第91話 燃え継ぐ情熱
火の神殿アグニ・ゼル――。
轟音が、神殿そのものを揺さぶっていた。
黒炎竜が巨大な翼を振るうたび、聖域の奥から凄まじい熱風が吹き荒れ、砕けた黒曜石の欠片が無数の火の粉とともに宙へ舞い上がる。
赤黒く染まった空は、まるで巨大な炎の海に呑み込まれたかのように歪み、その下では黒い炎だけが異様な存在感を放ちながら、神殿の壁や床、柱までも侵食していた。
長い年月を経てもなお聖域を支え続けてきた柱には幾筋もの亀裂が走っている。
天井を支える石梁からは、いつ崩れ落ちてもおかしくないほど不気味な軋みが響き、そのたびに細かな石片が頭上から降り注いだ。
かつて、この場所は炎の神聖な輝きに満たされていた。
人々が祈りを捧げ、火の加護を願い、決して消えることのない聖なる炎を見つめながら、明日へ続く未来を託した場所。
それが今では、黒い炎に呑まれている。
神聖だったはずの祭壇も、祈りを受け止めてきた床も、すべてが黒く染まり、炎の中から滲み出す禍々しい魔力が、まるで神殿そのものの命を奪おうとしていた。
その中心で、黒炎竜――竜王は苦しげに巨体を震わせている。
『ガァァァァァァァァァッ!!』
咆哮が轟いた瞬間、黒炎が爆発した。
「来るぞ!」
レオンの声が飛ぶ。
迫り来る黒炎へ銀色の剣を叩き込み、燃え盛る奔流を正面から強引に左右へ裂く。
刃が炎を切り裂いた瞬間、凄まじい熱気が全身を包み込み、金色の髪が激しく巻き上げられた。
だが、散った炎は消えなかった。
切り裂かれたはずの黒炎は空中で不自然に渦を巻き、意思を持っているかのように互いへ引き寄せられていく。
そして、再び一つの巨大な塊となって、レオンたちへ向かって膨れ上がった。
「――っ!」
その異様な動きを捉えたアルが、大剣を頭上へ掲げる。
次の瞬間、集束した黒炎が巨大な壁となって叩きつけられた。
ドォォォォンッ!!
衝撃が神殿を揺らす。
「ぐ……っ!」
アルの両腕に凄まじい負荷がかかった。肩が沈み、足元の黒曜石が耐えきれず砕け散る。靴底が床へ食い込み、それでもなお彼は大剣を離さなかった。
歯を食いしばり、腕の震えを力ずくで抑え込みながら、炎の向こうにいる竜王を睨み据える。
「レオン……! こいつ、まともに受け止めてるだけじゃ無理だ!」
「分かっている!」
レオンも剣を構えたまま答えた。その声には、隠しきれない焦燥が滲んでいる。
一度押し返したところで終わらない。
黒炎は途切れることなく押し寄せ、そのたびに神殿そのものが削られていく。
床は崩れ、柱には新たな亀裂が走り、頭上では石梁が悲鳴を上げている。
このまま防ぎ続ければ、竜王を止めるより先に神殿が崩壊する。
そのとき、エリオスが両手を大きく広げた。
「なら……流れそのものを変えます!」
声と同時に、彼女を中心として周囲の空気が激しく渦を巻いた。
風の奔流が黒炎へ絡みつき、真正面から受け止めるのではなく、その流れを横へと逸らしていく。
黒い炎の一部が持ち上がり、轟音を響かせながら神殿の外へと流れ落ちた。
けれど、それだけでもエリオスの身体には大きな負担がかかっていた。
細い腕が震え、額には汗が浮かぶ。風を操る指先がわずかに揺らぎ、そのたびに炎の流れも不安定に揺れた。
「……これ以上は……長く持ちません……!」
苦しげに息を吐くエリオスの声へ、セレフィーナが振り返る。
「エリオス、無理をしないでください!」
そう言いながらも、セレフィーナ自身も限界に近づいていた。
彼女は両手を前へ突き出し、幾重にも展開した結界によって崩れ落ちる天井を押し留めている。
淡い光を宿した結界の膜には、すでに無数の亀裂が走っていた。
ピシッ……。
また一つ、亀裂が伸びる。
セレフィーナは唇を噛み締め、震える指先へさらに魔力を送り込んだ。
「まだ……大丈夫です。ここを崩させるわけにはいきません……!」
声こそ強く響かせたものの、その肩は小さく震えている。
それでも結界の光は消えなかった。
「だったら――道を開けりゃいいんだろうが!」
轟音とともに巨大な戦斧が振り抜かれた。
ドォォォォンッ!!
