見ている。
『ここまで来たのね』
声は優しい。
だが、優しさだけではない。
何千年分もの沈黙を抱えた声だった。
イグニアの喉が震える。
「あなたは……誰?」
フレイアは答えない。
ただ炎に手を伸ばす。
そこには火がある。
だが“燃えていない”。
生きているのに、動かない火。
『火は破壊じゃない』
静かに言う。
イグニアの胸が跳ねる。
『記憶よ』
「記憶……?」
フレイアはゆっくり振り返る。
その瞳が、イグニアを真正面から捉える。
その瞬間――
イグニアの中で“何か”が軋む。
『消えたものはね』
『消えてないの』
『形を変えて、ここに残る』
イグニアの息が詰まる。
(じゃあ……)
(父様の中のあれも……)
フレイアの視線が少しだけ揺れる。
『そう』
短い肯定。
その一言で、世界の意味が変わる。
イグニアの膝が震える。
「でも……あれは……苦しんでる……」
フレイアは少し黙る。
そして――
『歪められたから』
空気が変わる。
その瞬間、イグニアの視界に“黒い影”が差す。
ネメシス。
まだ知らないはずの名。
だが魂だけが拒絶する。
(これじゃない)
(これは違う)
フレイアの声が続く。
『火は見てきた』
『千年分の崩壊も』
『精霊姫の終焉も』
イグニアの呼吸が乱れる。
「千年前……?」
その言葉と同時に――
現実が一瞬だけ割り込む。
ゴォォォォォォッ!!
黒炎竜の咆哮。
グレンディアの圧。
バルグラドの笑い。
戦場が戻る。
だが、イグニアはまだ“こちら側”にいる。
フレイアは静かに言う。
『あなたは触れた』
『もう戻れない』
その言葉と同時に――
イグニアの胸元が強烈に発光する。
ドクン!!
紅蓮の紋章が“形”を変え始める。
円ではない。
炎ではない。
“意志”。
イグニアの目が見開かれる。
「これは……」
フレイアは淡く微笑む。
『まだ契約じゃない』
『でも、選ばれている』
その瞬間――
記憶層が崩れ始める。
フレイアの姿が薄れていく。
イグニアが叫ぶ。
「待って!!」
フレイアは振り返らない。
ただ最後に一言。
『次に会うとき』
『あなたは“火”になる』
その瞬間――
世界が割れた。
⸻
現実。
ドンッ!!
イグニアが地面に崩れ落ちる。
リナが駆け寄る。
「イグニア!!」
イグニアは荒い呼吸のまま空を見ていた。
胸元の紋章がまだ脈打っている。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
まるで“心臓が増えた”ように。
セインが小さく呟く。
「……接続したか」
その声は驚きではない。
確信だった。
遠くでは黒炎竜が吠えている。
グレンディアが裁定を進めている。
バルグラドが笑っている。
だがそのどれとも違う場所で――
イグニアの中に、“もう一つの火”が生まれた。
第95話 終わり
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