第82話 癒えない傷と静かな距離
リュミエル村――。
水神殿から帰還して二日目の朝。
村には、久しぶりに穏やかな光が差していた。
湖を渡る風はやわらかく、焼け焦げていた畑にも、少しずつ緑が戻り始めている。
だが、戦いの爪痕は、まだ至るところに残っていた。
「次の方、どうぞ!」
リナが声を上げる。
村の集会所は、即席の治療所になっていた。
怪我人。
侵食による衰弱。
眠れなくなった子どもたち。
神殿暴走の影響で、魔力酔いを起こした村人もいる。
リナは朝から休まず動き続けていた。
「熱は昨日より下がってます」
「この薬草は食後に飲んでくださいね」
「無理しちゃ駄目です!」
忙しく走り回る少女へ、村人たちが頭を下げる。
「ありがとう、リナちゃん……」
「本当に助かったよ……」
「水神殿まで行ってくれて……」
その言葉に、リナは困ったように笑う。
「わ、私はそんな……」
だが、その時だった。
ふらり、と年老いた男性が倒れ込む。
「っ!」
リナが即座に駆け寄る。
呼吸が浅い。
脈も弱い。
侵食の残滓が、まだ体内に残っていた。
「……まだ残ってる」
リナの表情が曇る。
完全に浄化されたわけではない。
水神殿の影響は、村人たちへ静かに残り続けていた。
「リナ」
低い声。
振り返ると、そこにはアルが立っていた。
薬草籠を抱えている。
「必要な薬草、追加で採ってきた」
「えっ……アルが?」
「意外だろ?」
少しだけ、口元が緩む。
珍しい表情だった。
リナは目を丸くする。
アルは戦闘要員だと思っていた。
けれど彼は、黙って薬草を仕分け始める。
「昔、覚えた」
「精霊騎士は前線だけじゃない」
「生き残るためには、治療も必要だった」
その言葉に、リナは少し驚く。
千年前。
アルたちもまた、“救えなかった命”を抱えて戦っていたのだ。
アルは薬草を選びながら、ぽつりと呟く。
「お前は、不思議だな」
「え?」
「敵だった相手まで救おうとする」
リナは少し考えてから、小さく笑った。
「……苦しそうだったから」
「放っておけなかったの」
アルは静かに目を伏せる。
その横顔は、どこか遠くを見ていた。
「……昔も、似たような奴がいた」
リナが瞬きをする。
「それって……」
「お前の前世じゃない」
即答だった。
だが、少しだけ優しい声だった。
「もっと、馬鹿だった」
「えぇ……」
思わず頬を膨らませるリナ。
その反応に、アルがわずかに笑う。
本当に、一瞬だけ。
けれど、それは水の神殿へ来る前にはなかった空気だった。
その時、外から子どもたちの声が響いた。
「フェルさまぁー!」
『む』
集会所の外では、白猫姿のフェルが子どもたちに囲まれていた。
頭を撫でられ、抱き上げられ、完全に猫扱いされている。
『やめんか小童ども』
「ふわふわー!」
『我は神獣王だぞ』
「ねこちゃん怒ってるー!」
『猫ではない』
その光景に、思わず治療所に笑いが広がった。
張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。
その隅で――。
レオンは静かに村の外を見ていた。
剣を壁へ立て掛けたまま、腕を組んでいる。
警戒ーー。
それは彼の癖だった。
休んでいるように見えて、常に周囲を見ている。
そこへ、リナが近づく。
「レオン」
「……休憩か」
「うん。少しだけ」
レオンは短く頷く。
沈黙が落ちる。
だが、不思議と嫌な空気ではなかった。
リナはそっと隣へ並ぶ。
風が吹いた。
湖面がきらきら揺れる。
「……レオンは、休まなくていいの?」
「ああ、必要ない」
いつもの即答。
けれど今日は、そのあと少しだけ言葉が続いた。
「護衛対象が動いている以上、俺も動く」
リナが苦笑する。
「真面目すぎるよ」
「役目だ」
短い答えだが、その声には迷いがなかった。
精霊姫を守る王族の剣。
それが彼の生き方。
リナは少しだけ俯く。
「でも……」
「もし、私がまた危ないことしたら?」
レオンは即答した。
「もちろん止める」
「即答だね」
「必要なら斬ってでも止める」
真顔だった。
「斬るって」
リナが青ざめる。
だが次の瞬間、レオンは静かに続けた。
「……だが」
「お前は止まらない」
リナが目を瞬く。
レオンは湖を見たまま言う。
「だから俺が守る」
その一言だけだった。
飾り気もない不器用な言葉。けれど――。
リナの胸は、不思議なくらい温かくなった。
その頃、村外れではエリオスが洗濯物を干していた。
風魔法を使って器用に布を浮かせている。
その横で、アルが無言で薪を割っている。
そして、しばらく沈黙が続き――。
先に口を開いたのはエリオスだった。
「……アルって」
「意外と面倒見いいですよね」
「そうか?」
「リナ、かなり助けられてましたよ」
アルは答えない。
だが、薪を割る手が少しだけ止まる。
エリオスは小さく笑った。
「昔の仲間、思い出してるんですか?」
その瞬間、空気が少しだけ変わる。
だがアルは否定しなかった。
「……似てる」
「え?」
「無茶をするところがな」
エリオスは目を細める。
「アル、最近ちょっと変わりました」
「そうか?」
「前より、“生きてる顔”してます」
その言葉に、アルは静かに目を伏せた。
風が吹く。
遠くで、子どもたちの笑い声が響いていた。
平和だった。
だからこそ、誰も気づいていなかった。
村の遥か南方、紅蓮の空の下。
灼炎地帯ラグナロアーー。
黒い炎が、静かに脈打っていることに。
ゴォォォォォ……。
火の神殿アグニ・ゼル。
その最奥で――。
巨大な“何か”が、ゆっくりと瞳を開く。
そして、漆黒の炎の前に立つ男が低く嗤った。
「……目覚め始めたか」
全身を覆う黒鉄の鎧。
燃えるような紅蓮の眼。
背には巨大な戦斧。
堕精四騎――煉獄の戦鬼バルグラド。
彼は、燃え盛る核を見つめながら呟く。
「来るがいい」
「大精霊の器よ」
その背後で、黒い炎が生き物のように揺らめいた。
まるで世界そのものを燃やし尽くすように。
第82話 終わり
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