正面に立ちはだかっていた黒炎の壁が弾け飛び、その向こうからバルグラドが姿を現す。
「守るだの耐えるだの、そんなもんは後で考えりゃいい! 今はこいつをぶっ壊す。それだけで十分だ!」
豪快な笑みを浮かべ、戦斧を肩へ担ぎ直す。
だが、その腕には隠しきれない震えがあった。戦斧の刃は黒炎によって赤く焼け、露出した皮膚には痛々しい火傷が浮かんでいる。
それでもバルグラドは気にする様子もない。
「ほら、竜王様よぉ! まだ俺を焼き殺せねぇのか!」
黒炎竜の瞳が、大きく揺れた。
そこに浮かんでいたのは怒りだけではなかった。
憎悪。
苦しみ。
そして、何かを必死に押し込めようとするような苦悶。
『グルルルル……!』
低い唸りが神殿の奥へ響き渡る。
そして――空気が変わった。
レオンが咄嗟に顔を上げる。
「――全員、下がれ!」
黒炎竜が、ゆっくりと翼を広げた。
ただ、それだけだった。
それだけの動作で、神殿を覆っていた黒炎が一斉に巻き上がる。
轟ッ――!
炎は巨大な渦となって天井へ伸び、赤黒い空間そのものを歪ませた。
アルが大剣を構え直す。
エリオスが乱れた呼吸を整えながら風を集める。
セレフィーナが崩れかけた結界を再構築し、レオンは一歩前へ出る。
バルグラドも戦斧を握り直し、誰もが次に訪れる一撃へ身構えた。
けれど――その輪の中で、一人だけ戦いとは別のものを見つめている少女がいた。
イグニアだった。
「…………」
彼女の視線は、黒炎竜から離れない。
身体の奥底から、本能そのものが逃げろと叫んでいる。
あの巨大な身体がわずかに動くだけで、大気そのものが震える。
もしあの竜が本気でこちらへ牙を向ければ、自分など一瞬で吹き飛ばされてしまうだろう。
それでも、逃げたいと思う気持ちとは裏腹に、胸の奥だけが妙に熱かった。
ドクン――。
鼓動が鳴る。
自分の心臓とは別の場所で、何かが脈打っている。
ドクン……ドクン……。
イグニアは戸惑いながら胸元へ手を当てた。
衣服越しに伝わってくる熱は、少しずつ強くなっている。
焼けるような熱ではない。
むしろ、不思議なほど温かかった。
凍えていた心を内側から包み込むような、どこか懐かしい温もり。
その感覚に触れた瞬間、イグニアの脳裏へ、先ほど見た光景が蘇った。
静かな神殿。
揺れる炎。
そして、その炎の前に立っていた少女。
フレイア。
『火は、消えるだけじゃないわ』
静かな声が、記憶の奥から蘇る。
『誰かが想ったことは、火の中に残る』
イグニアは目を閉じた。
誰かが想ったことは、火の中に残る。
なら――今、自分の胸にあるこの熱は何なのだろう。
父を失いたくない。
兄であるルシエルを守りたい。
目の前にいる仲間たちを、これ以上傷つけたくない。
そして何より――。
もう、誰かに守られているだけではいたくない。
ずっと守られる側にいるのではなく、自分も誰かのために手を伸ばしたい。
その願いが、胸の奥で小さな火種となっている。
「……父様……」
無意識に漏れた声。
視線の先には黒炎竜がいる。
巨大な身体から噴き出す黒炎。その向こうに、父の姿がある。
そして、その父へ向かって必死に声を届けようとしている少年がいた。
「父様!」
ルシエルだった。
黒炎の熱に頬を赤く染め、涙を浮かべながら、それでもその場から逃げようとはしない。
「父様、聞こえていますか!? 僕です! ルシエルです!」
少年の声が響くたび、黒炎竜の身体がわずかに揺れた。
ほんの小さな反応だった。
けれど、ルシエルは見逃さない。
「お願い……!」
