第67話 牙を剥く忘却
水神殿アクア・レヴァリエーー。
神殿前の湖ーー。
ドォォォォォン――ッ!!
轟音と共に、水柱が牙のように襲いかかった。
「来るぞ!!」
レオンの声が響く。
次の瞬間。
セレフィーナが一歩前へ出た。
「白銀結界術、展開――!」
白銀の魔力が走る。
複数の光陣が空中へ展開され、水の濁流を受け止めた。
だが――。
バキィッ!!
「っ……!」
光が軋む。
押し返せない。
ただの水ではない。
触れた場所から、“心”を侵食してくる。
リナの脳裏へ、突然映像が流れ込んだ。
泣いている子ども。
崩れた神殿。
沈んでいく誰か。
『助けて』
『寒い』
『痛い』
「……っ!」
頭が割れそうになる。
「リナ!」
レオンが腕を掴む。
その声で、意識が戻った。
「飲まれるな!」
「……う、うん……!」
だが、水は止まらない。
黒く染まった湖面の中央で、守護精霊が苦しそうに笑っていた。
『ワスレテ』
『ラクニ、ナレル』
その声が響いた瞬間、ルシエルの身体が、びくりと震える。
「……ぁ……」
視界が揺れる。
赤い炎。
崩れる村。
泣き叫ぶ声。
『逃げて!!』
『ルシエル!!』
頭の奥で、何かが砕ける。
「やめろ……!」
ルシエルが叫ぶ。
その時だった。
黒い水が、まるで意思を持つように、ルシエルの足元から這い上がる。
「ルシエル!」
リナが手を伸ばす。
だが、ルシエルの瞳が濁った。
「……どうして」
小さく、呟く。
「どうして……助けられなかった……」
空気が変わる。
まずいーー。
誰もが察した。
侵食が、“核心”へ触れた。
『お前が弱かったからだ』
声が響く。
それは、ルシエル自身の声だった。
『守れなかった』
『全部、お前のせいだ』
「違う!!」
リナが叫ぶ。
「違うよ!!」
だが、水は止まらない。
黒い感情が、ルシエルを飲み込んでいく。
膨れ上がる魔力。
空気が熱を帯びた。
バチバチ、と赤黒い火花が散る。
アルが舌打ちする。
「まずいぞ……!」
エリオスも顔を青ざめさせる。
「暴走します……!」
ルシエルの足元から、黒炎が噴き上がった。
「ぁ……あぁぁ……!!」
苦しそうな叫び。
守護精霊が、それを喜ぶように揺れる。
『モット』
『コワレテ』
湖面が、大きく波打った。
その瞬間。
――コツ。
静かな足音。
全員の視線が動く。
イグニアだった。
感情のない瞳。
無表情のまま。
彼女は、暴走しかけたルシエルへ歩いていく。
「イグニア!?」
リナが息を呑む。
止めなければ危険だが、イグニアは止まらない。
ゆっくり、静かに。そして、苦しむルシエルの前で立ち止まった。
「……ぁ……」
ルシエルの瞳が揺れる。
イグニアは、ただ、その光のない瞳でルシエルを見つめる。
そして――。
そっと、ルシエルの胸へ手を当てた。
その瞬間ーー。
ぼぅ……。
小さな炎が灯る。
優しい炎。
暖かい、命の火。
黒炎が、一瞬だけ揺らいだ。
「……え……」
リナが目を見開く。
フェルの瞳が細まる。
『聖炎……』
その声には、驚きが混じっていた。
イグニアの髪が、ふわりと揺れる。
その身体から、淡い炎が広がっていく。
侵食を焼くように。
浄化するように。
「……ぁ……」
ルシエルの呼吸が戻り、黒く染まりかけた瞳に、わずかに光が戻った。
「……イグ……ニア……?」
その名を呼んだ瞬間、ほんの僅かに、
ぴくり、とイグニアの指先が動いた。
本当に僅かだったが、確かに反応した。
エレノアの言葉が、リナの脳裏をよぎる。
――あの子の心は、水神殿の中にある。
リナは、息を呑む。
(違う……)
(まだ消えてない)
(この子は、ちゃんとここにいる……!)
だが、その瞬間だった。
ズズズズズ……。
湖全体が、揺れた。
空気が変わる。
重く。
冷たく。
深い。
まるで巨大な“何か”が目を覚ますように。
フェルが低く唸る。
『来るぞ……』
湖面の奥、闇の底で、巨大な影がゆっくりと動いた。
赤黒く濁った瞳。
山のような巨体。
水を纏う、異形。
その姿を見た瞬間、エリオスの顔から血の気が引いた。
「……守護神獣様……」
だが、違う。
本来の神聖さは、どこにもない。
黒い水が全身を侵食し、憎悪のような感情だけが溢れている。
守護神獣は、一行を見下ろした。
そして――口を開く。
『――カエセ』
その声で、世界が震えた。
リナの胸が、強く脈打つ。
水神殿アクア・レヴァリエーー。
その最奥で。
ついに、“神”が牙を剥こうとしていた。
第67話 終わり
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