第69話 重なる小さな手
水神殿アクア・レヴァリエーー。
神殿前の湖ーー。
『――カエセ』
守護神獣の咆哮が、湖全体を震わせた。
ゴォォォォォ――ッ!!
黒く濁った水が空へ巻き上がる。
空気そのものが軋み、呼吸が苦しい。
リナは、思わず耳を押さえた。
「……っ!」
頭の中へ、直接響いてくる。
怒り。
悲しみ。
喪失。
そして――孤独。
まるで、神獣自身の感情が流れ込んでくるようだった。
『返セ』
『ワタシノ……』
守護神獣の瞳から、黒い涙のようなものが零れる。
だが、それは涙ではなく、侵食された“記憶”だった。
フェルが低く唸る。
『完全に飲まれている……』
エリオスの顔が青ざめる。
「本来の守護神獣様は……こんな姿ではありません……!」
その瞬間――。
ドォンッ!!
巨大な前脚が湖面を叩きつけた。
爆発したように水が吹き上がる。
「散れ!!」
レオンの声。
全員が飛び退く。
次の瞬間、いた場所を黒い濁流が飲み込んだ。
ジュゥゥゥ――。
石畳が溶ける。
ただの水ではなく、存在そのものを侵食する水。
アルが顔をしかめる。
「冗談だろ……!」
セレフィーナが即座に指示を飛ばす。
「固まらないでください!」
「侵食範囲が広すぎます!」
白銀の魔力で防御陣が展開される。
だが、その光さえも黒い水に軋まされていく。
「……長くは持ちません!」
セレフィーナの額に汗が滲む。
その時だった。
守護神獣の濁った瞳が、再びリナを捉えた。
ぞわり、と背筋が凍る。
『――ニガサナイ』
空気が変わる。
次の瞬間、巨大な黒水が槍のように一直線へ放たれた。
「リナ!!」
レオンが飛び込む。
ガキィィン!!
剣で受け止める。
だが――。
「っ……!!」
重い。
腕が痺れる。
侵食が、剣越しに入り込んでくる。
レオンの脳裏へ、突然、記憶にない映像が流れ込んだ。
血。
崩れた城。
誰かの泣き声。
『守れなかった』
『また失うのか』
「……っ!」
一瞬だけ、動きが鈍る。
その隙を、黒水は逃さない。
「レオン!!」
リナが叫ぶ。
だが、その時だった。
ボゥ――ッ!!
赤い炎が、黒水を焼き払った。
蒸気が弾ける。
全員が目を見開く。
そこにいたのは、イグニアだった。
無表情のまま、静かに前へ出ている。
その小さな身体から、淡い炎が揺れていた。
黒い水が、彼女を避けている。
フェルの瞳が細まる。
『やはり……』
「イグニア……」
ルシエルが呟く。
その声に、ほんの僅かだけイグニアの睫毛が震えた。
だが次の瞬間、守護神獣が咆哮する。
『ァァァァァアアアアアッ!!』
怒り。
憎しみ。
悲鳴のような叫び。
湖面全体が暴れ始める。
巨大な波が、空へせり上がった。
「来ます!」
エリオスが叫ぶ。
「あれが来たら……!」
逃げ切れない。
誰もが察した。
その時、ルシエルが前へ出た。
「……ルシエル!?」
リナが目を見開く。
まだ顔色は悪い。
侵食も完全には抜けていない。
それでも――。
ルシエルは、震える足で立つ。
「……僕がやらなきゃ」
小さな声。
だけど、その瞳は逃げていなかった。
「また……逃げたら」
拳を握る。
「本当に、大事なものを忘れる気がする」
風が吹く。
その瞬間、イグニアがゆっくりとルシエルを見る。
ルシエルは気づかない。
だがその瞳の奥で、微かに光が揺れていた。
「……力を貸して」
ルシエルが、そっと手を伸ばす。
黒炎じゃない。
恐怖でもない。
守りたいという感情だけを握りしめて。
すると――。
イグニアの指先が、ゆっくり動いた。
重ねられる、小さな手。
その瞬間ーー。
ゴォォォッ――!!
紅蓮の炎が、夜空へ噴き上がった。
リナが息を呑む。
「……きれい……」
それは破壊の炎ではない。
暖かく、優しく包み込むような聖なる火。
侵食された水が、触れた場所から浄化されていく。
守護神獣が苦しそうに吠えた。
『グ……ァ……』
黒い水が揺らぐ。
その奥で、ほんの一瞬だけ――。
蒼い瞳が見えた。
エリオスが叫ぶ。
「今です!!」
「守護神獣様は、まだ消えてません!!」
リナの胸が強く脈打つ。
(助けられる……!)
(まだ、届く!!)
その時だった。
湖の奥底から――。
ゾワリ、と。
別の“気配”が這い上がる。
冷たい。
深い。
底なしの悪意。
フェルの表情が変わった。
『下がれ!!』
直後ーー。
湖面の中央が、ゆっくり割れた。
黒い水の中から現れる。
白い足。
濡れた髪。
細い指。
そして――。
ゆっくりと微笑む、一人の女。
深海のような瞳と、蒼く長い髪。
美しく、ぞっとするほど静かな存在。
「――見つけた」
その声だけで、心が沈む。
リナの呼吸が止まる。
エリオスの顔が強張った。
セレフィーナが、険しく目を細める。
そして――。
フェルが、低く名を呼ぶ。
『……忘却の魔女』
女は、静かに笑った。
『リヴィエラ』
その瞬間ーー。
世界から、音が消えた。
第69話 終わり
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