第69話 忘却の魔女
水の神殿アクア・レヴァリエ――。
神殿前の湖は、もはや水と呼ぶことさえ躊躇われるほど、禍々しい姿へと変貌していた。
黒く濁った水が湖面を埋め尽くし、まるで巨大な生き物がその底で身を捩っているかのように、絶え間なくうねり続けている。
先ほどまで湖面を淡く照らしていた月明かりも、今では黒い水に呑み込まれ、無数の波紋によって引き裂かれた光が、闇の中へ沈んでいた。
その湖の中央で、異形と化した守護神獣がゆっくりと頭をもたげる。
『――カエセ』
低く、重い咆哮が放たれた瞬間、湖全体が大きく震えた。
ゴォォォォォ――ッ!!
黒い水が巨大な渦となって空へ巻き上がり、夜の冷気を押し退けながら高く噴き上がる。
水飛沫が雨のように降り注ぎ、神殿の石壁へ叩きつけられるたび、低い音が幾重にも重なって湖畔へ響き渡った。
空気そのものが軋んでいる。
呼吸をするだけでも胸が苦しくなるほどの圧力が、周囲を覆い尽くしていた。
リナは思わず両手で耳を押さえる。
「……っ!」
けれど、耳を塞いでも意味はなかった。
聞こえているのは、外から響く守護神獣の咆哮だけではない。
頭の奥へ直接、何かが流れ込んできている。
怒り。
悲しみ。
喪失。
そして――孤独。
それらは言葉になる前の感情となって、冷たい濁流のようにリナの心へ押し寄せてきた。
「……これ……」
胸の奥が締めつけられる。
自分自身の感情ではないことは分かっている。それなのに、あまりにも生々しかった。
誰かを失った痛み。
大切なものを奪われた悲しみ。
どれだけ手を伸ばしても届かなかった絶望。
それらすべてが、まるで目の前にいる守護神獣の心そのものになって、リナの内側へ流れ込んでくる。
『返セ……』
再び、低く震える声が響いた。
『ワタシノ……』
守護神獣の巨大な顔が、苦しげに歪む。
その赤黒く濁った瞳から、黒い雫が一筋、頬を伝って落ちていった。
ぽたり、と湖面へ落ちる。
一瞬だけ、それは涙のように見えた。
けれど――。
「……涙……?」
リナが呟くより早く、フェルが険しい表情でその雫を見つめた。
『……あれは涙ではない』
「え……?」
フェルの金色の瞳が細くなる。
『侵食された記憶じゃ』
その声は低く、いつものような余裕を感じさせなかった。
『あの黒い水に囚われ、流れることも、消えることも許されなくなった記憶が、形を持って溢れ出しておる』
リナは息を呑んだ。
目の前で零れ落ちている黒い雫。その一滴一滴に、守護神獣が失ったものが詰まっている。
大切だった時間。
誰かと交わした言葉。
守れなかった者。
忘れたくなかった名前。
それらすべてが、黒い涙となって守護神獣の身体から流れ落ちているのだ。
「……本来の守護神獣様は……」
エリオスの声が震えた。
青ざめた顔で巨大な姿を見上げながら、両手を強く握り締めている。
「こんな姿ではありません……。本来は、この水の神殿を守り、人々の祈りを受け止める、清らかな存在だったはずなのに……」
その言葉が終わるより早く――。
ドォンッ!!
巨大な前脚が湖面を叩きつけた。
瞬間、湖が爆発したように弾ける。
黒い水が巨大な壁となって吹き上がり、無数の水塊が一行へ向かって押し寄せてきた。
「散れ!!」
レオンの鋭い声が飛ぶ。
誰もが反射的にその場から飛び退いた。
直後――。
ドバァァァッ!!
