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白猫フェルと森の薬師 〜精霊に愛された少女は世界を癒す〜  作者: もふ森こはく


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第67話 聖なる炎

水の神殿アクア・レヴァリエ――。


神殿前の湖は、先ほどまで月明かりを静かに映していたとは思えないほど、激しく揺れ始めていた。


風はない。それなのに、湖面だけが荒れている。


黒く濁った水が幾重にも波打ち、月の光を歪ませながら、まるで湖そのものが何かに苦しんでいるかのように蠢いていた。


その中央には、水の守護精霊が立っている。


黒い侵食はすでに全身へ広がり、蒼銀だった髪の一部までもが闇に染まっていた。かつて清らかな水の力を宿していた瞳にも、今は深い闇が渦巻いている。


それでも、その奥にはまだ微かな光が残っていた。


助けを求めるような、悲しげな光。


けれど、その光すらも黒い水に飲み込まれようとしていた。


次の瞬間――。


ドォォォォォン――ッ!!


轟音が夜の静寂を打ち砕いた。


湖面が大きく盛り上がり、巨大な水柱が幾重にも枝分かれしながら空へ突き上がる。


その姿は、無数の牙を持つ巨大な獣が口を開いたかのようだった。


月明かりさえ呑み込みながら、水柱は一気に一行へ迫ってくる。


「来るぞ!!」


レオンの鋭い声が響いた。


その声に反応するより早く、セレフィーナが一歩前へ踏み出す。


水圧を孕んだ風が長い髪を激しく揺らした。それでも彼女は退かない。


両手を胸元へ構え、指先へ白銀の魔力を集中させる。


「白銀結界術――展開!」


その声と同時に、セレフィーナの周囲を白銀の光が走った。


一つ、また一つと魔法陣が空中へ浮かび上がり、それぞれが複雑に重なり合って巨大な結界を形作っていく。


透明な壁のような白銀の光が一行の前へ立ちはだかり、迫り来る濁流を真正面から受け止めた。


直後――。


ズドォォォンッ!!


巨大な水塊が結界へ激突した。


凄まじい衝撃が湖畔を揺らし、足元の石畳が軋む。砕けた水飛沫が雨のように降り注ぎ、白銀の結界が大きく撓んだ。


「……っ!」


セレフィーナが歯を食いしばる。


両腕へ力を込め、さらに魔力を注ぎ込む。しかし、濁流は止まらない。


むしろ、押し返そうとする白銀の結界へ、黒い何かがゆっくりと染み込んでいた。


バキィッ!!


