第70話 忘却の魔女
水神殿アクア・レヴァリエーー。
神殿前の湖。
世界から、音が消えた。
風も。
水音も。
誰かの呼吸さえも。
ただ、そこに立つ女だけが、“存在”していた。
湖の中央、黒い水の上に立つ、忘却の魔女リヴィエラ。
蒼いの長い髪が、水のように揺れている。
深海のような瞳。
覗き込めば、そのまま闇の底へ沈んでしまいそうだった。
「……あぁ」
静かな声。
それだけで、胸の奥が冷える。
「やっと、会えた」
その視線が、ゆっくりとリナへ向く。
「大精霊の器」
その瞬間ーー。
ドクン――。
心臓が、大きく脈打った。
「……っ」
息が詰まる。
見られているだけなのに、頭の中を冷たい指で掻き回されるような感覚。
レオンが即座に前へ出る。
「リナに近づくな」
剣を構える。
だがリヴィエラは、ただ微笑んだ。
「怖い顔」
その瞬間、ぞわり、と空気が揺れる。
レオンの身体が、一瞬だけ止まった。
「……!?」
視界が、歪む。
脳裏へ流れ込む。
血塗れの手。
崩れた城壁。
誰かを守れなかった記憶。
『また失う』
『お前は、守れない』
「っ……!」
剣がぶれる。
リヴィエラは、くすりと笑った。
「心に触れるの、好きなの」
まるで子どものように無邪気な声。
なのに、底が見えない。
セレフィーナが鋭く叫ぶ。
「目を合わせないでください!!」
白銀の魔力が広がり、精神防壁を展開させる。
そして、透明な結界が一行を包み込んだ。
リヴィエラは少しだけ目を細める。
「……へぇ」
懐かしいものを見るように。
「王族の結界術」
震える指先を隠したまま、セレフィーナは前へ出る。
「忘却の魔女リヴィエラ」
凛と名を呼ぶ。
「王都アルディアの名において、あなたを止めます」
リヴィエラは、静かに首を傾げた。
「止める?」
ふわり、と笑う。
「どうして?」
その声に、奇妙な悲しさが混じる。
「忘れることは、救いなのに」
湖面が揺れる。
黒い水が、まるで感情のように波打つ。
「苦しいことも」
「悲しいことも」
「全部、流れてしまえば楽になれる」
その言葉に、ルシエルの肩がびくりと震えた。
リヴィエラの視線が、ゆっくり彼へ向く。
「……あなた」
優しく、慈しむように。
「まだ苦しんでいるのね」
「……っ!」
ルシエルの呼吸が止まる。
頭の奥で、また炎が弾けた。
赤い空。
泣き声。
燃える村。
『助けて』
『お兄ちゃん』
「やめろ……!」
頭を押さえる。
苦しい。
忘れたいのに。忘れたくない。
リヴィエラが、そっと手を伸ばした。
「なら、消してあげる」
「全部」
その瞬間ーー。
ボゥッ――!!
紅蓮の炎が割って入った。
リヴィエラの水が蒸発する。
イグニアだった。
無表情のまま。
ルシエルの前へ立つ。
小さな背中。けれど、その炎は確かにリヴィエラを拒絶していた。
「……あら」
リヴィエラが、初めて表情を変える。
驚き、そして、懐かしむような目。
「まだ燃えていたのね」
イグニアは答えない。
ただ、じっとリヴィエラを見ている。
その瞬間だった。
リヴィエラの瞳が、ほんの僅かに揺れた。
「……かわいそうに」
ぽつり、と呟く。
「あなたを、せっかく壊して」
「心を、閉じ込めてあげたのに」
ルシエルが顔を上げる。
「……知ってるのか」
声が震える。
「イグニアに……何をした」
リヴィエラは、静かに微笑んだ。
だが、その笑みはどこか歪だった。
「何をした?」
小さく笑う。
「違うわ」
湖面が、ゆらりと揺れる。
「かわいそうだから」
「壊して、あげたのよ」
その瞬間、イグニアの瞳が僅かに揺れた。
「……っ」
ルシエルが息を呑む。
確かに、今の言葉に反応した。
リヴィエラは、それを見逃さない。
「思い出したい?」
悪魔のように、優しく問いかける。
「あの日のこと」
ドクン――。
世界が揺れた。
ルシエルの脳裏に、映像が走る。
炎。
泣き叫ぶ少女。
伸ばした手。
届かなかった指。
そして――。
黒い水。
「――ぁ……」
膝が崩れる。
リナが駆け寄ろうとする。
だがその前に、イグニアが、ルシエルの頬へそっと触れた。
温かい。
小さな熱。
「……!」
ルシエルの瞳が揺れる。
すると――。
イグニアの口元が、ほんの僅かに動いた。
声にならないほど小さく。
かすれて。
それでも確かに。
「……お……にぃ……」
ルシエルの目が、大きく見開かれる。
リナたちも、誰もが息を止めた。
今――。
イグニアが、自分の意思で反応した。
「……っ」
リヴィエラの笑みが、初めて崩れる。
湖面が、大きく波打った。
黒い水が荒れる。
感情が乱れている。
フェルが低く呟く。
『効いている』
『イグニアの炎が、侵食を焼いているのだ』
その時、守護神獣が苦しそうに咆哮した。
『グ……ァァ……』
黒い水が剥がれ落ちる。
蒼い光が、少しずつ戻っていく。
エリオスが叫ぶ。
「炎が、浄化がしてます……!」
だが、リヴィエラの瞳が、冷たく細められた。
「……邪魔ね」
その瞬間、湖全体が沈んだ。
ゴボ……ッ。
そして、まるで巨大な口が開くように、黒い水が神殿から溢れ出す。
フェルの顔色が変わる。
『まずい』
『神殿そのものが開くぞ』
次の瞬間ーー。
巨大な神殿の扉が、ゆっくりと軋み始める。
まるで、“何か”を目覚めさせるように。
そして、神殿の最奥からーー。
ドクン――。
巨大な心臓の鼓動のような音が響いた。
リヴィエラが、恍惚と微笑む。
「起きて」
その声に世界が、震えた。
湖面が割れ、黒い水が空へ昇っていく。
まるで、巨大な繭のように。
神殿全体が、脈打っていた。
忘却。
侵食。
絶望。
そのすべてを抱え込みながら――。
アクア・レヴァリエは、ゆっくりと“目覚めよう”としている。
リナは、震える拳を握った。
隣では、ルシエルがイグニアの手を強く握り返している。
消えかけた灯火。
それでも、まだ、消えていない。
だからーー。
ここで止めなければならない。
全部を忘れてしまう前に。
大切なものが、壊れてしまう前に。
今ーー。
水神殿の深淵で、本当の悪夢が始まる。
第70話 終わり
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