第81話 始まりの火
リュミエル村――。
戦いの終わった夜。
蒼い湖は静かに揺れていた。
まるで何もなかったかのように、澄み切っている。
だが、その水底には、まだ消えない“余熱”が沈んでいた。
水の神殿で起きた出来事は、あまりにも大きすぎたのだ。
夜風が吹く。
湖面へ月光が落ち、淡い蒼が揺れた。
その光を見つめながら、ルシエルがぽつりと呟く。
「……火、か」
低い声だった。
その隣で、レオンが静かに応じる。
「次の神殿は、火の領域だ」
迷いのない断定だった。
王都白銀騎士団団長として、そしてリナを守る剣としての声。
エリオスが小さく視線を落とす。
「水は“記憶”でした」
「なら、火も……何かを意味するのでしょうか」
セレフィーナが静かに頷く。
「火属性は感情干渉との親和性が高いです」
「侵食が“燃焼現象”として具現化する可能性があります」
「怒り、憎しみ、執着……そういった感情を媒介にするでしょう」
その言葉に、空気がわずかに重くなった。
水の神殿で見た侵食。あれ以上のものが待っているかもしれない。
リナは、無意識に左手を握る。そこには、水の精霊紋が淡く輝いていた。
すると、エレノアがゆっくり口を開いた。
「火の神殿アグニ・ゼル――」
その声は、どこか遠い過去を見ているようだった。
「そこは、“始まりの火”の場所です」
リナが顔を上げる。
「始まり……?」
エレノアは静かに頷く。
「そして同時に――」
長い沈黙。その沈黙には、千年分の悲しみが滲んでいた。
「竜族が最初に壊れた場所でもあります」
空気が止まる。
ルシエルの瞳が揺れた。
イグニアも小さく息を呑む。
レオンが短く問う。
「竜王の件か」
エレノアは静かに目を伏せた。
「はい」
「竜王は、あなたたちを逃がしたあと……火の神殿へ向かいました」
「火の神殿核を止めるために」
リナの表情が強張る。
「止める……?」
セレフィーナが鋭く反応する。
「核へ直接干渉したのですか」
「はい」
エレノアは頷いた。
「竜王は、自分ごと侵食を封じ込めたのです」
「暴走した火の核を、己の竜核で抑え込んだ」
エリオスが息を呑む。
「そんなこと……」
アルが低く言った。
「自己犠牲だな」
「帰って来る前提の選択じゃない」
その一言が、場へ重く落ちる。
ルシエルは拳を握った。
イグニアは俯き、小さく震えている。
父を覚えているわけではない。
それでも胸の奥が、痛かった。
――その時だった。
フェルが静かに空を見上げる。
黄金の瞳が、ゆっくり細まった。
『……火の神殿には、もう一つ厄介なものがいる』
レオンが視線を向ける。
「何だ」
フェルは低く告げた。
『堕精四騎』
『その一角――“煉獄の戦鬼”バルグラドだ』
その名が落ちた瞬間、空気が変わった。
まるで見えない熱が、夜気を焼いたようだった。
エリオスが息を止める。
「堕精四騎……!」
リナも顔を強張らせる。
水神殿で出会ったリヴィエラ。
あれほどの存在が、まだいる。
しかも今度は、“戦鬼”。
フェルが続けた。
『奴は四騎の中でも最も破壊に特化した男だ』
『感情が燃えるほど強くなる』
『怒りも、憎しみも、悲しみさえも力へ変える』
セレフィーナが小さく目を細める。
「……侵食との適合率が高すぎる」
アルが低く呟いた。
「千年前から変わらないな」
その声に、リナが振り返る。
アルは、湖を見たままだった。
けれどその瞳には、わずかな苦みが滲んでいる。
「知ってるの?」
静かな問い。
アルは少しだけ沈黙し、やがて答えた。
「あいつも、元は精霊騎士だった」
「誰よりも真っ直ぐで、不器用な男だったよ」
ルシエルが目を上げる。
「……だった?」
アルは頷く。
「戦場で民を守るため、一人で敵軍へ突っ込んでいくような奴だ」
「無茶ばかりしてた」
「だが、誰よりも仲間を守ろうとしていた」
リナは小さく息を呑む。
まただ。
リヴィエラと同じ。
堕精四騎は、最初から悪だったわけじゃない。
ネメシスに壊された側なのだ。
しかし――。
フェルの声音は厳しかった。
『だが、今のバルグラドは違う』
『奴は“怒り”へ呑まれた』
『既に、災厄そのものだ』
ゴォ……。
その瞬間。
遠く南方の空が、赤く脈打った。
まるで巨大な炎が呼吸するように。
イグニアが肩を震わせる。
「……熱い……」
小さな額へ汗が浮かぶ。
ルシエルが妹の肩を抱いた。
その時、フェルが再び口を開く。
『さらに、火の神殿には番人がいる』
『地の魔導斧を持つ男――セイン』
その名に、セレフィーナが眉を寄せる。
「神殿防衛機構ですか」
『半分は正しい』
フェルは答える。
『奴は侵入者を選別する存在だ』
『資格なき者は、神殿へ入ることすら許されん』
エリオスが苦笑混じりに呟く。
「つまり、敵ですね」
レオンは即座に言い切る。
「通行は容易ではない」
「突破は必要だ」
そこに感情はない。任務としての判断。
だが、その言葉には確かな覚悟があった。
ルシエルが前を向く。
「敵でもいい」
「通る」
イグニアも、小さく頷いた。
「父様に……会う」
その言葉に、エレノアの瞳が揺れた。
止めたい。
けれど止められない。
母としての感情と、彼らの意志がぶつかっていた。
そして最後にーーエレノアは、静かに微笑んだ。
「……気をつけて」
祈るような声だった。
レオンが一歩前へ出る。
「全員、火の神殿へ向かう」
「目的は二つ」
指を折る。
「竜王の確保、または救出」
「そしてネメシス侵食の確認・排除」
断言だった。
セレフィーナが頷く。
「では――三日後に出発しましょう」
「それまで村人の治療と救護を優先します」
「各自、準備を整えてください」
エリオスが静かに応じる。
「かしこまりました」
アルも短く言う。
「休める時に休んでおけ」
「火は、水ほど甘くない」
その時だった。
ふと、リナの視界へ、小さな子どもが映る。
村人の少年だった。
腕へ包帯が巻かれている。
不安そうな顔。
戦いで傷ついた子どもたちは、まだたくさんいる。
リナは、その姿を見つめる。
そして――そっと薬箱を抱き締めた。
「……うん」
「今、私にできることをやる」
その瞳には、もう迷いがなかった。
戦うだけじゃない。
傷ついた人を救うこと。
それが、自分の役目なのだと。
湖面へ風が吹く。
蒼い水面が揺れた。
そして遠く南方ーー灼炎地帯ラグナロア。
紅蓮の空が、わずかに脈打つ。
ゴォ……。
まるで巨大な心臓が、目覚め始めるように。
火の神殿アグニ・ゼル。
そこには、まだ語られていない真実が眠っている。
竜王の選択。
煉獄の戦鬼バルグラド。
番人セインの選別。
そして――。
“火そのものの記憶”。
長い夜は終わった。
だが次なる旅は、世界を焼く炎の中へ続いていく。
静かな月夜の下。
誰もまだ知らなかった。
火の神殿で待つ再会が――。
希望ではなく、“絶望”から始まることを。
第81話 終わり
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