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第72話 君を忘れない

水神殿アクア・レヴァリエ――。


黒い侵食を押し返すように、空が、蒼く染まっていた。


巨大な龍神となったルシエルの魔力が、世界そのものを書き換えていく。


ゴォォォォォ――。


蒼銀の鱗が、月光を弾く。


その巨体は、神殿すら小さく見えるほどだった。


湖面が震える。


空気が震える。


魂が震える。


だが――その瞳だけは、どこまでも優しかった。


『……イグニア』


龍神の声が響く。


深く、温かく、忘れかけていた名前を、大切に呼ぶように。


イグニアの肩が、小さく震えた。


光を失っていた瞳が、わずかに揺れる。


「……る……し……」


掠れた声。


それだけで、ルシエルの胸が締めつけられる。


「思い出して……!」


涙を浮かべながら、リナが叫ぶ。


「イグニア!!」


その瞬間だった。


ドクン――ッ!!


湖面が、爆発的に揺れた。


リヴィエラが顔を歪める。


「やめて……」


まるで感情そのもののように、黒い水が荒れ狂う。


「思い出しては、だめ」


その声は、苦しそうだった。


怒りではない、恐怖だった。


「忘れなければ……壊れてしまうのに……!」


その瞬間、リナは気づいた。


この魔女は――最初から“忘れたかった”のだと。


耐えられないほどの悲しみを。


失った痛みを。


だから、全部を忘却へ沈めようとしている。


「……違うよ」


リナが、一歩前へ出る。


震える足で、それでもまっすぐに。


「傷ついたからって」


「苦しかったからって」


涙を拭い、リヴィエラを見る。


「大切だったことまで消しちゃだめだよ」


リヴィエラの瞳が、大きく揺れる。


「……っ」


その時だった。


イグニアが、ゆっくりと顔を上げた。


黒い侵食が、少しずつ剥がれていく。


「……わた……し……」


声が、零れる。


消えかけていた灯火。


それが今、確かに燃え始めていた。


ルシエルが、龍神の姿のまま彼女へ近づく。


巨大な龍の顔が、そっと寄せられる。


壊れ物に触れるみたいに。


『ごめん』


その声が、静かに響く。


『遅くなった』


イグニアの瞳から、涙が溢れた。


ぽろぽろと、止まらない。


「……っ……!」


感情を失っていた少女が、初めて“泣いた”。


「……ル……シエル……」


世界が、止まったようだった。


ルシエルの蒼い瞳が揺れる。


『ああ』


優しく応える。


『ここにいる』


その瞬間――。


ゴォォォォォッ!!


イグニアの身体から、紅蓮の炎が噴き上がった。


巨大な聖炎が、黒い水を焼き払いながら、空へ駆け上がる。


フェルが目を見開く。


『目覚めたか……』


炎が、侵食を焼いていく。


守護神獣の身体から、黒が剥がれ落ちる。


苦しそうだった咆哮が、変わる。


『グルルル……』


蒼い光。


神聖な水。


本来の姿が、戻り始めていた。


エリオスが、涙ぐむ。


「浄化が……進んでます……!」


だが、その時、リヴィエラがふらりと後ろへ下がった。


「……やめて」


その声は、ひどく弱い。


「……いや……」


頭を押さえる。


黒い水が、暴走するように溢れ出した。


「思い出したくない……!!」


悲鳴だった。


その瞬間、リナの胸に感情が流れ込む。


寒い。


暗い。


ひとり。


誰にも届かない。


水の底で、ずっと泣いている。


「……リヴィエラ……」


リナは、気づいてしまった。


この魔女は――ずっと、助けを求めていた。


忘却の奥底で、誰にも気づかれずに。


その時だった。


アクア・レヴァリエ最奥――。


巨大な黒い繭が、完全に裂けた。


ドクン――ッ!!


世界が揺れる。


湖面が、空へ巻き上がる。


フェルの顔色が変わった。


『……まずいな』


『神殿核が暴走する』


黒い水が、空を覆う。


侵食の奔流。


このままでは、大陸全体が飲み込まれる。


セレフィーナが叫ぶ。


「全員、防御を!!」


だが、間に合わない。


圧倒的すぎる。


その瞬間、龍神ルシエルが静かに前へ出た。


『……終わらせる』


蒼い魔力が、空を覆う。


湖が共鳴する。


水そのものが、彼へ応えていた。


『もう』


蒼銀の瞳が、真っ直ぐリヴィエラを見る。


「誰も、泣かせない」


その言葉に、リヴィエラの瞳から、涙が零れ落ちた。


黒い水の中で、まるで忘れていた感情を思い出したように。


そして、龍神が、空へ咆哮する。


ゴォォォォォォォォォッ!!!!


蒼い光が、世界を貫いた。


忘却を切り裂くように。


絶望の海を照らすように。


今――。


水神殿アクア・レヴァリエで。


失われた記憶と絆が、再び繋がろうとしていた。


第72話 終わり

ここまで読んでいただきありがとうございます!


少しでも続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


次回もぜひ読んでいただけたら嬉しいです!

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