一歩、前へ出る。
その瞬間――黒炎が大きく弾けた。
「――っ!」
「ルシエル!」
イグニアの身体が、考えるより先に動いていた。
恐怖を振り切るように地面を蹴る。
熱風が頬を打ち、肌を焼く。呼吸をするたび喉の奥が痛み、視界の先では黒い炎が生き物のようにうねっていた。
それでも、足は止まらなかった。
怖い。
今すぐ逃げ出したい。
身体中がそう叫んでいる。
それでも目の前には、ルシエルの小さな背中がある。
あの背中を、もう一度炎の中へ置き去りにすることだけはできなかった。
「危ない!」
レオンの声が響く。
次の瞬間、巨大な黒炎の壁が二人の間へ落ちてきた。
イグニアは咄嗟に腕を掲げた。
――守らなければ。
――私が。
その瞬間だった。
熱が、消えた。
いや。
消えたのではない。
イグニアの手のひらから、何かが生まれたのだ。
小さな光。
それは一瞬で炎へ変わり、彼女の掌を包み込んだ。
「……え?」
イグニア自身が呆然と掌を見つめる。
いつもの火ではない。そこに揺らめいていたのは、赤く煌めく聖炎だった。
黒炎とはまるで違う。
禍々しさもなければ、すべてを焼き尽くそうとする凶暴さもない。
無数の光の粒が炎の中で煌めき、まるで小さな星々が燃えているかのように明滅している。
それなのに――弱くない。
黒炎が押し寄せても、その聖炎は決して掻き消されなかった。
むしろ、黒い炎に触れるたび、煌めく光がその奥から力強く輝きを返していく。
ドクン。
炎が脈打った。
それはまるで、イグニア自身の鼓動に呼応しているかのようだった。
「……私の……」
震える声が漏れる。
掌の聖炎が、静かに揺らめく。
これは借り物ではない。誰かから与えられた力でもない。今、この瞬間、自分が願ったから生まれた。
守りたい。
もう失いたくない。
その想いが、煌めく聖炎となって、この手の中に宿っている。
「私の……願いが……火になったの……?」
答える声はない。
けれど聖炎は、まるで肯定するように一際強く煌めいた。
少し離れた場所で、その光景を見つめていたセインの表情が変わる。
その瞳には驚きと、どこか確信めいた光が浮かんでいる。
「……そうか」
小さな呟きだった。
「ようやく、君自身の火になったか」
「セイン……?」
リナが振り返る。
セインはしばらくイグニアを見つめたあと、静かに言葉を続けた。
「力を欲したから生まれたわけじゃない。あの子が、何かを失いたくないと願ったからだよ」
「失いたくない……」
リナが小さく繰り返す。
「そう。強くなりたいという願いだけでは、あれほどの火にはならない。何を守るのか。そのために何を背負うのか。それを自分自身で選んだとき、精霊の力は初めて、その者だけの形を持つ」
その言葉を聞きながら、リナはイグニアを見つめた。
「精霊の力……?」
煌めく聖炎に包まれた少女の横顔は、ほんの少し前までとは明らかに違っていた。
恐怖は消えていない。身体は震えている。
それでも、逃げてはいない。
イグニアは自分の掌に灯る炎を見つめていた。
この聖炎は何なのか。
誰かから受け継いだものなのか。
今は、まだ分からない。けれど、一つだけ確かなことがある。
この聖炎は、今、自分の中にある。そして、自分自身の意思で燃えている。
「……だったら」
イグニアはゆっくりと指を握った。
煌めく聖炎が指の隙間から溢れ、手首から腕へと光を這わせていく。
「私が使う」
震えていた声が、少しだけ強くなる。
「この火が私のものなら……私が、この火で父様を助ける」