乾いた音が響く。


結界の表面へ、一本の亀裂が走った。


「……!」


リナが息を呑む。


亀裂は一つでは終わらなかった。ピシッ、ピシピシッと不穏な音を立てながら、白銀の光へ無数の亀裂が広がっていく。


まるで薄い氷を巨大な力で押し潰しているようだった。


セレフィーナの表情が険しくなる。


「……押し返せない……!」


水圧だけなら、これほどの結界を削ることはできない。


濁流が結界へ触れるたび、その表面から黒い靄が染み込み、白銀の魔力を内側から蝕んでいる。


これは、水による物理的な攻撃ではない。


触れたものの心そのものへ入り込み、精神を侵食しているのだ。


「セレフィーナ様!」


リナが叫ぶ。


「分かっています!」


セレフィーナは前方から視線を逸らさずに答えた。


「この水……魔力そのものではありません。精神へ直接干渉しています!」


その言葉を聞いた瞬間、リナの背筋を冷たいものが走った。


そして――。


視界が、不意に歪んだ。


「……え?」


目の前にあったはずの白銀の結界が、突然遠ざかっていく。


代わりに、知らない光景が押し寄せてきた。


泣いている子ども。


崩れ落ちた神殿。


暗い水の底へ沈んでいく誰か。


必死に伸ばされる小さな手。


その指先が、水面へ届くことなくゆっくりと沈んでいく。


『助けて』


『寒い』


『痛い』


「……っ!」


リナは思わず頭を押さえた。


胸の奥へ、知らない悲しみが流れ込んでくる。


知らない記憶。


知らない人。


自分とは関係のないはずの痛み。


それなのに、それが偽物だとはどうしても思えなかった。


まるで誰かが感じた恐怖や絶望そのものが、水となって自分の心へ流れ込んでくるようだった。


息が苦しい。


胸が締めつけられる。


身体そのものが深い水底へ沈んでいくような感覚に、リナの意識が遠のきかける。


「リナ!」


その声が聞こえた。


次の瞬間、強く腕を掴まれる。


「飲まれるな!」


レオンだった。


その力強い声と腕の感触が、深い水の底へ沈みかけていたリナの意識を現実へ引き戻す。


「……っ、う……!」


リナは荒く息を吐いた。


目の前には、険しい表情で自分を見つめるレオンがいる。


「大丈夫か?」


「……う、うん……」


答えながらも、リナは胸元を押さえた。


まだ聞こえている。


遠くで泣いている声。


助けを求める声。


そして、それとは別に、自分自身の中へ入り込もうとしている冷たい何かが、確かに存在している。


「……この水……」


リナは震える声で呟いた。


「触れるだけで……心の中に入ってくる……」


レオンは濁流を睨みつけながら、低く答えた。


「ああ。だから、絶対に触れるな」


その言葉とは裏腹に、濁流は一向に勢いを弱めない。


セレフィーナの結界は軋み続け、白銀の光は少しずつ押し込まれている。


その向こうで、水の守護精霊が静かにこちらを見つめていた。


先ほどまで残っていた悲しみさえ、今は見えない。


ただ、すべてを忘れさせることを慈悲とでも考えているかのような、静かな笑みだけが浮かんでいる。


『ワスレテ……』


声が水面から響いた。


『ラクニ、ナレル……』


その囁きが届いた瞬間――。


ルシエルの身体が、びくりと震えた。


「……ぁ……」


少年の瞳から、一瞬だけ光が消える。


「ルシエル?」


リナが振り向く。


しかし、ルシエルは答えなかった。


彼の視界には、すでに別の光景が広がっていた。


赤い炎。


燃え上がる家々。


黒煙に覆われた空。


崩れ落ちる村。


逃げ惑う人々。


泣き叫ぶ声。


そして――。


『逃げて!!』


『ルシエル!!』


「……っ」


顔が苦痛に歪む。


頭の奥で、何かが砕けるような感覚がした。


「やめろ……」


震える声が漏れる。


けれど、記憶は止まらない。


忘れていたはずの光景が、濁流のように押し寄せてくる。


「やめろ……!」


ルシエルは両手で頭を抱えた。


思い出したくない。


けれど、本当は忘れたくなかった。


そこに何があったのか。


誰を失ったのか。


自分が何をできなかったのか。


その答えへ手を伸ばそうとするたび、黒い水がさらに深く心へ入り込んでくる。


そして次の瞬間――。


黒い水が、ルシエルの足元へ触れた。


「ルシエル!」


リナが手を伸ばす。


しかし、その手が届くより早く、黒い水は蛇のように少年の脚へ絡みついた。


「……っ!」


ルシエルが息を呑む。


黒い水はゆっくりと身体を這い上がっていく。


足元から膝へ。


膝から腰へ。


まるで少年の中にある最も深い傷を探し当て、その場所へ向かっているかのように、侵食は迷いなく進んでいった。


やがて、ルシエルの瞳が濁る。


「……どうして……」


掠れた声が零れた。


「どうして……助けられなかった……」


その言葉を聞いた瞬間、リナの胸が締めつけられた。


空気が変わった。


アルも、エリオスも、レオンも、その異変を感じ取っている。


これは単なる記憶への干渉ではない。


侵食は、ルシエルの心の最も深い場所へ触れている。


罪悪感。


後悔。


自分だけが生き残ったことへの痛み。


そして――守れなかったという思い。


そこへ、声が響いた。


『お前が弱かったからだ』


ルシエルの身体が震える。


それは、他人の声ではなかった。


自分自身の声だった。


『守れなかった』


『何もできなかった』


『全部、お前のせいだ』


「……違う……」


ルシエルが震えながら首を振る。


「違う……!」


それでも、その声は止まらない。


『お前がもっと強ければ』


『お前が守れていれば』


『誰も死ななかった』


「違う!!」


リナが叫んだ。


「違うよ!! ルシエル!」


必死に声を届ける。


けれど、黒い水は止まらない。


むしろ、少年の苦しみに呼応するように黒い魔力が膨れ上がり、周囲の空気そのものが熱を帯びていく。


バチッ――。


赤黒い火花が弾けた。


アルが舌打ちする。


「まずいぞ……!」


エリオスも顔を青ざめさせた。


「魔力が急激に膨れています……! このままでは、また竜となり暴走します!」


その言葉の通りだった。


ルシエルの足元から黒い炎が噴き上がる。


ゴォォッ!!


