第77話 千年越しの涙
水の神殿アクア・レヴァリエ――。
湖が、割れていた。
ゴォォォォォォォッ――!!
黒い濁流が天へ昇る。
神殿全体を覆うほど巨大な、“黒き水竜”。
その姿は、神聖とは程遠かった。
水でできた身体には、無数の黒い腕が浮かび上がり、苦しむように蠢いている。
『アァァァァァァァァァ――!!』
怨嗟。
絶望。
忘れ去られた感情の集合体。
それが今、神殿核と融合し、一体の怪物になっていた。
「……っ」
リナの足が震える。
見ているだけで、心が削られる。
絶望へ引きずり込まれそうになる。
フェルが前へ出た。
金色の瞳が細まる。
『あれはもう、ただの侵食ではない』
『ネメシスの“端末”だ』
空気が凍った。
「端末……?」
セレフィーナが息を呑む。
フェルは低く続ける。
『虚無神ネメシスは、“心の隙間”から侵食する』
『忘却へ逃げたリヴィエラを媒体に、この神殿そのものを喰らおうとしているのだ』
その時だった。
黒い水竜の中心で。
リヴィエラが、ゆっくりと顔を上げた。
長い蒼いの髪。
涙に濡れた瞳。
だが、その身体は侵食に蝕まれ、半透明になり始めている。
「……やめて」
か細い声。
「もう……見ないで……」
苦しそうに胸を押さえる。
黒い水が、彼女の腕を侵食していく。
「忘れたかっただけなの……」
その声は、あまりにも壊れそうだった。
「全部、忘れれば……楽になれると思ったのに……」
ルシエルが、一歩前へ出る。
「リヴィエラ」
彼女の肩が震えた。
「……来ないで」
黒い水が逆巻く。
「私はもう、戻れない……!!」
ゴォォォォォッ!!
黒い水竜が咆哮する。
巨大な尾が振り下ろされ、神殿の柱を粉砕した。
ドゴォォォォォンッ!!
瓦礫が降り注ぐ。
レオンが剣を抜いた。
「全員散開しろ!!」
セレフィーナが即座に結界を展開する。
アルとエリオスが左右へ跳んだ。
だが――。
ルシエルだけは動かなかった。
真っ直ぐ、リヴィエラを見ている。
その瞳に、恐れはない。
「……僕は、あなたを止める」
リヴィエラの瞳が揺れた。
「どうして……」
震える声。
「どうして、そんな目で見られるの……」
黒い涙が零れ落ちる。
「私は、全部壊したのに……!!」
その瞬間――。
神殿核が暴走した。
ドクンッ!!
空間が歪む。
次の瞬間。
全員の視界へ、“ある光景”が流れ込んだ。
千年前。
崩壊する神殿。
泣き叫ぶ神官たち。
侵食されていく精霊たち。
そして――。
黒い水へ飲み込まれかけた、1人の女性。
「……っ」
リナが息を呑む。
それは、精霊騎士だった頃のリヴィエラだった。
『いや……』
泣いている。
震えている。
『助けて……』
その前へ立ったのは、若き日のアルだった。
さらに。
ヴァルディスもいた。
まだ闇堕ちしていない。
精霊騎士だった頃の彼ら。
『リヴィエラ!!』
アルが叫ぶ。
『手を伸ばせ!!』
だが――。
黒い水が、リヴィエラを引きずり込む。
その時、闇の中で“何か”が笑った。
『闇に飲まれろ』
ネメシスの声。
『全部忘れてしまえば、お前は救われる』
リヴィエラの瞳から、光が消えていく。
『忘れたい……』
小さな呟き。
『苦しいのは……嫌……』
その瞬間、黒い水が彼女を完全に飲み込んだ。
映像が砕け散る。
現実へ戻る。
リナは息を乱していた。
「……違う……」
拳を握る。
「こんなの、救いじゃない……!」
リヴィエラは、壊したかったんじゃない。
ただ、苦しみから逃げたかっただけだ。
その時だった。
黒い水竜が、再び咆哮する。
『ァァァァァァァァァァッ!!』
神殿核が、完全に侵食され始める。
守護精霊が苦しそうに叫んだ。
『まずい……!』
『核が完全侵食されたら、アクア・レヴァリエは崩壊します……!!』
湖が軋む。
空間が崩れる。
世界そのものが沈み始めていた。
だが――。
ルシエルは、静かに槍を構えた。
蒼銀の龍槍。
胸元には、水の紋章が輝いている。
「……リヴィエラ」
彼は真っ直ぐ彼女を見る。
「あなたは、忘れても」
水が、静かに集まる。
「誰かを守りたかったことまで、消えたわけじゃない」
リヴィエラの瞳が見開かれる。
「……え……」
「僕は、見た」
蒼い光が溢れ出す。
「あなたは最後まで、助けようとしてた」
その瞬間、リヴィエラの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「……ちが……」
声が震える。
「私は……」
だが。
ネメシスの侵食が、再び彼女を覆う。
『黙れ』
闇の声。
『思い出すな』
黒い水が暴走する。
だが――。
「黙るのは、お前だ」
低い声だった。
アルが前へ出る。
その瞳には、千年越しの怒りが宿っていた。
「今度こそ、終わらせる」
エリオスが風を纏う。
レオンが剣を構える。
セレフィーナの結界が広がる。
リナは、薬瓶を握り締めた。
四精霊が、彼女の周囲で共鳴する。
そして――。
ルシエルが、静かに告げる。
「リナ」
リナが顔を上げる。
「一緒に、助けよう」
その言葉に、リナは強く頷いた。
黒い水が渦巻く。
蒼い光が立ち上がる。
忘却と希望ーー。
二つの力が。
神殿最奥で激突しようとしていた。
第77話 終わり
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