第68話 沈められた記憶
水神殿アクア・レヴァリエーー。
ーー神殿前の湖。
『――カエセ』
守護神獣の咆哮が、湖を震わせた。
ゴォォォォォ……。
空気が揺れる。
否――。
揺れているのは、“心”だった。
リナは、とっさに胸を押さえる。
鼓動が速い。
冷たい水が、胸の奥へ流れ込んでくるような感覚。
「……っ……!」
息が、苦しい。
立っているだけなのに、沈んでいく。
湖の中央で、異形と化した守護神獣が、ゆっくりと身を起こした。
巨大だった。
山のような体躯。
本来は蒼く透き通っていたはずの鱗は、黒い水に侵され、濁っている。
その瞳に宿るのは、怒りではない。
――悲しみだ。
終わらない苦痛。
忘れたくないのに、消えていく恐怖。
「……苦しんでる……」
リナの口から、自然に言葉が漏れた。
その瞬間、守護神獣の瞳がリナを捉える。
ドクン――。
心臓が、大きく脈打った。
次の瞬間、世界が反転する。
⸻
暗い。
冷たい。
水の中だった。
「……え……?」
リナは、水の底へ沈んでいた。
息ができない。
手足が重い。
上も下も分からない。
ただ、沈む。
静かなのに、怖い。
すると――。
遠くで、誰かが泣いていた。
『いや……』
幼い声。
震えている。
『忘れたくない……』
リナは、はっと顔を上げる。
黒い水の向こうに、小さな少女がいた。
蒼銀の髪。
透き通る瞳。
先ほどの守護精霊だった。
だが今は幼く、子どもの姿をしている。
『みんな、消えていく……』
少女は、小さな身体を抱きしめる。
『名前も……声も……』
『思い出せない……』
黒い水が、ゆっくりとその身体を侵していく。
少女は、泣きながら手を伸ばした。
『助けて……』
リナも、とっさに手を伸ばす。
届きそうだった。
その瞬間――。
「リナ!」
誰かの叫びで、視界が砕けた。
⸻
「――っ!!」
現実へ引き戻される。
リナは、大きく息を吸った。
肩を掴んでいたのは、レオンだった。
「しっかりしろ」
低い声。
だが、その手には強い力がこもっている。
「……今……」
リナは息を乱しながら、湖を見る。
守護神獣は、まだこちらを見下ろしていた。
けれど、分かってしまった。
「……助けを求めてる」
エリオスが目を見開く。
「え……?」
「この神殿……壊したいんじゃない……!」
リナの声が震える。
「苦しくて……誰かに助けてほしいんだ……!」
沈黙が落ちる。
フェルが静かに目を細めた。
『気づいたか』
金色の瞳が、黒く濁った湖を見据える。
『本来、水とは流すもの』
『痛みも、記憶も、感情も』
『留めず、循環させる』
低く、重い声。
『だが今のアクア・レヴァリエは違う』
『忘却の魔女リヴィエラによって、“流れ”を歪められている』
湖面が、どろりと揺れる。
『流せぬ悲しみは澱となる』
『積もり続けた感情は、やがて心を壊す』
リナの胸が痛む。
だから、神殿は泣いている。
忘れたいわけじゃない。
忘れたくないのに、消えていく。
その恐怖に、壊れかけている。
その時だった。
「……ぁ……」
ルシエルが、小さく呻く。
黒い水が、再び彼の足元へまとわりついていた。
『お前が弱かった』
『守れなかった』
『全部、お前のせいだ』
「……やめろ……」
ルシエルの呼吸が乱れる。
その瞳に映るのは――燃える里。
赤い空。
崩れる竜族の村。
血。
悲鳴。
そして。
小さな少女。
『お兄ちゃん……!』
「――っ!!」
頭の奥で、何かが弾けた。
「ルシエル!」
リナが叫ぶ。
だが、止まらない。
記憶が、無理やり開かれていく。
『逃げろ!!』
『イグニアを連れて行け!!』
誰かの叫び。
炎。
絶望。
ルシエルの身体から、赤黒い炎が噴き上がった。
轟ッ!!
熱風が吹き荒れる。
地面が砕ける。
「まずい!」
アルが叫ぶ。
「侵食が深すぎる!」
エリオスの顔も青ざめていた。
このままでは、完全に飲まれる。
その時――。
す、と。
イグニアが前へ出た。
無表情のまま。
静かに。
ゆっくりと。
暴走しかけたルシエルの前へ立つ。
「イグニア!」
リナが呼ぶ。
だが、彼女は止まらない。
そして――。
そっと。
ルシエルの頬へ触れた。
瞬間。
ぼぅっ――。
白金色の炎が灯る。
優しい光。
暖かい熱。
侵食の黒を、静かに焼いていく。
「……ぁ……」
ルシエルの瞳が、大きく揺れた。
その炎を見た瞬間――。
脳裏に、光景が走る。
夕暮れ。
幼い少女。
笑いながら、自分の後ろを追いかけてくる。
『お兄ちゃん!』
小さな手。
無邪気な声。
暖かな日々。
「……イグ……ニア……」
ぽたり、と。
涙が落ちた。
ルシエル自身も気づかないまま。
するとーー。
ぴくり、と。
イグニアの瞳が、ほんの僅かに揺れる。
まるで、凍りついた心の奥で、消えかけた灯火が呼応したように。
だが、その瞬間――。
ドォォォォンッ!!
湖が、爆発するように揺れた。
守護神獣が咆哮する。
黒い水が、空を覆った。
『カエセ』
『ワタシタチノ、キオクヲ』
悲鳴のような叫び。
怒りではない。
奪われた者たちの、絶望。
リナは、その声を聞いた瞬間。
胸の奥が、強く締めつけられた。
これは敵じゃない。
ずっと苦しみながら、助けを求めている。
「……必ず助ける」
小さく、呟く。
その瞳が、まっすぐ神殿を見据える。
「絶対に」
風が止む。
水が揺れる。
そして――。
水神殿アクア・レヴァリエ最奥。
深い水の底でーー。
“忘却の魔女”リヴィエラが、静かに微笑んだ。
第68話 終わり
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