「ぁ……あぁぁぁ……!!」


苦痛に満ちた叫びが、湖畔一帯へ響き渡った。


黒炎が少年の身体を包み込み、熱気が周囲へ広がっていく。


その炎の中には、怒りや恐怖だけではなく、長い間押し込められていた悲しみまでが渦巻いているようだった。


水の守護精霊は、その光景を嬉しそうに見つめている。


『モット……』


『コワレテ……』


その声に呼応するように、湖面が大きく波打った。


まるでルシエルの苦しみそのものを、水の底にいる何かが喜んでいるかのようだった。


「ルシエル!」


リナが駆け出そうとする。


その時だった。


コツ――。


小さな足音が響いた。


激しく揺れる湖畔には不釣り合いなほど、静かな音だった。


全員の視線が、一斉にそちらへ向く。


そこに立っていたのは、イグニアだった。


少女は何も言わない。


感情のない瞳で、黒炎に包まれたルシエルを見つめている。


「イグニア……?」


リナの声が震える。


危険だ。


あの黒炎へ近づけば、イグニア自身まで侵食されるかもしれない。


「待って!」


リナが叫ぶ。


しかし、イグニアは止まらなかった。


一歩。


また一歩。


少女は何の躊躇も見せず、黒炎の中へ向かって歩いていく。


その小さな身体には、恐怖も迷いもない。


ただ、何かに導かれるように。


やがてイグニアは、苦しみ続けるルシエルの目の前で立ち止まった。


「……ぁ……」


ルシエルの瞳が揺れる。


濁った視界の中に、少女の姿が映った。


イグニアは何も言わない。


ただ、光を失った瞳で、じっとルシエルを見つめている。


そして――。


細い手を伸ばし、そっとルシエルの胸へ触れた。


その瞬間だった。


ぼぅ……。


小さな光が生まれた。


炎だった。


けれど、それはルシエルを包んでいる黒炎とはまるで違う。


淡く、柔らかな橙色。


荒々しさも、焼き尽くすような熱もない。


そこにあるだけで、不思議な温もりを感じさせる炎だった。


まるで、長い暗闇の中で消えずに残っていた小さな命の灯火のように。


黒炎がその光へ触れた瞬間――。


ぐらり、と揺らいだ。


「……え……?」


リナが目を見開く。


黒炎の勢いが、明らかに弱まっていた。


淡い炎はルシエルの胸元から静かに広がり、黒い侵食だけを選ぶように包み込んでいく。


黒い靄が炎へ触れるたび、じゅっ、と音を立てて消えていく。


それは破壊ではなかった。


怒りによって闇を焼き払うのでもない。


まるで、光そのものが黒い侵食を受け止め、その存在だけを静かに浄化しているようだった。


フェルの金色の瞳が細くなる。


『……聖炎……』


その声には、隠しきれない驚きが混じっていた。


「聖炎……?」


リナが呟く。


けれど、フェルはすぐには答えなかった。


ただ、イグニアをじっと見つめている。


少女の桃色の髪が炎の光を受けて淡く輝き、その身体から溢れた炎がゆっくりとルシエルを包み込んでいく。


「……ぁ……」


ルシエルの荒い呼吸が、少しずつ落ち着いていく。


黒く濁っていた瞳にも、わずかな光が戻ってきた。


「……イグ……ニア……?」


掠れた声で、その名前を呼ぶ。


その瞬間――。


イグニアの指先が、ぴくりと動いた。


本当に僅かな反応だった。


けれど、確かに動いた。


リナは息を呑んだ。


その瞬間、エレノアから聞いた言葉が脳裏へ蘇る。


――あの子の心は、水の神殿の中にある。


リナはイグニアを見つめた。


(違う……)


胸の奥から、確かな感覚が込み上げてくる。


(まだ消えてない)


指先で揺れる小さな炎を見つめながら、リナは強く思った。


(この子は、ちゃんとここにいる……!)


