第52話 自由な風
風の神殿リベル・ヴェント――。
神殿の中心、巨大な魔導陣の上では、幾重にも重なった風が激しく渦を巻いていた。
風はただ吹き荒れているのではない。
神殿の至るところから集められた気流が、何かに導かれるように一つの場所へ吸い寄せられている。
その中心にいるのは、エリオスだった。
短い髪が風に煽られ、衣服が激しくはためいている。
足元に刻まれた魔導陣は蒼白い光を放ち、その光さえも風に巻き込まれながら彼女の身体を包み込んでいた。
「……エリオス!」
リナが必死に手を伸ばす。
けれど、あと少しというところで見えない風の壁に押し返された。
「……っ!」
リナは踏ん張りながら、もう一度手を伸ばす。
それでも届かない。
まるで神殿そのものが、エリオスと他の者たちとの間に境界を作っているようだった。
「エリオス!」
もう一度呼ぶ。
けれど、声さえも風に飲み込まれていく。
アルが周囲を警戒しながら、低い声で呟いた。
「……違う」
レオンが視線をエリオスへ向ける。
「何がだ?」
「これは攻撃じゃない」
アルは荒れ狂う風を睨みつけた。
「もし殺すつもりなら、あんなふうに中心へ守るような風を集める必要はない」
レオンも黙って魔導陣を見つめる。
やがて、短く頷いた。
「……試練か」
その言葉に、フェルが静かに目を細めた。
『そうじゃ』
金色の瞳が、風の中心にいるエリオスを捉える。
『試されておる』
リナが息を呑む。
「試されてるって……何を?」
フェルは答えなかった。
ただ、風の向こうを見つめている。
その間にも、風はさらに強くなっていく。
エリオスの身体がわずかに浮かび上がった。
髪が持ち上がり、衣服が裂けそうなほど風圧を受ける。
ルシエルはその光景を、ただ呆然と見つめていた。
「……エリオス……」
その声は、風にかき消された。
そして――。
エリオスの意識が、ゆっくりと深い場所へ沈んでいった。
◆
暗かった。
湿った空気が肌にまとわりつき、冷たい石の匂いが鼻を刺す。
どこからか水滴の落ちる音がしている。
ぽたり。
ぽたり。
幼いエリオスは、冷たい床の上に座り込んでいた。
両手には鎖が繋がれている。
細い手首には擦れた傷がいくつも残り、乾いた血がこびりついていた。
けれど、もう痛みは感じなかった。
痛みを感じなくなるほど、長い時間が過ぎていた。
ここが世界のすべてだった。
暗い部屋。
冷たい石。
錆びた鉄の匂い。
そして、鎖。
それ以外のものを、幼いエリオスはほとんど知らなかった。
自分が何者なのか。
どこから来たのか。
なぜここにいるのか。
そんなことさえ、考えることをやめていた。
ただ、与えられた食事を食べ、眠り、また目を覚ます。
そんな日々を繰り返していた。
やがて、遠くから足音が聞こえてきた。
コツ。
コツ。
冷たい石の床を踏む音。
やがて鉄の扉が軋みながら開く。
「ほう……これが例の子か」
「風の適性があるらしい」
「それなら、売れば高くつくぞ」
男たちの声が響いた。
幼いエリオスは、顔を上げなかった。
自分の名前を呼ばれることはなかった。
「この子」や「商品」と呼ばれるだけだった。
人として見られていない。
それが当たり前になっていた。
男たちはエリオスを値踏みするように眺め、何かを話しながら笑っている。
その声を聞きながら、エリオスはただ膝を抱えていた。
何を言っているのか。
なぜ笑っているのか。
もう、どうでもよかった。
ここから出られるとは思っていなかった。
そんなある日――。
突然、地面が大きく揺れた。
「――何だ!?」
天井の向こうから、凄まじい轟音が響く。
次いで、悲鳴。
「魔物だ!」
「逃げろ!」
「早くしろ!」
複数の足音が重なり、やがて遠ざかっていく。
エリオスは顔を上げた。
何が起きているのか分からない。
ただ、いつもなら聞こえてくる男たちの声が消えていた。
静かだった。
それから――。
ドォンッ!!
