第87話 黒炎竜と煉獄の戦鬼
火の神殿アグニ・ゼル――。
その門前に立つ影は、もはや“竜”と呼べる姿ではなかった。
黒炎に侵食された巨体。
折れた翼。
ひび割れた鱗の隙間から、絶え間なく黒炎が漏れ出している。
だが――。
その瞳だけは、まだ“誰か”だった。
『……ル……シエ……ル……』
掠れた声。
空気を震わせるだけで精一杯の、魂の残響。
「……父様」
ルシエルの声が震えた。
一歩、踏み出す。
その瞬間――
ゴォォォォォォォッ!!
黒炎が爆ぜた。
「っ!!」
レオンが即座にルシエルの前へ出る。
アルも剣を構え直す。
エリオスが風障壁を展開する。
だが、間に合わない。
黒炎は“防御”の概念を超えていた。
空間そのものを焼き潰す炎だった。
「……ダメです!」
セレフィーナが叫ぶ。
「接触したら侵食されます!」
その時だった。
ドンッ!!
地面が割れた。
黒炎と黒炎の間に“巨大な斧”が叩き込まれる。
轟音。
衝撃波。
黒炎が左右に裂けた。
「……間に合ったか」
低い声。
セインだった。
魔導斧を肩に構えたまま、黒炎竜を見上げる。
その横顔から、さっきまでの穏やかさは消えていた。
完全に“戦場の顔”だった。
ルシエルが叫ぶ。
「セイン……!」
セインは視線を逸らさない。
「下がってな」
短い命令。
だが、その声には逆らえない圧があった。
黒炎竜が吠える。
『ガアアアアアアアッ!!』
衝撃波。
大地が割れる。
セインは一歩も動かない。
「……まだ意識が残ってるな」
「最悪だ」
その言葉に、リナが息を呑む。
「最悪……?」
セインは黒炎竜を見上げたまま答えた。
「完全に侵食されてるなら、止めるだけで済む」
「でもこれは違う」
「“意識が残ってる侵食体”は一番危険だ」
その瞬間――
黒炎竜の瞳が揺れた。
『……逃ゲ……ロ……』
その声に、ルシエルの胸が締め付けられる。
「父様……!」
だが次の瞬間。
ゴォォォォォォッ!!
黒炎が暴走した。
空間が歪み、世界が軋む。
「くっ……!」
レオンが歯を食いしばる。
アルも地面に剣を突き刺し耐える。
だが――その中心に立つセインだけは動かなかった。
「やっぱりな」
静かな声。
その瞬間だった。
黒炎の中から“もう一つの声”が響いた。
『……まだ、生きてたか』
空気が凍る。
黒炎の奥から歩いてくる影。
黒鉄の鎧。
巨大な戦斧。
紅い瞳。
堕精四騎ーー
煉獄の戦鬼――バルグラド。
「よぉ」
「随分と面白いことになってるじゃねぇか」
その声に、場の空気が一気に変わる。
レオンが剣を構え直す。
アルの表情が鋭くなる。
リナが息を呑む。
「……この人が」
「堕精四騎……」
バルグラドは黒炎竜の首元を掴み、軽く持ち上げる。
『グァ……ッ!!』
竜王が苦悶の声を上げる。
その光景に、ルシエルの瞳が揺れた。
「やめろ……!」
叫びと同時に駆け出そうとする。
だが――。
ドンッ。
セインが前に出る。
「動くな」
低い声。
「今行けば、親子まとめて終わる」
ルシエルが歯を食いしばる。
「でも……!」
セインは一瞬だけ視線を横に流す。
その先には、震えるイグニア。
そして涙を堪えるリナ。
「……分かってる」
「でも今はまだ、触れる段階じゃない」
バルグラドが笑う。
「おいおい」
「随分と増えたじゃねぇか」
「ガキに、番人に、精霊の器か?」
その言葉に、セインの表情がわずかに変わる。
「……やっぱり知ってるか」
バルグラドは嗤った。
「当然だろ」
「ここは“火の神殿”だ」
そして、黒炎竜を地面へ叩きつける。
ドォン!!
大地が割れる。
『ガァァァァッ!!』
竜王の叫び。
その瞬間、イグニアの胸元が強く光る。
「うっ……!」
「イグニア!」
リナが支える。
セインがその光を見て目を細める。
「……なるほど」
「竜の血と神殿が繋がってるのか」
その言葉にフェルが低く唸る。
『この神殿は“血”で動いておる』
『侵食ではなく“同化”に近い』
空気が重くなる。
バルグラドが戦斧を肩に乗せる。
「で?」
「どうするよ」
「助けたいんだろ?」
その視線がルシエルへ向く。
ルシエルは震えながらも答えた。
「助ける」
即答だった。
バルグラドは笑った。
「いい顔だ」
「気に入った」
だが次の瞬間――
ゴォォォォォォォッ!!
黒炎が爆ぜた。
竜王が暴走する。
世界が割れる。
セインが叫ぶ。
「全員伏せろ!!」
轟音。
衝撃。
その中心で、バルグラドだけが立っていた。
「遅ぇよ」
ニヤリと笑う。
「これからだろ?」
その瞬間、黒炎竜の目が完全に“黒”に染まった。
理性が、落ちる。
世界が終わるような音が響く。
セインの表情が固まる。
「……最悪だ」
その言葉は、警告ではない。
確信だった。
そして――
火の神殿アグニ・ゼルは。
完全に“戦場”へと変わった。
第87話 終わり
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