第66話 心が沈む音
リュミエル村――。
教会の扉が、静かに開いた。
外の空気は冷たい。だが、それは冬の寒さではない。
水の底へ沈められるような重さに、リナは、無意識に胸元を押さえた。
「……苦しい……」
息はできる。
歩くこともできる。
それなのに、何かを忘れていくような感覚で、心だけが沈んでいく。
フェルが低く唸る。
『侵食が濃くなっている』
教会を出た一行は、水神殿へ続く石畳を歩き始める。
遠くに見える巨大な水の神殿アクア・レヴァリエ。
だが、近づくほどそれは“建物”に見えなくなっていた。
まるで水が生きもののように揺れ、脈打っている。
「……見られてる」
エリオスが、小さく呟く。
誰も否定できなかった。
その時だった。
コツ……。
小さな足音した。
リナが振り返る。
そこには、イグニアが立っていた。
薄い桃色の長い髪。
光を失った瞳。
感情のない顔。
けれど、その足は確かにこちらへ向いている。
「……イグニア?」
ルシエルが息を呑む。
少女は答えないまま、ただ静かに一行の後ろへ並ぶ。
「……ついてくるの?」
リナが優しく問いかける。
返事はない。だが、その視線だけが、まっすぐ水神殿を見ていた。
まるで、呼ばれているように。
「危険だ」
レオンが短く言う。
すると後ろから、静かな声が届いた。
「……連れて行ってあげてください」
エレノアだった。
教会の前に立ち、こちらを見ている。
その瞳には、深い祈りと覚悟があった。
「この子は……あそこへ向かおうとします」
「毎日、ずっと」
風が吹き、イグニアの髪が揺れる。
それでも、その表情は変わらない。
「止めても、止まりません」
エレノアは静かに続けた。
「おそらく……あの子の心は」
「水の神殿の中にあるのです」
ルシエルの胸が強く痛む。だが思い出せない。
なぜ、そんなことになったのか。
「……足手まといには、ならないはずです」
エレノアはそう言った。
その言葉に、わずかな違和感が残る。
“ならないはず”。
まるで、イグニアの力を知っているような言い方だった。
セレフィーナが静かにイグニアを見る。
「……ただの少女ではありませんね」
エレノアは答えない。
ただ、目を伏せる。
その沈黙が、肯定だった。
リナはイグニアへ歩み寄る。
そっと、その手を見た。
細い指。けれど、かすかに熱い。
「……火?」
リナが小さく呟く。
その瞬間、イグニアの指先に、ほんの一瞬だけ小さな炎が灯った。
まるで、消えかけた命の火のように揺れる。
だが、次の瞬間には消えていた。
ルシエルが目を見開く。
「……今の……」
イグニアは反応しない。
ただ静かに、神殿を見ている。
フェルが低く呟く。
『完全には消えておらぬか……』
その声には、わずかな安堵が混じっていた。
そしてーー。
一行は、再び歩き出す。
イグニアもまた、無言で後ろをついてくる。
その姿は幽霊のように静かだった。
次第に、神殿が近づいてきた。
やがて、ふいにリナの耳へ声が届く。
(――助けて)
ぴたり、と足が止まる。
「……え?」
振り返るが、誰もいない。
だが、確かに聞こえた。
幼い声で、泣いている。
(ーー置いていかないで)
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「リナ?」
レオンの声で、はっとする。
「……今、誰か……」
言いかけて、止まる。
(違う。)
(これは外からじゃない。)
頭の中に直接流れ込んでくる。
『寒い』
『苦しい』
『痛い』
知らない感情と、知らない記憶なのに――全部、本物だ。
リナの瞳が揺れる。
「……これ……村の人たちの……?」
フェルが静かに答える。
『違う』
金色の瞳が、水神殿を見据える。
『神殿そのものだ』
空気が凍った。
「……神殿?」
エリオスが息を呑む。
『アクア・レヴァリエは巨大な精神領域だ』
『記憶も感情も、水として蓄積している』
『今、おそらく――』
フェルの声が低くなる。
『神殿そのものが侵食されている』
その瞬間ーー。
ぞわり、と空気が震えた。