その決意に応えるように、聖炎が一際強く煌めいた。
黒炎竜が咆哮する。
『ガァァァァァァァァッ!!』
黒炎が再び押し寄せる。だが、今度はイグニアも退かなかった。恐怖がなくなったわけではない。
膝は震えている。胸は張り裂けそうなほど激しく鳴っている。
それでも、その恐怖ごと抱えて一歩を踏み出す。
足元の黒曜石が砕けた。
もう一歩。
熱風が髪を激しく巻き上げる中、それでも瞳だけは逸らさない。
「父様……」
黒炎の向こうにいる竜王を見つめる。
「聞こえてるんでしょう?」
黒炎竜の瞳が揺れた。ほんの僅かな変化だった。けれど、確かに反応している。
『……イ……』
声にならない音が、黒炎の奥から漏れる。
イグニアの胸が締めつけられた。
「……いる」
涙が滲む。
「ちゃんと、いる……!」
父は消えていない。黒炎に覆われ、闇に囚われていても、その瞳の奥には確かに父がいる。
なら――届かせる。
この聖炎を。
この想いを。
「私が、見つける」
煌めく聖炎がイグニアの腕を包み、肩から全身へと広がっていく。
光の粒が舞い、赤い炎の輪郭が揺らめきながら彼女の背後へ伸びた。
それはまだ完成された翼ではない。
炎そのものが意志を持ったように大きく広がり、煌めく火の粉となってほどけながら、それでも確かな方向だけは失わず、黒炎竜へ向かって伸びていく。
「私が、父様のところまで行く!」
ゴォォォォォォッ!!
聖炎が燃え上がった。
その光景にリナが息を呑む。
「イグニア……!」
エリオスも目を見開いた。
「精霊の加護……?」
「何が起きている?」
レオンが黒炎を警戒しながら問いかける。
「分かりません……!」
エリオスは風を操りながら、イグニアから目を離せなかった。
「でも、あれは普通の炎ではありません。魔力で生み出した炎とも違う……。まるで、神殿の記憶とイグニア自身の意思が共鳴し、そのまま聖炎になっているみたいです」
「記憶と意思が……炎になるのか」
アルが低く呟く。
その問いに、セインが静かに答えた。
「そういうことだね」
彼の視線は、煌めく聖炎から離れない。
「精霊の力は、ただ与えられるものじゃない。受け継いだものをどう使うのか。誰のために燃やすのか。それを最後に決めるのは、その力を宿した本人だ」
リナは何も言わず、イグニアを見つめた。
その炎は美しかった。
激しく燃え上がっているのに、どこか温かい。
黒炎のようにすべてを呑み込むのではなく、暗闇の中で道を照らすために煌めいている。
イグニアには、もう周囲の声がほとんど届いていなかった。
見えているのは、ただ一つ。
黒炎竜。
そして、その瞳の奥に残る小さな光。
「父様を……」
声が震える。
「父様を、返して」
黒炎竜が苦しげに首を振った。
『……逃……げ……ろ……』
その声を聞いた瞬間、イグニアの瞳から涙が一筋こぼれ落ちた。
聞き覚えのある言葉だった。
いつだって父はそうだった。
自分たちを危険から遠ざけるためなら、自分だけが傷つくことを選ぶ。
苦しみを一人で抱え込み、残された者たちを守ろうとする。
あの時もーー今だって同じなのだ。
黒炎に呑まれながら、それでも自分たちを逃がそうとしている。
だからこそ――もう、その優しさに甘えることはできなかった。
「……また、それを言うの?」
涙を流したまま、イグニアは竜王を見つめる。
「あの時も、そうだったよね。自分だけが苦しめばいいって思って……私たちを逃がそうとして……」
声が掠れる。
胸の奥が痛かった。
父の優しさを知っているからこそ、その選択がどれほど苦しいものなのかも分かってしまう。
