第73話 黒き水と祈りの光
水の神殿アクア・レヴァリエ――。
蒼い光と、黒い侵食が空を二分していた。
龍神ルシエルの咆哮によって押し返されたはずの忘却。
だが、神殿核の暴走は止まらない。
ゴォォォォォ……。
黒い水が、空そのものを侵食していく。
世界が沈んでいくようだった。
「起きて」
忘却の魔女リヴィエラが、恍惚と呟く。
「全部、沈んでしまえばいい」
その瞳は、涙で濡れていた。
苦しそうなのに。
壊れそうなのに。
それでも彼女は、“忘却”へ縋っている。
「……違う」
リナが、小さく呟いた。
「そんなの、救いじゃない」
だが、その声は届かない。
黒い水が、さらに膨れ上がる。
フェルが低く唸る。
『神殿核が精神世界と、融合を始めている』
その瞬間だった。
ドクン――ッ。
世界が脈打つ。
視界が歪んだ。
「……っ!」
セレフィーナの身体が、ぐらりと揺れる。
「殿下!?」
レオンが叫ぶ。
だが遅い。
黒い水が、足元から彼女へ絡みついていた。
「――あなたも、疲れているでしょう?」
リヴィエラの声が響く。
優しく、甘く。
逃げ場のない声音で。
「守ることばかり、期待され続けて」
「一度でも、“逃げたい”と思ったことはない?」
セレフィーナの瞳が、大きく揺れた。
「……っ……」
王女として。
王族として。
ずっと背負ってきたもの。
誰にも見せなかった弱さ。
「もう、頑張らなくていい」
黒い水が、彼女の腕を覆っていく。
「……ぁ……」
呼吸が乱れる。
頭の中へ、声が流れ込む。
失敗したらどうする。
守れなかったらどうする。
王女失格だ。
誰も、お前を必要としていない。
「……や……」
セレフィーナの膝が崩れかける。
その時――。
ガシッ!!
誰かの手が、彼女の腕を強く掴んだ。
「目を逸らすな」
低い声。
レオンだった。
セレフィーナの瞳が揺れる。
「……レオン、兄様……」
レオンは、真っ直ぐ彼女を見る。
侵食など気にも留めないように。
「あなたは、一人で立ってきたわけじゃない」
黒い水が、彼の腕にも絡みつく。
だが、離さない。
「俺たちがいる」
その一言だった。
セレフィーナの瞳から、涙が零れた。
「……っ……!」
張り詰めていたものが、崩れる。
「どうして……」
リヴィエラが苦しそうに呟く。
「どうして、支え合えるの……」
セレフィーナは、震える指でレオンの腕を握り返した。
「……ありがとう」
その瞬間、白銀の光が弾ける。
バァァァァッ!!
王族の精神結界が再展開された。
黒い侵食を押し返していく。
セレフィーナの瞳に、再び強い光が戻る。
「レオン!」
「分かっています!」
二人が同時に力を解放する。
白銀と蒼銀。
二つの力が、暴走する神殿核へ突き刺さった。
ドゴォォォォン!!
神殿が、大きく揺れる。
だが――。
「まだ止まらない……!」
エリオスが叫ぶ。
黒い水が、今度はアルとエリオスへ襲いかかった。
「ーーあなたも、疲れているでしょう」
「何百年も」
「独りで」
アルの瞳が揺れる。
一瞬だけ、遥か昔の光景が脳裏を過ぎる。
崩れた世界。
消えていった仲間たち。
守れなかったもの。
「……っ」
拳が軋む。
だが、その時ーー。
「アル!!」
エリオスが叫んだ。
「前を見てください!!」
アルが、はっとする。
エリオス自身も侵食に飲まれかけていた。
膝を震わせながら、それでも必死に笑う。
「今は……まだ、終わってません!!」
アルが、小さく笑った。
「……お前から言われるとは、な」
だが、その声は優しかった。
黒い侵食を、剣で断ち切る。
「行くぞ、エリオス!」
「はい!!」
二人の力が、神殿核へ叩き込まれる。
その一方で――。
龍神ルシエルの身体が、淡い光に包まれていた。
巨大な龍の姿が、ゆっくりと縮んでいく。
蒼い鱗が砕け、光となって舞う。
やがて現れたのは――。
成人した姿の龍人だった。
蒼銀の長髪。
額に浮かぶ水の紋様。
鋭くも優しい蒼い瞳。
そして、その手には――長槍。
水で編まれた、美しい龍槍。
リナが息を呑む。
「……ルシエル……」
ルシエルは静かに振り返った。
その姿は、もう迷っていなかった。
「行こう、イグニア」
イグニアの胸の奥で、消えかけていた炎が、小さく揺れた。
忘れていたはずなのに。
その声だけは、どうしても失いたくないと思った。
その声にイグニアの瞳が、わずかに揺れる。
「……うん……」
かすれた声。
でも、確かに返事をした。
次の瞬間――。
ドォンッ!!
ルシエルが空を駆ける。
蒼い水流が、槍へ収束する。
「穿て――」
「ドラグ・アクアリウム」
槍が振り抜かれる。
轟音と共に、水の龍が黒い奔流を貫いた。
同時に。
ゴォォォォッ!!
イグニアの聖炎が、空を裂く。
紅蓮の炎と、蒼き水。
相反する力が、完璧に噛み合う。
侵食が焼かれていく。
リヴィエラの瞳が、大きく揺れた。
「どうして……」
理解できないように。
「忘れているのに」
「壊れているのに」
「どうして、そんなに……」
その時だった。
リナが、一歩前へ出る。
手には、薬瓶を握りしめていた。
そっと、瓶のふた開け、手のひらに流す。
「精霊たちよ」
周囲へ、光の粒が舞い始めた。
風。
水。
火。
そして、光。
四精霊が、彼女の周囲へ集う。
手のひらに溢れる癒しの薬が、静かに光り出す。
フェルの瞳が細まる。
『さて、どうする』
リナが深く息を吸う。
そして――。
「精霊術式――」
リナの手の中で、薬が放つ光と、精霊たちの光が集まり混ざり合う。
「“星霊調和”――!!」
バァァァァァッ!!
巨大な光柱が、水神殿を包み込んだ。
侵食が、悲鳴を上げる。
忘却が、焼かれていく。
リヴィエラの瞳が、激しく揺れた。
「いや……」
頭を押さえる。
涙を零しながら。
「思い出したくない……!!」
黒い水が、爆発するように広がる。
だが、彼女は戦おうとはしなかった。
逃げるように、壊れた心を隠すように、黒い水の奥へ、ゆっくりと沈んでいく。
「……っ!?」
リヴィエラの瞳が揺れる。
次の瞬間ーー。
黒い鎖が、守護精霊と守護神獣へ絡みついた。
まるで、黒い水が意思を持つように蠢く。
リヴィエラですら制御できないほどに。
『ァァァァァ――!!』
湖の底へ、無理やり引きずり込まれていく。
「やめ……!」
リヴィエラが手を伸ばす。
だが止まらない。
神殿核そのものが、暴走していた。
そして、湖の中に引きずり込み、消えた。
「……まだ……終われない」
その声だけが、残る。
そして――。
リヴィエラの姿は、闇の中へ消えた。
崩れ落ちるように、湖面が静まっていく。
だが、誰も動けなかった。
戦いは、終わっていない。
水神殿の最奥で。
まだ、“本当の核”が脈打っている。
ドクン――。
その音だけが、静かに響いていた。
第73話 終わり
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