第83話 残された温もり
リュミエル村――。
水の神殿から帰還して三日目。
朝霧の残る湖畔に、静かな鐘の音が響いていた。
侵食に蝕まれていた頃とは違う。
村には、少しずつ“日常”が戻り始めていた。
それでもーー完全に元通りではない。
傷ついた人々。
壊れた家々。
眠れない夜を過ごす子どもたち。
そして何より――。
誰もが、“失いかけた恐怖”をまだ忘れられずにいた。
だからこそ、リナは今日も朝早くから動いていた。
「次の方どうぞー!」
集会所。
即席の治療所には、朝から村人たちが並んでいる。
リナは薬草をすり潰しながら、ひとりひとりの症状を丁寧に診ていた。
「痛みは減ってますね」
「でも、まだ無理しちゃ駄目です」
「今日は身体を温める薬を追加します」
村人の女性が、目を潤ませながら頭を下げる。
「ありがとうねぇ、リナちゃん……」
「ううん!」
リナは笑う。
けれど、その額には薄く汗が浮いていた。
無理をしている。
それは、見れば分かった。
その時だった。
コト、と机へ薬草束が置かれる。
「不足分だ」
振り返ると、アルが立っていた。
朝露の残る薬草籠。
どうやら夜明け前から森へ入っていたらしい。
リナが驚く。
「また採ってきてくれたの?」
「村の西側は薬草がまだ残ってた」
アルは簡潔に答える。
だが、その視線は自然とリナの手元へ向いていた。
「……手、震えてるぞ」
「えっ」
リナが慌てて隠す。
だが遅かった。
長時間の治療と、薬剤の調合。
そして、精霊の加護を使った浄化。
その反動で、少しずつ疲労が蓄積している。
アルは小さく息を吐いた。
「ちゃんと休めって」
「でも、まだ患者さんが――」
「倒れたら意味がないだろ」
その言葉は厳しい。
けれど、不思議と冷たくはなかった。
リナは少し困ったように笑う。
「アルって、お兄ちゃんみたいだね」
その瞬間、アルの動きがぴたりと止まった。
空気が揺れる。
リナも、はっとした。
けれどアルは怒らなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細める。
「……そういうのは、慣れてないぞ」
「ご、ごめん!」
「謝るなって」
だが、その横顔はどこか穏やかだった。
その時――。
外から騒がしい声が聞こえた。
「ルシエルにーちゃん!」
「イグニアちゃんー!」
集会所の外。
そこでは村の子どもたちが、二人へまとわりついていた。
「これ見て!」
「木剣つくった!」
ルシエルは少し困ったように眉を寄せる。
だが、追い払ったりはしない。
「危ないから振り回すな」
「えー」
「怪我する」
真面目に返すその姿へ、子どもたちが笑う。
その隣では――。
イグニアが、小さな女の子へ炎を見せていた。
ぽっ。
掌の上へ、小さな火花が灯る。
「わぁぁ……!」
子どもたちの目が輝く。
以前なら、イグニアはこんなことをしなかった。
火を怖がっていたからだ。
だが今は違う。
少しずつ彼女の中でも、“炎”が恐怖だけではなくなり始めていた。
そこへ、静かな足音が近づく。
全員が振り返る。
エレノアだった。
その隣には――幼い姿になったリヴィエラがいる。
蒼い髪。
不安そうな瞳。
まだ村人たちを怖がっているのか、エレノアの服をぎゅっと掴んでいた。
子どもたちが、きょとんとする。
「だれ?」
リヴィエラがびくりと肩を震わせる。
その瞬間、イグニアがそっと前へ出た。
「……大丈夫」
小さな声だった。
けれど優しい声。
「この人、悪い人じゃない」
リヴィエラの瞳が揺れる。
ルシエルも静かに隣へ立った。
「もう戦わなくていい」
その一言で、リヴィエラの目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……っ……」
まだ怖い。
許されないと思っている。
それでもーー。
差し伸べられる手があることを、少しずつ知り始めていた。
エレノアは、その小さな頭を優しく撫でる。
まるで、本当の母親のように。
その光景を、少し離れた場所からセレフィーナが見つめていた。
「……良い方向へ向かっていますね」
静かな声。
その隣には、レオンが立っている。
彼は村の外周警備を終えたところだった。
セレフィーナが視線を向ける。
「レオン」
「何だ」
「あなた、少し変わりました?」
レオンは眉を動かす。
「変わっていない」
即答だった。
だが、セレフィーナは小さく笑う。
「以前のあなたなら、“守る”ことしか見ていませんでした」
「ですが今は――」
彼女は視線をリナへ向けた。
「“支える”ことを覚え始めています」
レオンは黙る。
風が吹いた。
後ろに束ねた金髪が揺れる。
やがて彼は、低く答えた。
「……あいつは無茶をする」
「ええ」
「だから監視が必要だ」
セレフィーナが思わず吹き出す。
「ふふっ……それ、過保護と言うんですよ」
「違う」
「本当に?」
レオンは答えなかった。
だがその沈黙が、逆に答えだった。
その頃――。
村外れの丘。
アルとエリオスは、出発用の荷を整理していた。
「火山地帯なら、水の確保が必要ですね」
エリオスが地図を見ながら呟く。
アルは短く頷く。
「長期戦になる可能性もある」
「セインって人、強そうですか?」
「……強いだろうな」
即答だった。
エリオスが苦笑する。
「即答ですね」
アルは空を見る。
遠い南方。
紅蓮色の空。
そこから、嫌な気配が流れてくる。
「火の神殿は、水みたいには終わらない」
その声は低かった。
「次は、“戦争”になる」
その言葉へ、エリオスの表情も静かに引き締まる。
だがその時、遠くからフェルの怒鳴り声が響いた。
『だから猫ではないと言っておろう!』
「きゃー!逃げろー!」
「フェルさま怒ったー!」
子どもたちが笑いながら逃げ回る。
フェルが全力で追いかけていた。
完全に遊ばれている。
その光景に、エリオスが思わず吹き出した。
アルも、わずかに口元を緩める。
ほんの短い平穏。
けれどそれは確かに、彼らが守った“日常”だった。
そして夜ーー。
旅立ち前、最後の静かな夜が訪れる。
だが――。
誰も知らない。
その頃、火の神殿アグニ・ゼルーー。
最奥では、黒き炎がさらに膨れ上がっていたことを。
ゴォォォォォォ……。
灼熱。
憎悪。
絶望。
全てを飲み込む黒炎の中心でーー。
煉獄の戦鬼バルグラドが、ゆっくりと口元を歪める。
「近いな」
その背後で、燃え盛る巨大な影が咆哮した。
世界そのものを揺るがすほどの、絶望の咆哮。
そして――。
その奥で、鎖に繋がれた“黒き竜”が、静かに目を開く。
紅蓮色の瞳。
崩壊しかけた自我。
それでもなお残る、“父”としての意識。
『……ル……シ……エ……ル……』
掠れた声が、炎の中へ消えていく。
火の神殿で待つのは、救済か。
それとも――。
焼き尽くされた過去との再会か。
静かな夜の裏側で。
灼熱の運命は、確実に動き始めていた。
第83話 終わり
ここまで読んでいただきありがとうございます!
少しでも続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。
次回もぜひ読んでいただけたら嬉しいです!