「でも……もう嫌よ」
聖炎が、彼女の肩越しで大きく煌めいた。
「ずっと父様に守ってもらうだけなんて、私は嫌」
一歩、黒炎へ近づく。
「私だって……父様を守りたい」
その言葉が、黒炎の中へ吸い込まれる。
何も起こらない。ほんの一瞬、すべてが静止したように感じられた。
そして――。
黒炎竜の瞳から、黒い光が一筋、剥がれ落ちた。
『……イ……グ……ニ……ア……』
イグニアの呼吸が止まる。
自分の名前。
確かに、父が呼んだ。
「……父様?」
『……逃……げ……』
「嫌」
イグニアは涙を拭わなかった。
『……逃げ……ろ……』
「嫌だって言ってるのよ!」
初めてだった。
イグニアが父へ向かって声を張り上げた。
涙に濡れたその叫びは、決して弱くない。
「私は逃げない!」
胸の奥から、聖炎が一気に溢れた。
無数の煌めきが赤い光となって舞い上がり、黒炎へ突き刺さっていく。
焼き尽くすためではない。
押し返すためだけでもない。
ただ、闇の奥へ閉じ込められた父のもとへ届くために。
「父様に届くまで、絶対に消えない!」
黒炎が聖炎へ食らいつく。
二つの炎が激しくぶつかり合い、熱波が神殿中を駆け抜けた。
床が大きく割れ、柱が震える。
天井から巨大な石片が落下し、セレフィーナの結界へ激突した。
「――っ!」
衝撃に身体を大きく揺らしながらも、セレフィーナは結界を維持する。
「セレフィーナ!」
レオンの叫びに、彼女は歯を食いしばって答えた。
「大丈夫です……! 今は……イグニアを……!」
その瞬間だった。
黒炎が大きく膨れ上がる。
「――っ!」
イグニアの身体が吹き飛ばされた。
「イグニア!」
リナの叫びが響く。
地面へ叩きつけられる寸前、イグニアは片手をついて身体を支えた。
掌が黒曜石へ擦れ、赤い血が滲む。唇の端からも血が流れ落ちた。
痛い。
熱い。
息が苦しい。
それでも、彼女は顔を上げた。
目の前には、まだ黒炎に包まれた父がいる。
「……まだ……」
震える腕へ力を込める。
「まだ、届いてない……」
ゆっくりと身体を起こし、ふらつく足元をようやく支えながら、それでも立ち上がる。
掌に灯った煌めく聖炎は、先ほどより小さくなっていた。
けれど――消えてはいない。
イグニアは、その小さな炎を見つめた。
もしこれが、自分の火なのなら、痛みに負けて消えてしまう火にはしたくない。
怖くなったときにも、迷ったときにも、もう一度立ち上がれる火にしたい。
「私の火は……」
拳を握る。
煌めく聖炎が指の隙間から溢れた。
「こんなところで、消えない……!」
そのときだった。
「イグニア!」
ルシエルの声が響いた。
イグニアが振り返る。
そこには、涙で頬を濡らしながら、それでも必死に立っている少年の姿があった。
小さな身体は震えている。怖くないはずがない。それでも、ルシエルは逃げていなかった。
「一緒に呼ぼう!」
「ルシエル……?」
「父様は、一人じゃありません!」
少年は胸の前で両手を握り締めた。
指先まで震えている。
それでも、声だけは決して途切れなかった。
「僕もいます! 父様のところへ届くまで、何度でも呼びます! だから……イグニアも一緒に!」
イグニアの瞳が揺れる。
胸の奥へ、温かなものが広がっていく。
自分だけではない。
この場にいる者たちの願いもまた、同じ方向を向いている。
父を取り戻したい。
誰も失いたくない。
その想いが重なり合い、消えそうになった聖炎へ新しい熱を与えている。