さっきまで一行が立っていた石畳を、黒い濁流が丸ごと呑み込んだ。
「……っ!」
水が引いたあとに残ったのは、深く抉り取られた石畳だった。
ジュゥゥゥ――。
濡れた石が黒い水に触れた部分から音を立てて溶け、煙のような蒸気が立ち上っている。
リナの顔から血の気が引いた。
「……ただの水じゃない……」
その呟きに、アルが苦々しく顔を歪める。
「冗談だろ……。触れただけで、石まで溶かしやがる。それだけじゃない。あの水は、物そのものに入り込んで侵食してる……」
セレフィーナはすぐに周囲を見渡した。
敵の攻撃範囲が広すぎる。
このまま全員が散開していれば、一人ずつ狙われる危険がある。かといって一箇所へ集まれば、巨大な濁流にまとめて呑み込まれてしまう。
一瞬の判断が、生死を分ける。
セレフィーナは険しい表情を浮かべながらも、王女としての冷静さを崩さなかった。
「互いの距離を保ってください! 固まりすぎてはいけません!」
彼女が両手を広げると、白銀の魔法陣が次々と空中へ浮かび上がった。
「私が防ぎます! 攻撃の軌道を見て、それぞれで回避してください!」
幾重にも重なった防御陣が展開され、白銀の光が一行を包み込む。
しかし――。
バチッ……。
黒い雫が結界へ触れた瞬間、白銀の光へ黒い亀裂が走った。
「……っ!」
セレフィーナが息を呑み、すぐさま魔力を注ぎ込む。
一度消えかけた光が再び強く輝いた。
けれど、黒い染みは止まらない。
まるで生き物のように結界の表面を這い、白銀の魔力を内側から蝕んでいく。
「侵食が……速すぎます……!」
額に汗が滲む。
「この結界も……長くは持ちません!」
その声に焦りが滲んだ。
その時――。
守護神獣の濁った瞳が、再びリナを捉えた。
ぞわり、と背筋を冷たいものが這い上がる。
先ほどまでの悲しみとは違う。
そこには、明確な意思があった。
『――ニガサナイ』
空気が凍りついた。
守護神獣の周囲で黒い水が渦を巻き始める。その水流は次第に一点へ集まり、巨大な水塊が一本の槍のように鋭く収束していった。
「リナ!!」
レオンが叫ぶ。
リナが振り向いた瞬間には、もう遅かった。
漆黒の水槍が、空気を裂きながら一直線に迫ってくる。
レオンは迷うことなくリナの前へ飛び込んだ。
ガキィィン!!
剣と黒水が激突した。
凄まじい衝撃が腕を駆け抜け、レオンの身体が地面を数歩滑る。
「っ……!!」
剣を握る手が震えた。
重い。
単純な水圧ではない。
黒い水が剣を伝い、金属の内側を這うようにして、レオンの腕から身体の中へ入り込もうとしている。
「……くっ!」
レオンは歯を食いしばり、剣を押し返そうとする。
その瞬間だった。
脳裏へ、見覚えのない光景が流れ込んできた。
血に染まった大地。
崩れ落ちた城。
遠くから聞こえる誰かの泣き声。
必死に伸ばされた手。
そして――。
『守れなかった』
胸の奥へ、冷たい声が響く。
『また失うのか』
「……っ!」
レオンの呼吸が止まった。
一瞬だけ、その意識が過去へ引きずられる。
剣を握る力が緩んだ。
その隙を、黒い水は逃さなかった。
「レオン!!」
リナの叫び声が響く。
だが、その瞬間――。
ボゥ――ッ!!
横から赤い炎が走った。
黒水が一瞬で蒸発し、激しい蒸気となって夜空へ弾け飛ぶ。
レオンは思わず目を見開いた。
「……!」
炎の向こうに、小さな少女が立っている。
イグニアだった。
無表情のまま、静かに前へ出ている。
桃色の髪が炎の熱を受けて揺れ、その小さな身体から淡い炎が絶えず溢れていた。
不思議なことに、イグニアの周囲へ迫っていた黒い水は、彼女へ触れる直前で進む勢いを失い、まるで見えない壁に阻まれたように左右へ分かれていく。
フェルの金色の瞳が鋭く細められた。
『……やはり』
その呟きには、確かな確信が滲んでいる。
「イグニア……」
ルシエルが掠れた声で少女の名を呼んだ。
その声が届いた瞬間、イグニアの長い睫毛が、ほんの僅かに震えた。
けれど、それ以上の反応はない。
守護神獣は、そんな少女の姿をじっと見つめていた。
やがて――。
『ァァァァァアアアアアッ!!』
咆哮が夜空を引き裂いた。
悲鳴にも、怒号にも聞こえる叫びだった。
怒り。
憎しみ。
そして、奪われたものを取り戻そうとする絶望。
その感情に呼応するように、湖全体が激しく波打つ。
巨大な水柱が次々と立ち上がり、それらが一つに重なっていく。
やがて湖の向こうに、空を覆い尽くすほど巨大な波が生まれた。
その黒い壁が、ゆっくりと一行へ向かって倒れ始める。
「来ます!」
エリオスが叫んだ。
その顔から血の気が引いている。
