第64話 水が写す記憶
王都アルディアの天空王船――
ルミナス・アルディア。
天空船は、雲の層を抜けていた。
白い世界から、ゆっくりと色が落ちていく。
下に広がるのは、深い青。
湖のようでいて、底が見えない。覗き込めば、引きずり込まれそうな色。
「……あれが、水の神殿……?」
リナが小さく呟く。
エリオスが頷いた。
「はい……水の神殿アクア・レヴァリエです」
風が重く、流れているのに沈むような感覚がする。
リナは胸に手を当てた。
「……なんだろ……これ……」
ざわり、と。
心の奥に触れてくる。
『気をつけろ』
フェルの声が低く響く。
『あれはただの水ではない』
『記憶を流し、心を削るものだ』
その言葉に、空気が静かに張り詰めた。
ルシエルは、何も言わずその青を見つめていた。
理由は分からない。けれど、胸がざわつく。
知っている気がするなのに、思い出せない。
やがてーー。
船は、小さな村の外れの湖に降り立った。
そしてーーリュミエル村へ。
そこは、音が少なく静かな場所だった。
人の気配も、どこか遠い。まるで感情が薄れているような空気。
レオンが短く言う。
「妙だな」
アルも頷く。
「生きてる感じが薄い」
リナは、その違和感の正体に気づきかけていた。
ここは、感情も、記憶もとどまらず“流れている”。
その時、リナの視線が止まった。
村の外れ、水の神殿へ続く道の前に、一人の少女が立っていた。
薄い桃色の長い髪。
小さな角。
そして、光のない瞳。
動かず、揺れることもなく、ただ神殿がある方を見つめている。
「……あの子……」
リナの声が自然と漏れ、胸が締めつけられる。
――この子は、“苦しんでいる”。
それが、分かってしまった。
その隣で、ルシエルの足が止まっていた。
ドクン、と心臓が鳴る。
理由は分からない。
でも――
「……イグニア……?」
自分でも驚くほど、自然に名前が零れた。
「……え?」
リナが振り向く。
ルシエルは戸惑う。
「……分からない……でも……」
足が引き寄せられるように、勝手に動いた。
「……イグニア」
もう一度、呼ぶ。
距離はすぐそこまで、手を伸ばせば届く。
少女が、ゆっくりと顔を向けた。
その瞳が、ルシエルを捉える。
ほんの一瞬だけ、何かが揺れた気がした。
「……っ……!」
だが、何もなかったかのように、それは消えた。
少女は視線を外し、再び神殿がある方角を見つめる。
「……なんで……」
ルシエルの手が、届かず空で止まる。
すぐそこにいるのに、あまりにも遠かった。
リナは、その光景を見ていた。
分かる。これは、距離の問題じゃない。
“心が閉じている”。
それも、自分では開けられないほど深く。
その時ーー。
「……その子に、何か感じたのですね」
やわらかな声が、後ろから届いた。
振り向く。
そこにいたのは、一人のシスターだった。
白い修道服を纏い、穏やかな微笑みを浮かべている。
だが、その奥に深い悲しみがあった。
「私は、エレノアと申します」
静かに一礼する。
その瞬間、ルシエルの胸が強く揺れた。
「……あ……」
懐かしい。
恋しい。
そんな感情が、一瞬だけ溢れる。だが思い出せない。
「……どこかで……」
言葉にしかけて、止まる。
エレノアは、ほんのわずかに目を伏せた。
そしてーー。
「……はじめまして」
やさしく、そう言った。
その声音の奥に、わずかな震えがあった。
だが誰も、気づかない。
リナが、一歩前に出る。
「この子……苦しんでるよね」
まっすぐに言う。
エレノアは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
視線をイグニアへ向ける。
その目は、深い慈しみに満ちている。
「この子は、記憶を失っています」
ルシエルの肩が揺れる。
「……それだけではありません」
静かに続ける。
「“生きる灯火”が……消えかけています」
空気が、重く沈む。
「……廃人、です」
その言葉が、静かに突き刺さる。
「……そんな……」
ルシエルの声が崩れる。
目の前にいるのに。
もう届かない。
「……どうして……」
問いが零れる。
だが――。
ルシエル自身の中にも、空白がある。
何があったのか、天空都市へ来る前の記憶が、思い出せない。
自分がどこから来たのか。
なぜ、こんなことになったのか。
「……分からない……」
その言葉が、自分を傷つける。
拳を握る。
リナは、イグニアを見つめていた。
そして、確信する。
この子は“助けを求めている”。
声も出せずに、ただ、そこに立っている。
「……助けなきゃ」
「でも……どうすれば」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
それでも、救いたい気持ちだけ強くなる。
エレノアが静かに言う。
「……ここでは、お話しできません」
顔を上げる。
「村へ来てください」
「すべて、お話しします」
その言葉の奥に、覚悟がある。だが、迷い隠しているものがある。
ルシエルは、もう一度だけ手を伸ばした。
触れない距離で、止める。
「……イグニア……」
届かなくても、小さく呟く。
そしてーー。
一行は、エレノアの先導で、村にある教会へと歩き出す。
その背後でーー。
水神殿アクア・レヴァリエが、静かに揺れた。
まるで――記憶を、覗き込むように。
深く。
静かに。
逃げ場のない流れが――。
すでに、始まっていた。
第64話 終わり
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