鉄の扉が大きく歪んだ。
「……っ」
幼いエリオスが身体を縮める。
もう一度、衝撃が走った。
木が裂ける。
鉄が曲がる。
そして――。
暗闇の向こうから、巨大な影が現れた。
魔物だった。
赤く濁った瞳が、こちらを見つめている。
幼いエリオスは逃げようとした。
けれど、鎖が足を止める。
ガシャン、と音が響いた。
逃げられない。
魔物が一歩近づく。
その大きな爪が持ち上がる。
けれど――。
怖くなかった。
不思議なほど、怖くなかった。
もう、疲れていた。
「……」
エリオスは、ゆっくりと目を閉じた。
これで終わる。
そう思った。
もう、何も考えなくていい。
もう、痛い思いをしなくていい。
――やっと終われる。
そう思った瞬間だった。
一陣の風が、暗闇を切り裂いた。
ヒュンッ――!
鎖が鳴る。
空気が変わる。
魔物が振り返る。
「よかった」
誰かの声がした。
穏やかな声だった。
「間に合いました」
幼いエリオスは、ゆっくりと目を開いた。
目の前に、一人の男が立っていた。
風を纏っている。
長い外套が風に揺れ、その周囲には淡い緑色の魔力が渦巻いていた。
男が片手を掲げる。
次の瞬間――。
ズバッ!
風の刃が走った。
魔物の身体が吹き飛び、壁へ叩きつけられる。
幼いエリオスは、ただ呆然とその姿を見ていた。
男はすぐにエリオスへ歩み寄る。
そして、鎖へ手を伸ばした。
「こんなものを……」
その声には、怒りが混じっていた。
けれど、その怒りはエリオスへ向けられたものではない。
男の周囲に風が集まる。
次の瞬間、鎖が大きな音を立てて砕けた。
ガシャン――!
初めてだった。
両手が自由になった。
エリオスは、自分の手を見つめた。
指を動かしてみる。
動く。
鎖に縛られていた腕が、自由に動く。
その事実が、幼いエリオスには信じられなかった。
男がしゃがみ込み、エリオスと目線を合わせる。
「もう、大丈夫ですよ」
その言葉を聞いた瞬間――。
胸の奥で、何かが震えた。
今まで誰にも向けてもらえなかった眼差しだった。
優しい目。
怒っているのに、その怒りは自分を傷つけるためではない。
初めて、自分を一人の人間として見てくれる人に出会った。
男はエリオスをそっと抱き上げた。
身体が宙に浮く。
怖くない。
むしろ、不思議なほど安心した。
胸に触れた男の鼓動が聞こえる。
トクン。
トクン。
確かな音。
生きている。
自分も、この人も。
そんな当たり前のことを、初めて知った気がした。
男はエリオスを抱いたまま、崩れかけた建物の階段を駆け上がっていく。
暗闇が少しずつ薄くなる。
階段の先から、光が差し込んでいる。
眩しい。
エリオスは思わず目を細めた。
そして――。
光の中へ出た。
その瞬間、風が頬を撫でた。
幼いエリオスは、ゆっくりと目を開く。
そこに広がっていたのは、果てのない空だった。
どこまでも高い青空。
白い雲がゆっくりと流れている。
太陽の光が降り注ぎ、風が優しく頬を撫でていく。
冷たい石の匂いもしない。
鉄の匂いもしない。
鎖もない。
ただ、風がある。
やわらかく。
あたたかく。
自由に。
「……あったかい」
幼いエリオスの口から、自然と言葉が零れた。
男が微笑む。
「これが――自由な風です」
その言葉は、幼いエリオスの胸の奥へ深く沈んだ。
自由。
その意味を、エリオスはまだ知らなかった。
けれど――。
この風だけは、忘れたくないと思った。
その感覚は、消えることなく残った。
いつまでも。
ずっと。
◆
暗闇の底で、エリオスはゆっくりと顔を上げた。
目の前には、何もない。
ただ風だけが吹いている。
そして、声がした。
――何のために、風を使う?
