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第89話 紅蓮の奥で聞こえる声

火の神殿アグニ・ゼル――。


黒炎竜の咆哮が空間を引き裂いた直後、世界は一瞬だけ“音”を失った。


ゴォォォォ……ッ


炎の唸りさえ遠ざかり、戦場にいるはずの全員が、一瞬だけ“無音の空間”に立たされる。


その中心で、黒炎竜がゆっくりと顔を上げていた。


『イ…グ……ニア……』


掠れた声。


その声だけが、異様に鮮明だった。


ルシエルの心臓が跳ねる。


「……父様」


一歩、踏み出そうとした瞬間――


ドンッ。


セインの魔導斧が地面に突き立てられる。


「行くなって」


低い声。


それだけで空気が重くなる。


ルシエルが歯を食いしばる。


「……まだ、父様は――」


「分かってる」


セインは黒炎竜から視線を外さないまま言った。


「でも今近づけば、“戻れなくなるのは君だ”」


その言葉が、妙に現実的だった。


その時、イグニアが小さく息を呑んだ。


「……っ」


「イグニア?」


リナが振り返る。


だがイグニアは答えない。


ただ胸元を押さえ、震えていた。


「……聞こえる」


小さな声。


誰にも届かないほどの声だった。


「なにが……?」


エリオスが問う。


イグニアはゆっくりと首を振る。


「違う……声じゃない」


「音が……消えてる」


その瞬間だった。


――ふっ。


世界から、音が落ちた。


炎の爆ぜる音も。


大地の軋みも。


黒炎竜の咆哮すら遠のいていく。


残ったのはただ一つ。


“呼ばれている感覚”。


イグニアの瞳だけが、ゆっくりと揺れる。


「……だれ?」


誰も答えない。


だが――


“その声だけ”が、イグニアの中に直接響いた。


『……やっと、届いたのね』


空気ではない。


音でもない。


記憶の奥に直接触れてくるような声。


イグニアの身体が小さく震える。


「……誰?」


もう一度問う。


すると、ほんの少しだけ“温度”が変わった。


『怖がらなくていいわ』


その声は、不思議なほど優しかった。


戦場にいるはずなのに、その瞬間だけ――


火の神殿の風景が、揺らぐ。


赤黒い空が、ほんの一瞬だけ“白い光”に染まった。


イグニアの視界が変わる。


そこには――燃えていない火の神殿があった。


黒炎ではない。


紅蓮の光でもない。


“静かに息をしている神殿”。


誰かが祈りを捧げている。


誰かが炎を“守り”として使っている。


イグニアの瞳が揺れる。


「……ここは……?」


『あなたの“記憶の奥”』


声が応える。


イグニアの胸が締め付けられる。


「記憶……?」


そんなもの、自分にはないはずだった。


なのに――懐かしい。


どうしようもなく、懐かしい。


その瞬間、遠くで何かが割れる音がした。


バルグラドの笑い声。


「いいねぇ……壊れてきたな」


現実が、少しずつ戻ってくる。


イグニアは息を呑む。


「今のは……なに?」


再び“音”が戻る。


炎の爆ぜる音。


大地の軋み。


黒炎竜の咆哮。


現実が一気に押し寄せてくる。


だが――


その中でも、声だけは消えなかった。


『忘れないで』


イグニアの瞳が揺れる。


『あなたは“火”に選ばれたんじゃない』


『火に“呼ばれた”の』


その言葉の意味は分からない。


でも――理由もなく涙が零れた。


そして、ただ、止まらなかった。


「……誰なの……」


イグニアが震える声で問う。


その瞬間、声は少しだけ遠くなる。


『今はまだ、名前は要らないわ』


『でも――ひとつだけ』


優しい沈黙。


そして最後に、はっきりと告げられる。


『あなたは独りじゃない』


その言葉と同時に――


世界が崩れた。


ゴォォォォォォォッ!!


黒炎竜の咆哮が現実を引き戻す。


リナが叫ぶ。


「イグニア!!」


イグニアは、はっと顔を上げる。


「……今の……」


だが、誰も気づいていない。


セインも。


レオンも。


バルグラドでさえ。


ただ一人だけ。


イグニアだけが、その“声”を覚えていた。


遠くで、バルグラドが笑う。


「おいおい……」


「面白くなってきたじゃねぇか」


セインが小さく舌打ちする。


「……嫌な流れだな」


黒炎竜が再び動く。


その瞳は、まだ“黒”。


だが――ほんのわずかに揺れていた。


イグニアの胸の奥で、何かが小さく灯る。


(……さっきの声)


(あれは……)


わからない。


でも確かに。


“何かが目を覚ました”。


火の神殿アグニ・ゼル。


その戦場の中心で。


誰にも気づかれないまま――


静かな歪みが始まっていた。


第89話 終わり

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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次回もぜひ読んでいただけたら嬉しいです!

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