第53話 深淵に眠る流れ
風の神殿リベル・ヴェント――。
静寂が、重く沈んでいた。
やわらかな風が頬を撫でているのに、その奥だけが冷たい。
アルの腕の中で、エリオスは浅く息をしている。
リナは、すぐにポーチから薬瓶を取り出す。
「……大丈夫だよ」
薬瓶の蓋を取り、エリオスの肩の傷にかけた。
そして、
「……精霊よ、癒して……」
肩に手を当てる。
優しい光がエリオスを包む。
エリオスの顔がやわらいでいく。
「リナ、ありがとうございます……」
それでも、まだか細い声。
「まだ無理しちゃだめだよ……」
リナが小さく言う。
「……よかった……」
ルシエルがまだ震える。
それでも、エリオスのその瞳は消えていない。
「風が……まだ苦しんでいます」
リナが頷く。
「……うん。行こう」
その瞬間、床に黒い影が滲んだ。
ポタ……ポタ……
水のように落ちたそれは、触れた瞬間に歪む。
「何か来るぞ」
レオンの声と同時に、それは異形へと変わる。
空気が沈み、呼吸が浅くなる。
「っ……」
ルシエルの足が止まる。
「……っ……!」
槍を握る手が震える。
ーー怖い。
また、自分のせいで誰かが傷つくかもしれない。
「ルシエル!」
リナの声が叫ぶが、ルシエルに届かない。
ルシエルの視界が狭まくなっていく、その時だった。
「……構えろ」
レオンの低く鋭い声がする。
「考えるな。」
「身体が覚えているものを出せ」
続いてアル。
「逃げるなとは言わねぇ。でも」
アルが、少しだけルシエルを見た。
「次は、お前が守る番だよな」
息が止まる。
“守る”。
その言葉が胸に刺さる。
そして――。
『……思い出せ』
フェルの声。
『お前は気高きーー』
『竜の子』
その瞬間、胸の奥に小さな流れが生まれる。
一瞬だけ、ルシエルの瞳が蒼く光る。
それは、水ではなく――“深淵”の色。
「……僕は……」
「……っ……!」
何かを思い出しそうで、思い出せない。
「……でも……」
一歩、前へ。足が動く。
「もう……逃げたくない」
槍を構える。
もう震えていない。
黒い風を纏い、異形が迫る。
ルシエルは息を吸う。
感じる。
風じゃない――。
もっと深い、“水の流れ”。
そして、踏み込んだ瞬間、消えた。
速く、滑らかで逆らわない。
受けて、流し、槍が円を描く。
次の瞬間、異形が音もなく裂けた。
「……!」
アルが目を細める。
レオンの視線が鋭く光る。
ルシエルは止まらない。
流れる。避ける。返す。
その動きは――水そのもの。
「……すごい」
リナが息を呑む。
だが――。
ドクン…
…神殿の奥で、何かが脈打った。
空気が重く、深く一変する。
黒い流れが渦を巻き、巨大な影が持ち上がる。
濁った水と歪んだ風が絡みつく“本体”。
「……あれが」
エリオスが震える声で言う。
「風が……閉じ込められている……」
ズンッ――
圧が落ちる。
だが――
ルシエルだけが顔を上げていた。
「……違う」
一歩、踏み出す。
「押されてるんじゃない……引き込まれてる」
流れが、見えている。
「……戻せばいい」
フェルが小さく笑う。
『見えてきたか』
ルシエルは槍を握る。
「流れに逆らわない」
巨大な影に向かって、走り出した。
触手が迫る。
避けない。
受けて、流して、弾く。
水の動きで潜り込む。
巨大な影の核が、目の前で脈打つ。
ドクン……ドクン……。
手が止まりかける。
怖い。
その時――
「ルシエル」
リナの声がした。
「大丈夫。一人じゃない」
リナ。
「みんなが、ついてます」
エリオス。
「やれ。届く」
アル。
「迷うな」
レオン。
『それが、お前の力だ』
フェル。
ルシエルは目を閉じる。
流れる水を、感じる。
「……もう逃げない」
槍を、静かに突き出す。
「アクア・ピアース!」
槍の先が触れた瞬間、水が一点に集まり貫通した。
脈動が暴れ、黒が逆流する。
ドプンッ……!!
濁った水が弾け、中から透明な流れが溢れる。
風が、解放される。
核が崩壊する。
黒い巨体が、音もなく崩れていく。
そしてーー静寂が落ちた。
やがて、やわらかな風が神殿を満たしていく。
「……終わったのか」
「はい……今度こそ」
ルシエルはその場に立ち尽くす。
「……できた」
その肩に、リナの手。
「うん。すごかった」
胸の奥がほどける。
少しだけ、笑う。
だが――神殿の奥。
わずかに、ひんやりとした風が吹いてくる。
「……呼ばれています」
その声は、風ではなかった。
もっと深く――
“名を知る何か”だった。
第53話 終わり
ここまで読んでいただきありがとうございます!
少しでも続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。
次回もぜひ読んでいただけたら嬉しいです!




