第75話 使命を継ぐ者
水神殿アクア・レヴァリエ――。
魔獣化した守護神獣の咆哮が、神殿全体を震わせていた。
ゴォォォォォォォッ――!!
黒い水が逆巻く。
天井を覆う侵食が、雷鳴のように軋んだ。
その中心で、巨大な蒼き神獣だけが、苦しむように暴れている。
黒い鎖が、身体へ深く食い込んでいた。
『ァァァァァァァァァッ!!』
「……っ!」
リナは思わず胸を押さえる。
苦しい。
悲しい。
怒りではない。
これは――“助けを求める声”だ。
フェルが低く唸った。
『神獣自身も、侵食へ抵抗している』
『だが、核と繋がれた今、暴走は止まらん』
その瞬間、守護神獣の瞳がルシエルを捉えた。
ドクン――。
ルシエルの胸の奥で、何かが脈打つ。
「……あ……」
視界が揺れた。
脳裏へ、映像が流れ込む。
蒼い湖。
幼い自分。
巨大な神獣の背中。
優しく頭を撫でる、薄い紫色の髪の女性。
『ルシエル』
懐かしい声。
『水は、命を繋ぐ力』
『だから貴方は、守るために戦うのです』
「……っ」
ルシエルの呼吸が止まる。
その声を、知っていた。
忘れていたはずなのに。
胸が、痛いほど覚えている。
「母……様……?」
その言葉にイグニアの瞳が、大きく揺れた。
「……!」
だが次の瞬間――。
ドゴォォォォォンッ!!
守護神獣が暴走する。
巨大な前脚が振り下ろされ、神殿の床が砕け散った。
「離れろ!!」
レオンが叫ぶ。
全員が飛び退く。
黒い濁流が、津波のように押し寄せた。
セレフィーナが結界を展開する。
バァァァァッ!!
白銀の障壁が濁流を防ぐ。
だがーー。
「……くっ……!」
侵食が強すぎる。
結界が軋む。
その時、ルシエルが一歩前へ出た。
「……ルシエル?」
リナが振り返る。
ルシエルは、ただ真っ直ぐ神獣を見つめていた。
苦しそうに。
悲しそうに。
そして、決意した瞳で。
「……違う」
小さく呟く。
「この人は、敵じゃない」
神獣の咆哮が響く。
だが、その奥に。
確かに“涙”があった。
ルシエルには、分かってしまった。
この神獣は、千年前からずっと、神殿を守り続けていたのだと。
侵食されても。
壊れかけても。
それでも――。
最後まで、役目を果たそうとしていた。
「……もう、終わらせる」
槍を握る。
蒼い光が、彼の周囲へ集まり始めた。
その時だった。
黒い水が、再びルシエルへ囁く。
『守れなかった』
『お前はまた失う』
『今度も、イグニアを――』
「黙れ」
静かな声で遮った。
けれど、今までで一番強かった。
ルシエルの蒼い瞳が、揺らがない。
「僕は、忘れてた」
水が、彼の足元で波紋を広げる。
「怖かったんだ」
「思い出すのが」
槍が、蒼く輝く。
「でも――」
イグニアが、小さく彼の服を掴んだ。
その温もりを感じながら。
ルシエルは、前を向く。
「今度は、僕が守る」
その瞬間だった。
ドクン――ッ!!
神殿核が、大きく脈打つ。
同時に、ルシエルの身体から、膨大な水の魔力が解放された。
ゴォォォォォッ!!
蒼い奔流が、天井へ駆け上がる。
神殿中の水が共鳴した。
湖が震える。
空間が鳴動する。
そして――。
守護精霊が、ゆっくりと顔を上げた。
黒く濁っていた瞳の奥。
そこへ、微かな蒼い光が戻る。
『……使命を……継ぐ者……』
透き通る声が響く。
リナたちが息を呑む。
守護精霊は、苦しみながらもルシエルを見ていた。
『やっと……辿り着いたのですね……』
黒い鎖が軋む。
侵食が、彼女を再び飲み込もうとする。
だがーー。
「僕は、逃げない」
ルシエルは槍を構えた。
「だから――力を貸して」
蒼い光が、槍へ収束する。
「オーシャン・レクイエムーー」
水が、歌うように渦を巻いた。
その瞬間ーー。
守護精霊の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
『……汝に、加護を、与えよう』
バァァァァァァァッ!!
蒼い紋章が、ルシエルの胸元へ刻まれる。
水の紋章。
“使命”の加護。
同時に、彼の槍が姿を変えた。
蒼銀の龍槍。
水龍の紋様が浮かび上がり、神聖な光を放つ。
ゴォォォォォッ!!
蒼い龍の幻影が、ルシエルの背後へ現れた。
フェルが目を見開く。
『龍神化を……制御したか』
ルシエルの身体が、蒼い光へ包まれる。
一瞬だけ、巨大な龍神の姿が重なる。
だが――暴走しない。
静かに。
穏やかに。
その力は、彼自身へ還っていく。
そして、光が収まった時。
そこに立っていたのは――。
元の姿の、少年ルシエルだった。
けれど、その瞳だけはもう違った。
迷いがない。
逃げていない。
本当の意味で、“覚醒”していた。
「……行こう」
ルシエルが振り返る。
その声に、イグニアが小さく頷く。
そして――。
今度は、リナが前へ出た。
守護神獣は、まだ侵食に苦しんでいる。
黒い鎖が、さらに深く食い込んでいた。
『ァァァァァ……!!』
リナは、薬瓶を強く握り締める。
「……待ってて」
風の精霊。
水の精霊。
炎の精霊。
光の精霊。
四精霊が、彼女の周囲を舞い始める。
フェルが静かに言った。
『器として認めさせろ、リナ』
『お前の力でな』
リナは、深く息を吸う。
そして、薬瓶の光を両手で包み込んだ。
「精霊術式――」
光が重なる。
命が、共鳴する。
「“星霊調和・浄化解放”――!!」
バァァァァァァァァッ!!
巨大な光柱が、神殿を貫いた。
黒い鎖が、悲鳴を上げる。
侵食が焼かれる。
忘却が、浄化されていく。
守護神獣の瞳へ。
少しずつ、蒼い光が戻り始めた。
そして――。
神殿最奥。
黒い水の奥で。
忘却の魔女リヴィエラが、静かに顔を上げる。
涙に濡れた瞳。
その奥にーー。
初めて、“恐れ”が宿っていた。
「……どうして……」
震える声。
「どうして、まだ……立ち上がれるの……」
黒い水が、再び蠢き始める。
忘却は、まだ終わっていない。
本当の戦いは――。
これから始まるのだから。
第75話 終わり
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