「あれが来たら……避けきれません!」
誰も答えられなかった。
逃げ道がない。
防御するには大きすぎる。
このままでは、全員が黒い濁流に呑み込まれる。
その絶望が湖畔を覆いかけた――その時だった。
「……僕がやらなきゃ」
静かな声が響いた。
リナが振り返る。
「……ルシエル?」
少年が、一歩前へ出ていた。
顔色はまだ悪い。
先ほど受けた侵食による苦痛も完全には抜けておらず、身体の奥には黒い感覚が残っている。それでも、ルシエルは逃げなかった。
震える脚へ力を込め、ゆっくりと身体を起こす。
「ルシエル、無理をするな!」
アルが声を上げる。
けれど、ルシエルは静かに首を横へ振った。
「……また逃げたら」
少年は自分の手を見つめる。
その指先が、かすかに震えていた。
「本当に、大事なものまで忘れる気がするんだ」
その声には、恐怖があった。
過去を思い出すことへの恐怖。
また誰かを失うことへの恐怖。
そして、自分の弱さを思い知らされることへの恐怖。
それでも――。
ルシエルは拳を強く握り締めた。
「僕は……もう、逃げたくない」
その瞳には、先ほどまでとは違う光が宿っていた。
失いたくない。
今度こそ、自分の手で守りたい。
たとえ怖くても。
たとえ過去がどれほど痛くても。
その想いだけは、もう手放したくなかった。
風が吹き抜ける。
その言葉を聞いたイグニアが、ゆっくりとルシエルへ顔を向けた。
けれど、ルシエルはその視線に気づかない。
ただ、目の前へ迫る巨大な黒波を見据えていた。
やがて、ルシエルは静かに手を伸ばす。
「……力を貸して」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「僕一人じゃ、たぶん無理だ。でも……君となら」
伸ばした手が、夜の空気の中でかすかに震えている。
それは命令ではなかった。
強制でもない。
ただ、長い間忘れていた大切な相手へ向けた、初めての願いだった。
イグニアは、その手を見つめる。
無表情のまま、しばらく動かなかった。
けれど――。
その瞳の奥で、ほんの小さな光が揺れた。
やがて、小さな指がゆっくりと動く。
一度だけ宙で止まり、それから迷いを振り払うようにルシエルの手へ近づいていった。
そして――。
小さな手が、そっと重なった。
その瞬間。
ゴォォォッ――!!
紅蓮の炎が二人を包み込み、夜空へ向かって一気に噴き上がった。
「……!」
リナは思わず息を呑んだ。
炎は荒々しく燃え上がりながらも、不思議なほど優しかった。
それは何かを焼き尽くすためだけの炎ではない。
二人を包み、守り、失われたものを取り戻そうとするように燃えている。
炎の中心で、ルシエルが目を見開いた。
自分の中にあった黒い炎とは、まるで違う。
そこに憎しみはない。
怒りもない。
ただ、もう一度誰かを守りたいという純粋な想いが、炎となって溢れていた。
「……これが……」
ルシエルが呟く。
「僕の……力……?」
その言葉に答えるように、炎が大きく揺らめいた。
そして――。
迫り来る黒い波へ、紅蓮の炎が正面からぶつかった。
ジュァァァァッ!!
凄まじい音とともに黒い水が蒸気へ変わっていく。
しかし、それだけではなかった。
炎に触れた黒い水の奥から、濁った光が一つ、また一つと浮かび上がる。
誰かの笑顔。
誰かの手。
遠い日の風景。
失われた時間。
黒い侵食に閉じ込められていた記憶たちだった。
炎は、それらを焼き尽くさない。
むしろ黒い侵食だけを取り除き、記憶そのものを包み込むようにして、静かに浄化していく。
「……!」
エリオスが目を見開いた。
「浄化……している……?」
その声には驚きと希望が入り混じっていた。
フェルも何も言わず、紅蓮の炎を見つめている。
やがて、守護神獣の身体を覆っていた黒い水が、大きく揺らいだ。
『グ……ァ……』
苦しげな声が漏れる。
けれど、その声に先ほどまでの狂気はなかった。
黒い水が、少しずつ薄れていく。
そして――。
その奥から、ほんの一瞬だけ。
蒼い瞳が覗いた。
「……!」
リナの胸が強く脈打った。
「見えた……!」
その声に、エリオスも守護神獣を見つめる。
そして、確信を込めて叫んだ。
「今です! 守護神獣様は、まだ消えていません!」
その言葉が湖畔へ響き渡る。
黒い侵食の奥に、本来の守護神獣の心が残っている。
まだ完全には奪われていない。
まだ、救うことができる。
リナは拳を握り締めた。
胸の奥に、確かな希望が灯る。
(助けられる……)
先ほどまで感じていた絶望が、ほんの僅かに薄れていく。
(まだ、届く……!)
