第74話 沈んだ蒼い記憶
水神殿アクア・レヴァリエ――。
神殿の前ーー。
静寂が、落ちていた。
つい先ほどまで暴れ狂っていた黒い湖は、不気味なほど穏やかだった。
波ひとつない。
風もない。
だが、湖の底から響く鼓動だけが、世界を震わせている。
ドクン――。
ドクン――。
まるで巨大な心臓。
神殿そのものが、生きているようだった。
「……消えた」
リナが呟く。
さっきまでそこにいたはずの、守護精霊と守護神獣の気配。
それが完全に湖の底へ沈んでいた。
そしてーー。
重く閉ざされていた巨大な門が、ゆっくりと開いていく。
ゴゴゴゴゴ……。
その奥から溢れ出してきたのは、“感情”だった。
悲しみ。
絶望。
孤独。
忘れ去られた誰かの涙が、空間そのものへ染み込んでいるようだった。
リナは思わず胸元を押さえる。
「……苦しい……」
呼吸が重い。
心が沈む。
フェルが低く唸った。
『ここから先は、精神侵食の中心部だ』
金色の瞳が、神殿の奥を見据える。
『忘却の魔女は、“核”へ引きずり込まれた』
「核へ……?」
『今の神殿核は、暴走した精神世界そのものだ』
『守護精霊も守護神獣も、侵食の中心へ閉じ込められたのだろう』
その言葉に、空気が重くなる。
ルシエルが静かに槍を握り締めた。
「……助けられる?」
フェルは、すぐには答えなかった。
『簡単ではない』
『今の核は、“忘却”でできている』
『下手に触れれば、自分自身の記憶を奪われる』
その瞬間、イグニアの肩が小さく震えた。
ルシエルは気づく。
彼女はまだ、“記憶を失う恐怖”そのものの中にいる。
自分が誰なのか。
何を失ったのか。
それすら曖昧なまま。
「……イグニア」
そっと名前を呼ぶ。
イグニアは少しだけ顔を上げた。
赤い瞳が、不安そうに揺れている。
「……行か、ないで……」
消えそうな声。
それでも今度は、“誰かを心配して”口にした言葉だった。
ルシエルの胸が熱くなる。
「うん」
彼は優しく笑う。
「もう、置いていかない」
その声だけは、不思議なほど優しかった。
だが、その瞳の奥には、まだ迷いが残っていた。
リナは、それに気づいていた。
ルシエルは思い出しかけている。
けれどまだ、“全部”ではない。
たぶん彼は――。
自分が忘れている“何か”を、恐れているのだと。
そしてーー。
一行は、ゆっくりと神殿内部へ踏み込む。
その時だった。
ドクン――ッ!!
神殿核が、大きく脈打つ。
視界が揺れる。
床が、水面のように波打つ。
「……っ!」
エリオスが息を呑む。
そこは、もう普通の神殿ではなかった。
壁は半透明の水晶のように脈動し、天井には黒い水が空のように広がっている。
無数の記憶の光が、空間を漂っていた。
それは、水面へ映し出された“記憶”だった。
笑い合う人々。
祈りを捧げる神官たち。
澄んだ水の神殿。
そして――。
蒼い鎧を纏った騎士たち。
アルの瞳が、僅かに揺れる。
「これは……」
フェルが低く告げる。
『千年前のアクア・レヴァリエだ』
全員が息を呑む。
湖面の映像が揺らぐ。
その中心にいたのは――。
蒼い長髪を揺らす、一人の女性。
まだ“忘却の魔女”ではない頃のリヴィエラ。
穏やかに笑っていた。
誰かを守るように。
慈しむように。
今とは、まるで別人だった。
蒼い湖。
白い神殿。
祈りを捧げる神官たち。
そして――。
蒼い鎧を纏った精霊騎士たち。
アルの瞳が揺れる。
まだ闇に堕ちる前のリヴィエラが、穏やかに笑いながら、人々へ手を差し伸べていた。
リナの胸が痛む。
「……どうして……」
こんな優しそうな人が、どうして、あそこまで壊れてしまったのか。
だがーー。
その時、映像が突然黒く染まった。
ゴォォォォォ……。
黒い水。
侵食。
悲鳴。
崩壊。
空間が、一瞬で地獄へ変わる。
神殿が悲鳴を上げる。
『逃げて!!』
若き日のリヴィエラが叫んでいた。
その瞳には、涙が浮かんでいる。
『早く!!』
だが、黒い水は止まらない。
騎士たちが飲み込まれていく。
精霊たちが悲鳴を上げる。
そして――。
映像の奥。
黒い闇の中で。
ひとりの存在が、静かに笑っていた。
ゾクリ、と全員の背筋が凍る。
フェルの目が細まる。
『……ネメシス』
空気が凍りつく。
その名は、虚無神。
世界を侵食する闇の王。
その名だけで、神殿が震えた。
アルの表情が変わる。
今まで隠していた感情が、僅かに漏れる。
怒り。
そして――後悔。
「アル……?」
リナが振り返る。
だが、その時。
ドクン――ッ!!
湖面だった神殿の床が爆発した。
黒い水柱が、噴き上がる。
『ァァァァァァァッ!!』
苦しげな咆哮。
全員が顔を上げる。
神殿の中央。
そこには――。
黒い鎖に繋がれた守護神獣がいた。
巨大な蒼い獣。
本来なら神聖であるはずの身体は、侵食によって黒く染まっている。
その頭上には、水の守護精霊。
透き通るような女性の姿。
だが、その瞳は黒く濁っていた。
「……っ」
リナの呼吸が止まる。
守護精霊が、苦しそうにこちらを見た。
そして。
震える声で、呟く。
『……ニゲて……』
次の瞬間、黒い鎖がさらに食い込んだ。
『ァァァァァァァァァッ!!』
守護神獣が暴走する。
空気が割れるように振動させた。
フェルが叫ぶ。
『来るぞ!!』
ドォォォォォンッ!!
魔獣化した守護神獣が、水神殿全体を揺らしながら動き出した。
その蒼い瞳は、もう理性を失っていた。
だが――。
ルシエルだけは、動かなかった。
じっと、その瞳を見ていた。
どこか懐かしそうに。
苦しそうに。
そして。
守護神獣が、咆哮する。
その瞬間。
ルシエルの脳裏に、封じられていた記憶が流れ込んだ。
幼い頃。
蒼い湖。
巨大な神獣の背。
優しく笑う神官。
そして――。
『お前には、“使命”がある』
誰かの声。
水が、共鳴する。
槍が震える。
ルシエルの瞳が、大きく見開かれた。
「……あ……」
何かを――思い出しかけている。
その瞬間、ルシエルの槍が淡く蒼く輝いた。
ドクン――。
神殿核が、再び脈打つ。
まるでーー。
“彼”を待っていたかのように。
蒼い光と、黒い侵食がぶつかり合う中――。
忘れ去られた“使命”が、静かに目を覚まそうとしていた。
第74話 終わり
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