第84話 旅立ちの日
リュミエル村――。
夜明け前ーー。
空はまだ薄暗く、湖には朝靄が漂っていた。
静かな村。だが、その空気には確かな緊張が混じっている。
火の神殿アグニ・ゼルへの出発の日だった。
集会所の前では、すでに全員が準備を整えている。
レオンは剣帯を締め直しながら周囲を警戒していた。
セレフィーナは地図と魔導方位盤を、エリオスは荷物の最終確認をしている。
アルは黙って武器や荷物を背負い直していた。
そして――。
リナは、小さな薬瓶をひとつひとつ丁寧に袋へ入れていた。
「解熱薬……浄化薬……火傷用の軟膏も……」
火山地帯。
火の侵食。
次の旅では、今まで以上に薬師としての役割が重要になる。
その時、ふわりと白い毛並みが肩へ飛び乗った。
『準備は済んだか』
「フェル」
フェルは小さく鼻を鳴らす。
『火の領域は水ほど甘くない』
『油断すれば、一瞬で焼き尽くされるぞ』
「……うん」
リナは真剣に頷いた。
すると、不意に後ろから小さな声が響く。
「……リナ」
振り返ると、そこにはリヴィエラが立っていた。
幼い姿だが、その蒼い瞳には以前より少しだけ光が戻っている。
リナはしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
リヴィエラは少し迷う。
それから、小さな手を差し出した。
そこには――蒼い結晶片があった。
水の神殿の核から生まれたような、美しい蒼。
「これ……持っていって」
「え?」
「水の加護……少しだけ残ってるから……」
消え入りそうな声だった。
けれどそれは、確かに“誰かを守りたい”という意志だった。
リナは目を丸くする。
そして、優しく微笑んだ。
「ありがとう」
その瞬間、リヴィエラの瞳がわずかに揺れる。
まるで初めて、“感謝されること”へ戸惑っているようだった。
その様子を、少し離れた場所からエレノアが見つめていた。
穏やかな微笑み。
だが、その奥には隠し切れない不安が滲んでいる。
ルシエルが近づく。
「母様」
エレノアが振り返る。
ルシエルは少しだけ迷ったあと、静かに口を開いた。
「……父様は、生きてると思う?」
その問いに、エレノアの表情が止まる。
風が吹いた。
湖面が静かに揺れる。
やがて彼女は、小さく目を伏せる。
「分かりません」
「ですが――」
ゆっくりと顔を上げる。
「あなたのお父様は、とても強い人でした」
「最後まで、“守ること”を諦めない方でした」
ルシエルは黙って聞いている。
イグニアも、不安そうに母を見上げていた。
エレノアは二人の頭へそっと触れる。
「だからきっと」
「あなたたちが生きていることを、誰より願っているはずです」
その言葉に、ルシエルは静かに拳を握った。
「……会いに行くよ」
短い言葉。だが、その瞳には強い決意が宿っていた。
その時――。
レオンが前へ出る。
「出発する」
低い声が、場を引き締めた。
全員の空気が変わる。
旅立ちの空気だった。
セレフィーナが静かに剣を握る。
「灼炎地帯ーーラグナロアへ入れば、魔力濃度も変化します」
「全員、体調異常があればすぐ報告してください」
「特に感情干渉系侵食には警戒を」
エリオスが頷く。
「了解です」
アルは短く言う。
「火は心を煽るから」
「怒りも恐怖も、侵食の餌になるぞ」
リナは両手を見る。
風と水の精霊紋が、静かに輝いていた。
すると――フェルが、ふと南方を睨む。
金色の瞳が細くなった。
『……始まるぞ』
その瞬間だった。
ゴォォォォォォォ――――ッ!!
遥か南方ーー灼熱地帯ラグナロアの空が、赤く染まる。
巨大な炎柱が、地平線の向こうで噴き上がった。
村人たちが悲鳴を上げる。
「なっ……!?」
「火山噴火……!?」
熱風が、ここまで届く。
まるで世界そのものが燃え始めたようだった。
セレフィーナの表情が変わる。
「これは……通常の噴火ではありませんね」
アルも舌打ちする。
「侵食が加速してる」
そして、遠い空で巨大な黒炎が立ち昇るその炎の中心に、人影がひとつ立っていた。
黒鉄の鎧。
巨大な戦槌。
紅蓮の瞳。
煉獄の戦鬼ーーバルグラド。
彼は遥か遠方から、まるでこちらを見ているかのように嗤った。
「早く来い」
低い声が、風に混じる。
「選別を始めよう」
その瞬間。
ドォォォォォォンッ――!!
大地が揺れた。
灼炎地帯ラグナロアの彼方。
巨大な“門”が、ゆっくりと開き始める。
灼熱の神殿ーーアグニ・ゼル。
そこはもはや神域ではない。
地獄だった。
そして――。
その門の前、巨大な魔導斧を肩へ担いだ男が、静かに立っている。
薄い紺色の髪。
琥珀色の瞳。
軽装に近い戦装束。
重厚さではなく、機動性を重視した地属性の装備。
だが、その存在感だけで空気が沈む。
男は静かに目を閉じ――。
そして、ゆっくりと開いた。
「……いよいよ会えるんだね」
低く穏やかな声。
だが、その奥には圧倒的な威圧感があった。
火の神殿の番人。
地の魔導斧使い。
セイン。
彼は静かに、近づいてくる“運命”を待っていた。
旅立ちの朝。
それは同時に、灼熱の戦いの幕開けでもあった。
第84話 終わり
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