イグニアは涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
そして、ルシエルの隣へ並ぶ。
「……うん」
二人は黒炎竜を見上げた。
「父様!」
ルシエルの声が響く。
「父様!」
イグニアも声を重ねた。
「聞こえてるなら、戻ってきて!」
二つの声が重なった瞬間だった。
黒炎竜の巨体が、大きく震えた。
『――ガァァァァァァッ!!』
凄まじい咆哮。
だが、それは先ほどまでの破壊だけを求める咆哮とは違っていた。
苦しみの中で、何かを振り払おうとしている。何かを取り戻そうとしている。
黒炎が大きく膨れ上がる。
「まずい!」
レオンが叫んだ。
「全員、構えろ!」
アルが大剣を構える。
エリオスが風を集め、セレフィーナが結界を展開する。バルグラドも戦斧を握り直し、黒炎へ向かって身構えた。
しかし――。
「……やめるんだ」
静かな声が、その場に落ちた。
レオンが振り返る。
「何?」
セインは黒炎竜を見つめていた。その瞳には、先ほどまでとは違うものが映っている。
「あれは、攻撃じゃない」
黒炎の奥で、竜王の瞳が揺れている。
「……あれは、抗っている」
その言葉が落ちた瞬間、黒炎の奥から一瞬だけ、竜王本来の瞳が覗いた。
そこに宿っていた紅い光が、まっすぐにイグニアを捉える。
『……イ……グ……ニ……ア……』
今度は、はっきりと聞こえた。
イグニアの瞳から涙が溢れる。声が出せないほど胸がいっぱいで、息をすることさえ苦しい。
それでも――笑った。
「……うん」
震える声で答える。
「ここにいるよ、父様」
その言葉に呼応するように、煌めく聖炎が彼女の周囲で静かに揺らめいた。
黒炎へ触れても消えない。黒炎を喰らうこともしない。ただ、そこに在り続ける。
闇の中で、光を失わない。セインは、その光景を静かに見つめていた。
「……情熱」
誰にも届かないほど小さな声だった。それは、ただ激しく燃え上がる感情ではない。
一度決めたものを、簡単には手放さない心。
失いたくないもののためなら、何度でも立ち上がる意志。
そして、自分の火が消えそうになったときでさえ、誰かの火を絶やさないために燃え続けること。
イグニアの炎は、まさにそれだった。
「……これが、私の火」
イグニアは掌を見つめる。
赤く煌めく聖炎の中で、無数の小さな光が揺れている。
そっと胸へ手を当て、そして、ゆっくりとその手を黒炎竜へ向けた。
「私が……今、選んだ火」
聖炎が強く煌めく。
その光がイグニアの瞳を照らした。
「私は、この火で父様を取り戻す」
それは、誰かに与えられた使命ではなかった。
千年前から定められていた運命でもない。
火の神殿で誰かが残した想いに導かれながら、それでも最後に答えを選んだのは、今を生きているイグニア自身だった。
怖い。
傷つきたくない。
父を失いたくない。
それでも――前へ進む。
恐怖も、涙も、痛みも、そのすべてを抱えたまま燃え続ける。
そのときだった。
神殿の最奥ーー黒炎に閉ざされていた祭壇で、小さな炎が揺れた。
誰も触れていない。
誰も魔力を注いでいない。
それなのに――。
一度。
二度。
古い炎が、まるで鼓動するように明滅した。
「……!」
セインが振り返った。
その表情から、初めて明らかな驚きが浮かぶ。
「どうした?」
レオンが問いかける。
しかし、セインは答えないまま祭壇だけを見つめている。
古い炎の向こうに、一瞬だけ陽炎のような人影が浮かんだ。
長い紅銀の髪。
炎を纏った少女。
そして、その背後に立つ騎士。
