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第65話 静かな侵食

リュミエル村ーー。


教会の中は、静かだった。


古い石造り。


磨かれた床。


祈りの名残だけが、かすかに残っている。


だが――


「……空気が、軽いのに……重い」


リナが小さく呟く。


ここにいる村人たちは生きているのに、感情が薄い。


そして、村人たちの表情が乏しく、


――“実感”がない。


ゆっくり流されているように。


エレノアが振り返る。


「感じますか」


穏やかな声。


だが、その奥に沈むものがある。


「この村は……水神殿の影響を受けています」


レオンが短く問う。


「どの程度だ」


「……徐々に」


エレノアは目を伏せる。


「記憶と感情が……流されていきます」


アルが低く吐き捨てる。


「気づかないまま、削られるってか……」


「はい」


否定はしない。


「自覚がないまま……空になります」


静寂が落ちる。


その時ーー。


静かに一歩前へ出たのは――セレフィーナだった。


「……精神侵食、ですか」


落ち着いた声音。


だが、その瞳は鋭い。


エレノアが頷く。


「ええ……王女殿下」


その呼び方に、空気がわずかに張る。


セレフィーナは静かに続ける。


「王都でも報告は受けていましたが……」


周囲を見渡す。


「想定以上ですね」


その一言に、現実の重みが増す。


リナが、セレフィーナを見る。


その横顔は――揺れていない。


「……怖くないんですか」


思わず、聞いていた。


セレフィーナは、わずかに微笑む。


「怖いですよ」


あっさりと、言う。


「ですが――それでも進まなければならない立場です」


その言葉に、重みがあった。


守る側の覚悟。


リナは、小さく頷いた。


教会の奥ーー。


祭壇の前で、エレノアが立ち止まる。


「……あの子のことを、お話しします」


ルシエルの肩が、わずかに揺れる。


「……イグニア……だよね」


その名を口にした瞬間、


エレノアの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。


だが――


「はい」


守るように、それ以上は語らない。


「……あの子は」


ゆっくりと語り始める。


「ある日を境に……変わりました」


「それまでは、普通の子でした」


やさしく。


穏やかに。


笑って、祈っていた。


――その“日”までは。


リナは、確信する。


この人は――全部を言っていない。


あえて、伏せている。


「……家族は?」


ルシエルの声。


エレノアの指が、わずかに震えた。


「……いません」


短く、答える。


それ以上は踏み込ませない。


ルシエルは、それ以上聞けなかった。


なぜか――怖い。


思い出しそうで、胸の奥がざわつく。


思い出したくなくて。


セレフィーナが静かに口を開く。


「……神殿との関係は?」


核心を突く問い。


エレノアは、一瞬だけ沈黙した。


そして――


「……分かりません」


そう答える。


だが、その瞳は違う。


“知っている”。


レオンもそれを見逃さない。


だが、追及はしない。


今は――まだ。


その時。


ぽたり、と。


水が落ちた。


全員の視線が向く。


天井は乾いている。


なのに、水滴だけが落ちる。


ぽたり。


ぽたり。


規則正しく。


エリオスの声がかすれる。


「……これ……」


フェルが低く告げる。


『来るぞ』


――ドクン。


心臓の音が、やけに大きく響く。


リナの視界が揺れる。


「……あれ……?」


教会のはずなのに、水の音がする。


遠くで、誰かが泣いている。


「……助けて……」


確かに聞こえた。


振り向くが、誰もいない。


それでも――“いる”。


記憶の中に。


ルシエルも、息を呑む。


赤い光。


炎。


叫び。


誰かの手。


「……やめろ……」


無意識に、呟く。


だが何も思い出せない。


それが、怖い。


アルが舌打ちする。


「幻覚じゃない……中に入ってきてる」


レオンが低く言う。


「精神に直接干渉しているな」


セレフィーナが、静かに目を閉じる。


そして――


「……乱されないでください」


一歩、前へ。


その声が、すっと通る。


「これは“あなたの心”を利用しています」


「否定するのではなく――流されないこと」


目を開く。


その瞳は、強い。


「王都騎士は、それを叩き込まれています」


アルが苦笑する。


「スパルタだな」


「ええ」


少しだけ微笑む。


だがその実――


彼女自身も侵食を受けている。


指先が、わずかに震えていた。


それでも――立っている。


エレノアが静かに告げる。


「……始まりました」


「ここにいるだけで」


「記憶と心は、流されていきます」


リナは、拳を握る。


胸の奥のざわつき。


これは、恐怖じゃない。


“助けたい”という感情が、はっきり残っている。


「……行こう」


顔を上げる。


まっすぐに。


「水神殿に」


エリオスが頷く。


「はい」


レオンも短く。


「ああ」


アルが笑う。


「最初からそのつもりだろ」


ルシエルも、顔を上げる。


まだ揺れている。


でも――


「……僕も行く」


その目は、逃げていない。


セレフィーナが、静かに頷く。


「私も同行します」


「ここで引く理由はありません」


その一言に、全員の意思が揃う。


エレノアは、ゆっくりと目を伏せた。


「……止めはしません」


そして、顔を上げる。


「ですが――」


その瞳には、祈りがあった。


「戻れなくなるかもしれません」


教会の外。


風はない。


水の気配だけが、満ちている。


遠くに揺れる、水神殿アクア・レヴァリエ。


まるで――“こちらを見ている”。


リナは、一歩踏み出す。


「……助ける」


小さく、でも、確かに。


水は、すでに触れている。


心に。


記憶に。


そして――


もう、逃げ場はない。


第65話 終わり

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


Xでは『白猫フェルと森の薬師』のキャラクターイラストなどを投稿しています。

作品とあわせて楽しんでいただけたら嬉しいです。


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