すぐそばの湖面が、大きく揺れる。
水――泣いている。
リナには、そう感じた。
ルシエルは、無言だった。
ただ前を見ているが、その呼吸は浅い。
「……ルシエル?」
リナが呼ぶが、ルシエルの反応が遅れる。
「……あ……ごめん」
だが、様子がおかしい。
その視線は、どこか遠くを見ている。
「どうした」
レオンが問う。
ルシエルは迷うように口を開いた。
「……さっきから」
拳が、震えている。
「誰かの声がするんだ」
空気が静まる。
「“逃げろ”って」
ドクン――。
その瞬間。
ルシエルの視界が揺れた。
炎。
赤い空。
崩れる家。
誰かの悲鳴。
『ルシエル!!』
頭が割れそうになる。
「――っ!!」
膝をつく。
「ルシエル!」
リナが駆け寄る。
だが、その時ーー。
「……誰」
ルシエルが、怯えたように呟いた。
リナの動きが止まる。
「……え?」
知らないものを見るような目で、ルシエルの瞳が揺れている。
「……君、誰……?」
空気が凍りつく。
アルが顔をしかめた。
「おい……マジかよ」
侵食は、もう始まっていた。
記憶が削られている。
「ルシエル!」
リナが強く呼ぶ。
その声に、ルシエルの身体がびくりと震えた。
「……っ……あ……」
苦しそうに頭を押さえる。
「ちが……違う……」
呼吸が乱れる。
「分かる……分かるのに……!」
必死に、繋ぎ止めている。
その姿に、セレフィーナが静かに前へ出た。
「落ち着いてください」
凛とした声。
その瞬間、不思議と空気が整う。
「記憶を“疑わないで”」
セレフィーナは、まっすぐルシエルを見る。
「侵食は、“不安”から広がります」
「自分を見失わないでください」
ルシエルの呼吸が、少しずつ戻る。
だが――。
セレフィーナ自身の指先も、わずかに震えていた。
レオンだけが、それに気づく。
「……殿下」
低く呼ぶ。
セレフィーナは、すぐ微笑んだ。
「大丈夫です」
だが、次の瞬間ーー。
彼女はレオンを見て、ほんのわずかに違う名前を呼びかけた。
「……ルーク――」
空気が止まる。
セレフィーナ自身も、はっとした。
「……っ」
すぐに口を閉ざす。
レオンの目が細まる。
「誰です」
静かな問い。
だが、セレフィーナは答えない。
その横顔が、僅かに苦しそうに歪む。
侵食は、強い者から壊れない。
“大切なものがある者”から壊れていく。
「急ぎましょう」
セレフィーナは、震える指を隠し前を向いた。
そしてーー。
水の神殿リベル・ヴェント前に着く。
「これが……」
「水の神殿アクア・レヴァリエ……」
リナが小さく呟いた。
その時ーー。
神殿が浮かぶ湖から、水音が響く。
ちゃぷん――。
全員が視線を向けた。
湖面の中央、そこに、“誰か”が立っていた。
長い蒼銀の髪。
水のように透き通る瞳。
だが、その姿は輪郭が揺れている。
「……精霊……?」
エリオスが呟く。
その存在は、悲しそうにこちらを見ていた。
まるで、助けを求めるように。
だが次の瞬間、黒い水がその身体を侵食する。
「――ぁ……」
苦しそうに顔を歪める。
『……ニ……ゲ……テ……』
声が割れ、黒が広がる。
水面が、どろりと歪む。
フェルが低く唸った。
『水の守護精霊か……!』
その瞬間、精霊の瞳がゆっくりと黒く染まる。
そして――笑った。
ぞくり、と背筋が凍る。
『――ミンナ、ワスレテ』
ドォンッ!!
湖が爆発するように揺れた。
巨大な水柱が、一行へ襲いかかり、水が牙を剥く。
それはただの攻撃ではなかった。
記憶を砕き、感情を飲み込み、存在そのものを“流し去る”侵食。
轟音と共に迫る濁流を前に――
リナは、息を呑んだ。
水の神殿アクア・レヴァリエーー。
そこは、神を祀る場所ではない。
心を沈める、“忘却の底”だった。
そして今――。
静かだった侵食は、ついに牙を剥く。
第66話 終わり
ここまで読んでいただきありがとうございます!
少しでも続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。
次回もぜひ読んでいただけたら嬉しいです!