イグニアの心は消えてしまったわけではない。


何もかも失ったわけでもない。


ただ、深い水の底へ沈められ、外から見えなくされているだけなのだ。


そう思った、その瞬間――。


ズズズズズ……。


地面が低く震えた。


「……?」


リナが顔を上げる。


先ほどまでとは、明らかに空気が違っていた。


重い。


冷たい。


そして――深い。


まるで湖の底に眠っていた巨大な何かが、長い眠りからゆっくりと目を覚まそうとしているようだった。


フェルが低く唸る。


全身の毛が逆立った。


『……来るぞ』


その声には、これまでにない警戒が滲んでいた。


湖面の中央。


水の神殿の奥深くから、巨大な影がゆっくりと浮かび上がってくる。


最初に見えたのは、赤黒く濁った二つの瞳だった。


その瞳が水面の向こうで、ゆっくりと開かれる。


次いで、水そのものを押し退けるようにして、巨大な身体が姿を現した。


山のような巨体。


その身体には大量の水がまとわりつき、湖そのものがその存在を形作っているかのようだった。


エリオスの顔から、すっと血の気が引いた。


「……守護神獣様……」


その声には、驚きだけではなく、深い悲しみが滲んでいた。


かつて、この水の神殿を守っていた存在。


人々の祈りを受け、水の力を司り、この地を見守っていた神聖な守護者。


本来なら、その姿には清らかな力が満ちているはずだった。


しかし――。


今、その全身を覆っているのは黒い水だった。


身体の表面へ絡みつく黒い侵食が、まるで生き物のように蠢いている。


ところどころから濁った水が滴り落ち、その一滴が湖面へ落ちるたび、周囲の水まで黒く染まっていく。


そこから溢れ出しているのは、ただの魔力ではない。


憎悪。


悲しみ。


怒り。


そして、長い時間をかけて積み重ねられた絶望。


それらすべてが混ざり合い、巨大な守護神獣そのものを黒く染め上げていた。


レオンが剣を構え直す。


「……あれが、この神殿の守護者か」


フェルが低く答えた。


『そうだ』


金色の瞳が鋭く細められる。


『だが……あれは、もはや本来の守護神獣ではない』


その言葉に、リナは息を呑んだ。


本来の姿ではない。


ならば、あの存在をここまで変えてしまったものは何なのか。


水の守護神獣は、ゆっくりと顔を上げた。


そして、その赤黒く濁った瞳が一行を捉える。


リナは思わず息を止めた。


圧倒的だった。


ただそこに存在しているだけで、空気そのものが押し潰されるような感覚がある。


胸が苦しい。


身体が震える。


それでも、リナは目を逸らさなかった。


守護神獣が、ゆっくりと口を開く。


そして――。


『――カエセ』


低く、重い声が響いた。


その一言だけで、世界そのものが震えたように感じられた。


湖面へ巨大な波紋が広がり、水の神殿の壁面から無数の水滴が一斉に落ちていく。


リナの胸が、強く脈打った。


「……返せ……?」


誰に向けた言葉なのか。


何を返せと言っているのか。


まだ、その意味は分からない。


けれど――。


その声に込められた感情だけは、はっきりと伝わってきた。


怒りだけではない。


憎しみだけでもない。


そこには、何かを奪われた者が、長い年月を越えてなお、それを求め続けているような深い喪失があった。


リナの視線が、ゆっくりとイグニアへ向く。


少女は巨大な守護神獣を見上げていた。


相変わらず、その表情に感情はない。


けれど、その指先には、まだ小さな聖炎が灯っている。


その炎は、風もないのに微かに揺れていた。


まるで――。


遠い昔に失われた何かを、必死に思い出そうとしているかのように。


その姿を見つめながら、リナは確信した。


水の神殿アクア・レヴァリエの奥に存在するのは、ただ侵食された守護神獣だけではない。


イグニアが失った記憶。


ルシエルの過去。


村人たちから奪われた感情。


そして、この神殿と守護神獣が長い年月をかけて抱え続けてきた何か。


それらすべてが、ここへ繋がっている。


「……この神殿で、一体何があったの……?」


誰に問いかけるでもなく、リナは呟いた。


答える者はいない。


ただ、水の守護神獣がゆっくりと一歩、水面を踏みしめた。


ドォン……。


巨大な足が触れただけで、湖全体が大きく揺れる。


その足元から黒い水が広がり、まるで神殿そのものを覆い尽くそうとするように波紋を広げていった。


守護神獣の赤黒い瞳が、再びリナたちを捉える。


そして――。


『――カエセ』


二度目の声が響いた。


今度は、その声に明確な怒りが混じっていた。


リナは無意識に拳を握り込む。


聖炎の灯ったイグニア。


侵食されたルシエル。


黒く染まった守護精霊。


そして、目の前に現れた守護神獣。


すべてが、何か一つの大きな過去へ繋がっている。


水の神殿アクア・レヴァリエ――。


その最奥で、長い間、黒い水の底へ沈められていた「何か」が、今まさに目を覚まそうとしていた。


第67話 終わり

ここまで読んでいただきありがとうございます!


少しでも続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


次回もぜひ読んでいただけたら嬉しいです!

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