けれど――。
その瞬間だった。
湖の奥底から、何かが這い上がってきた。
ゾワリ――。
肌を撫でるような、異質な気配。
リナの背筋に、冷たいものが走った。
先ほどまでの守護神獣とは、明らかに違う。
悲しみではない。
苦しみでもない。
救いを求める痛みでもない。
そこにあるのは、すべてを忘れさせ、すべてを奪い、最後には心そのものを空白へ変えてしまうような、底のない悪意だった。
フェルの表情が変わる。
金色の瞳が、湖の中央へ鋭く向けられた。
『……下がれ!!』
その声が響いた直後――。
湖面の中央が、ゆっくりと割れた。
ザァァァ……。
黒い水が左右へ押し分けられていく。
その向こうから、何かが浮かび上がってきた。
最初に見えたのは――白い足だった。
黒い水に濡れながら、ゆっくりと湖面へ姿を現す。
続いて、長い髪が水面から浮かび上がった。
蒼い髪。
水の中を漂うその髪は、深海の闇に揺れる水草のように静かだった。
細い指が水面を撫でる。
その指先が触れた場所から、黒い水がゆっくりと波紋を広げていく。
そして――。
女が、ゆっくりと顔を上げた。
深海を思わせるほど深い瞳。
整った顔立ち。
濡れた蒼い髪が頬へ張りつき、その姿はどこか幻想的で、息を呑むほど美しかった。
それなのに――。
リナは、直感的に恐怖を覚えた。
美しいからこそ、不気味だった。
そこには生きている者が持つはずの温度が感じられない。
彼女の周囲だけ、世界から切り離されたかのように静まり返っている。
先ほどまで荒れ狂っていた湖さえ、彼女が姿を現した途端、まるでその存在を恐れるように動きを鈍らせていた。
リナは息をすることさえ忘れた。
「……誰……?」
ようやく零れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
エリオスの身体が強張る。
セレフィーナも険しく目を細め、すぐさま戦闘態勢へ入った。
レオンは無言のままリナたちの前へ立ち、剣を構える。
けれど――。
フェルだけは、明らかに様子が違った。
その女を見た瞬間、全身の毛を逆立てる。
金色の瞳には、これまで見せたことのないほど明確な警戒と敵意が浮かんでいた。
『……忘却の魔女』
低い声が湖畔へ落ちる。
その名を聞いた瞬間、リナの胸がざわめいた。
女は答えなかった。
ただ、ゆっくりと顔を上げる。
そして――。
リナたちを見つめた。
その視線が触れた瞬間だった。
胸の奥から、何かが抜け落ちたような感覚がした。
「……え……?」
何かを忘れた。
そう思った。
けれど、何を忘れたのかが分からない。
大切なものだった気がする。
誰かの名前だったような気もする。
それなのに、その記憶へ手を伸ばそうとした瞬間、指先から霧のように消えてしまう。
「……なに……これ……」
リナは思わず頭を押さえた。
自分の記憶が、自分のものではなくなっていくような恐怖が胸を満たす。
女の口元が、ほんの僅かに持ち上がった。
微笑みだった。
けれど、その笑みには温度がない。
「――見つけた」
静かな声だった。
それだけなのに、心の奥へ冷たい指を差し込まれたような感覚が走る。
リナの身体が僅かに震えた。
その声を聞いているだけで、自分の中にある何かが少しずつ薄れていく。
「……っ」
レオンが一歩前へ出た。
「リナから離れろ」
低く、鋭い声だった。
けれど女はレオンを見ようともしない。
その瞳は、ただリナを見つめ続けている。
フェルが低く唸った。
『リヴィエラ……』
女の口元が、さらにゆっくりと持ち上がる。
そして、まるでその名を懐かしむように目を細めた。
『……リヴィエラ』
その名が告げられた瞬間――。
世界から、音が消えた。
風の音も。
湖の音も。
神殿の壁を打つ水音も。
紅蓮の炎が燃える音さえも。
すべてが遠ざかっていく。
静寂の中で、ただ彼女の深い瞳だけが、リナたちを静かに見つめていた。
その瞳の奥には、千年もの間、誰にも語られることのなかった忘却が渦巻いている。
守護神獣が失った記憶。
イグニアから奪われた過去。
ルシエルが閉ざしていた痛み。
そして、この水の神殿アクア・レヴァリエそのものに沈められた、数え切れないほどの想い。
それらすべてを呑み込んだまま――。
忘却の魔女リヴィエラは、静かに微笑んでいた。
第69話 終わり
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