その光景を見た瞬間、セインの瞳が細くなる。
「……フレイア」
その名が、静かに唇から零れた。
だが、人影は炎の揺らめきへ溶け込むように消えていった。
幻だったのか。
記憶だったのか。
あるいは――。
それでも祭壇の炎だけは消えなかった。むしろ、先ほどよりも強く煌めいている。
「……さっきから、何なの?」
イグニアも異変に気づいた。
掌の聖炎が微かに震える。
それに呼応するように、黒炎竜の瞳も祭壇へ向いた。
まるで竜王もまた、何かを感じ取っているかのようだった。
その瞬間――。神殿の奥から、低い音が響いた。
ズズズズズ……。
地の底を這うような、重く不気味な振動とともに床が揺れる。次いで、祭壇へ向かって黒曜石の床に亀裂が走った。
ピシッ……。
亀裂は一つではない。
幾筋もの線が音を立てながら広がり、祭壇の足元へ吸い込まれるように伸びていく。
「全員、警戒しろ!」
レオンが剣を構え直した。
バルグラドも戦斧を正面へ向ける。
「また邪魔が入りやがるのかよ……!」
エリオスの表情が消えていた。
「この魔力……さっきまでとは違う……」
風の流れが乱れている。黒炎とは違う。もっと深く、もっと古い何か。
まるで千年前から神殿の底に沈んでいた何かが、長い眠りから目を覚まし、こちらへ近づいてきているようだった。
セレフィーナが息を呑む。
「神殿の奥から……何かが来ます」
その言葉に反応するように、黒炎竜が低く唸った。
けれど、その声に混じっていたのは怒りではなかった。
『……逃……げ……』
竜王の声が、黒炎の向こうからかすかに響く。けれど、イグニアは首を横に振った。
「今度は、逃げない。父様をもう置いて行かない。一緒に母様のところへ帰ろう」
掌の聖炎が、赤く煌めいた。その隣へ、ルシエルが並ぶ。
「僕もいます」
リナも水の加護の結晶を強く握りしめ、二人の背中を見つめながら静かに頷いた。
「私たちもいるよ」
レオンが剣を構え、黒炎の奥へ視線を向ける。
「そういうことだ。ここまで来て、今さら退くわけにはいかない」
アルも大剣を肩へ担ぎ直した。
「どれだけ奥に何が待っていようと、進むしかないな」
エリオスが風を纏う。
セレフィーナが結界を展開する。
そしてバルグラドは、迫り来る不穏な気配さえ楽しむように豪快な笑みを浮かべた。
「面白ぇじゃねぇか。まだ何かあるってんなら、まとめてぶっ飛ばしてやるよ!」
その声を聞きながら、イグニアは前を見た。
黒炎。
煌めく聖炎。
そして、その向こうに眠る千年前の記憶。もう、それはただの過去ではない。
今、この瞬間にも動き始めている。
胸の奥で、聖炎が静かに脈打った。
ドクン――。
その鼓動に応えるように、祭壇の炎が揺れる。
ドクン――。
もう一度。
そして――。
神殿の最奥から、かすかな声が聞こえた。
「……イグニア」
少女の瞳が大きく見開かれる。
誰の声なのか。
どこから聞こえたのか。
誰にも分からない。
ただ、その声だけは確かに彼女の名を呼んでいた。
聖炎が、イグニアの掌で大きく煌めく。
その光に照らされた彼女の瞳には、もう恐怖だけはなかった。
千年前から閉ざされていた何かが、自分を待っている。
そんな確かな予感が、胸の奥で静かに形を成していく。
イグニアは一歩、前へ踏み出した。
その瞬間――。
火の神殿アグニ・ゼルの深奥で、千年前に閉ざされたはずの何かが、静かに目を覚ました。
第91話 終わり
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