第78話 紅蓮に灯る記憶
水の神殿アクア・レヴァリエ――。
黒い水が、空を覆っていた。
ゴォォォォォォォ……。
侵食。
忘却。
虚無。
それらすべてを呑み込んだ“黒き水竜”が、神殿最奥で咆哮を上げる。
『ァァァァァァァァァァッ――!!』
轟音だけで空間が軋む。
水晶の壁に亀裂が走り、湖面が逆流した。
その中心で――。
忘却の魔女リヴィエラは、苦しそうに胸を押さえていた。
「やめて……」
涙が零れる。
「もう……壊したくないのに……」
だが、侵食は止まらない。
黒い水が、彼女の身体をさらに蝕んでいく。
『思い出すな』
闇の声が響く。
姿はない。
けれど確かに、“何か”がいる。
『忘れろ』
『全て沈めろ』
その声が響くたび、リヴィエラの瞳から光が失われていく。
「……ぁ……」
頭を押さえ、崩れ落ちそうになる。
苦しそうに。壊れてしまいそうに。
それでも彼女は、“忘却”へ縋るしかなかった。
その瞬間――。
ドンッ!!
蒼い衝撃波が、黒い水を吹き飛ばした。
「……っ!?」
リヴィエラが顔を上げる。
そこにいたのは――。
龍槍を構えたルシエルだった。
胸元の水の紋章が、蒼く輝いている。
その隣には、小さな少女。
イグニア。
「もう、お前の好きにはさせない」
ルシエルの声は静かだった。
けれど、迷いがない。
黒き水竜が咆哮する。
巨大な爪が振り下ろされた。
ドゴォォォォォンッ!!
神殿が砕ける。
だが――。
ルシエルは、水流を纏って空を駆けた。
「アクア・セイヴァー!」
龍槍が唸る。
蒼い奔流が、竜の腕を切り裂いた。
黒い水が弾け飛ぶ。
だが傷口から、無数の黒い腕が這い出した。
『カエセ』
『ワスレロ』
『シズメ』
怨嗟の声。
空間そのものが、精神侵食を撒き散らしている。
「くっ……!」
エリオスが膝をつく。
セレフィーナの結界も軋み始めていた。
フェルが低く唸る。
『まずいな……』
『侵食濃度が急激に上がっている』
その時だった。
黒い腕が、一斉にイグニアへ襲いかかった。
「――っ!!」
ルシエルが動こうとする。
だが、間に合わない。
黒い水が、少女を飲み込もうとした瞬間――。
ボゥッ!!
紅蓮の炎が、空間を焼き裂いた。
『ァァァァァァァ!?』
黒い腕が悲鳴を上げる。
リナたちが目を見開いた。
そこに立っていたのは――。
イグニアだった。
小さな拳へ、紅蓮の聖炎を纏っている。
炎なのに、熱くない。
どこまでも澄んだ、“浄化の炎”。
「……るし、える……」
赤い瞳が揺れる。
「……まもる……」
その瞬間、彼女の胸の奥で何かが脈打った。
ドクン――。
封じられていた記憶。
消えていた感情。
その欠片が、炎と共に溢れ出す。
崩壊する竜族の里。
血に染まった空。
幼いルシエル。
そして――。
自分を庇って傷ついていく背中。
「……っ!!」
イグニアの瞳から、涙が零れた。
「いや……」
震える。
小さな身体が、恐怖で強張る。
だが――。
逃げなかった。
今度は、自分が守りたいと思った。
ルシエルを。
大切な人たちを。
黒い水が、再び迫る。
その瞬間――。
イグニアが踏み込んだ。
「聖炎拳――」
紅蓮が爆ぜる。
「フレア・ブレイク!!」
ドゴォォォォォンッ!!
小さな拳が、黒い濁流を正面から吹き飛ばした。
神殿全体が揺れる。
黒い水が、蒸発するように消えていく。
フェルの瞳が見開かれた。
『聖炎が……侵食そのものを燃やしている……!?』
ただの炎ではない。
これは、“浄化”そのもの。
侵食と真逆の力。
黒き水竜が怒り狂ったように咆哮する。
だが――。
イグニアは怯えなかった。
小さな身体に、紅蓮の炎を纏う。
その姿はまるで――。
“竜族の姫”。
「……もう、泣かない」
震える声。
けれど、確かに強かった。
「もう……置いていかせない……!!」
ゴォォォォォォォッ!!
聖炎が爆発的に膨れ上がる。
紅蓮が、神殿を染めた。
同時に、ルシエルの水が共鳴する。
蒼と紅。
相反する二つの力が、空で交わった。
「行くよ、イグニア!!」
「……うん!!」
二人が同時に駆ける。
龍槍と聖炎拳。
蒼き水龍と紅蓮の炎。
その連携は、まるで昔から呼吸を知っていたようだった。
リヴィエラが、呆然と呟く。
「……綺麗……」
その瞳に、僅かに光が戻る。
忘れていたもの。
守りたかった景色。
仲間と共に戦った日々。
それを思い出しかけた、その時――。
ドクンッ。
神殿核が、不気味に脈打った。
黒い湖面へ、“裂け目”が走る。
空間そのものが、軋んでいた。
『……まだ、終わっていない』
声だけが響く。
姿はない。
なのに。
その場の全員が、本能で理解してしまう。
“そこにいる”。
フェルの瞳が細まった。
『……ネメシス』
黒い水が、リヴィエラの身体をさらに侵食していく。
まるで、“向こう側”へ引きずり込もうとするように。
「……ぁ……」
リヴィエラが苦しそうに頭を押さえる。
涙が零れる。
「もう……やめて……」
その声は、忘却の魔女ではなかった。
壊れてしまった、一人の精霊騎士の声だった。
そして――。
その涙を見たリナは、静かに薬瓶を握り締める。
救わなければならない。
敵ではなく。
“助けを求めている人”として。
黒い水が、再び神殿を覆い始める。
水神殿最後の戦いが――。
静かに、幕を開けようとしていた。
第78話 終わり
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