第90話 火の記憶
火の神殿アグニ・ゼル――。
黒炎竜の咆哮が空間を引き裂いた。
ゴォォォォォォォォッ!!
その声はもはや音ではない。
世界そのものを押し潰す“意思”だった。
「っ……!」
リナが膝をつきかける。
レオンが即座に支える。
「耐えろ!」
アルが歯を食いしばる。
「圧が……規格外だ……!」
セインが静かに言った。
「もう“個体”じゃない」
「火の神殿そのものだ」
その言葉に、空気が凍る。
「神殿が……生きてる?」
エリオスの声が震える。
セインは黒炎竜を見上げたまま続けた。
「違う」
「“生きてる”んじゃない」
「“覚えている”んだ」
その瞬間、イグニアの胸元が強く光った。
ドクン。
視界が揺れる。
炎が消える。
現実が一度、途切れた。
⸻
そこは、燃えていない火の神殿だった。
静かで、穏やかで、優しい炎だけが揺れている。
その中心に――彼女は立っていた。
紅い髪。
火のようで、水のような瞳。
イグニアは息を呑む。
「……あなたは」
その存在は振り返らない。
ただ炎を見ている。
『フレイアよ』
初めて名乗った。
その声は、今の“声”ではなかった。
もっと若く、もっと人間に近い。
それでも――どこか神の気配を残している。
イグニアは一歩踏み出す。
「ここは……何?」
フレイアは静かに答えた。
『火の神殿の“記憶層”』
イグニアの呼吸が止まる。
記憶層。
その言葉は理解できないのに、“恐怖だけが理解できる”。
フレイアは炎に手をかざす。
『火はね』
『壊すためにあるんじゃない』
イグニアの胸が締め付けられる。
フレイアは続ける。
『“守れなかったものを、忘れないためにある”』
その瞬間――
炎の奥に、影が映った。
鎧を着た騎士。
血に染まった剣。
膝をついたまま、何かを守るように倒れている。
イグニアの喉が震える。
「……誰?」
フレイアは答えない。
ただ、静かに見つめている。
『この神殿はね』
『千年前、“守れなかった火”を抱えている』
その言葉と同時に――
騎士の影がゆっくりと崩れた。
まるで記憶が剥がれるように。
イグニアの背筋が凍る。
「守れなかった……?」
フレイアは小さく目を伏せた。
『火の精霊姫は、燃え尽きた』
その瞬間。
炎の奥に、一瞬だけ“笑っている少女”が見えた。
だがすぐに黒に塗り潰される。
イグニアの胸が痛む。
理由も分からないのに、涙が出そうになる。
「それが……あなた?」
フレイアは答えない。
ただ炎を見ている。
そして――小さく言った。
『その時からね』
『この神殿は“忘れ方”を失ったの』
⸻
現実。
黒炎竜が咆哮する。
ゴォォォォォォォォッ!!
バルグラドが戦斧で受ける。
衝撃が大地を砕く。
セインが低く呟く。
「……始まったな」
リナが叫ぶ。
「イグニア!!」
イグニアの身体が光に包まれている。
その胸の奥で――何かが目を開きかけていた。
フレイアの声が最後に響く。
『忘れないで』
『これは“火の記憶”』
⸻
そして――
炎の奥に、もう一つの影が立っていた。
千年前の戦場で、笑っていた“誰か”。
その隣にいた男。
剣を握ったまま、守れなかった騎士。
そしてその背後で――
すべてを見ていた黒い影。
まだ名前はない。
だがセインだけが、わずかに目を細めた。
「……あいつか」
誰にも聞こえない声だった。
⸻
火の神殿アグニ・ゼルは、ただの戦場ではない。
それは“記憶そのもの”だった。
そして今、その記憶が――再び燃え始めている。
第90話 終わり
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