エリオスは答えようとした。
「……守るため」
それは、ずっと信じてきた答えだった。
助けてくれた人がいた。
守ってくれた人がいた。
だから、自分も誰かを守る。
それが正しいと思っていた。
けれど――。
風が止まった。
ほんの一瞬。
世界から音が消える。
――それは、誰かから与えられた答えではないか?
エリオスの瞳が揺れた。
確かにそうだった。
「……」
グランディの姿が浮かぶ。
初めて自由を教えてくれた人。
初めて名前で呼んでくれた人。
何度も守ってくれた人。
そして、その後も多くの人に支えられてきた。
守られることを知った。
だから、自分も誰かを守りたいと思った。
けれど――。
それだけなのだろうか。
エリオスは、ゆっくりと目を閉じた。
記憶が流れていく。
守られていた自分。
誰かの背中に隠れていた自分。
そして――。
いつか、自分が誰かの前に立った瞬間。
誰かを守るために、自分の身体を動かした瞬間。
あの時、胸の中にあった感情。
それは義務ではなかった。
誰かに命じられたからでもない。
自分自身が、そうしたいと思った。
「……違う」
エリオスは、小さく首を振った。
「これは……私が選びました」
声は震えていた。
それでも、言葉ははっきりしていた。
「私は、誰かに言われたから守るんじゃない」
胸に手を当てる。
「私自身が……守りたいと思ったから」
風が、ほんの少し揺れた。
エリオスは深く息を吸い込む。
冷たい空気が胸の奥まで入り込む。
そして、その奥から風が満ちていく。
「私は――」
風が、ゆっくりと巻き起こる。
「風の賢者グランディ・シルフィードの娘」
その名を口にした瞬間、風が大きく震えた。
「エリオス・シルフィード」
自分の名を、確かに口にする。
そして――。
「私は……」
エリオスは前を見た。
そこに、自由な空が広がっている。
「決して止まない――」
風が、身体の周囲を駆け巡る。
「自由な風を、選ぶ!」
瞬間。
圧倒的な風圧が弾けた。
暗闇が光に包まれる。
風が一斉に吹き抜け、エリオスの身体を包み込む。
そして――。
現実へ引き戻された。
◆
「……っ!」
エリオスの瞳が開いた。
荒れ狂っていた風が、一瞬だけ静まる。
彼女の髪がゆっくりと落ちていく。
けれど、周囲の風は消えていなかった。
むしろ――。
まるでエリオスの意志を理解したかのように、寄り添うように流れている。
フェルが目を細めた。
『……過去を断ち切ったか』
エリオスはゆっくりと顔を上げた。
『縛られていたものを』
その声を聞きながら、エリオスは目を閉じた。
そして――。
「……はっきりと聞こえます」
その表情に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「風の声が」
風の音が変わった。
先ほどまで乱れていた気流が、一本の道を作るように神殿の奥へ向かって流れている。
エリオスはその先を見る。
今まで何もなかったように見えていた神殿の奥。
そこに、何かがある。
見えない。
けれど、確かに感じる。
神殿の核。
エリオスはゆっくりと一歩を踏み出した。
足元で風が渦を巻く。
その風が掌へ集まり、圧縮されていく。
淡い緑色の光が指先から漏れる。
「……そこです」
神殿の奥を見据える。
「あなたが、風を縛っている」
エリオスの身体から、風が一気に膨れ上がった。
負傷した肩から血が流れている。
それでも、彼女は止まらなかった。
「解き放ちます」
腕を大きく振り抜く。
「蒼嵐解放――」
風が集まる。
神殿全体が震える。
「リベルタス・テンペスト!!」
轟音が響いた。
次の瞬間、圧縮された風が一直線に走る。
ただの風ではない。
幾重にも重なった気流が一つの力へと収束し、空間そのものを裂きながら進んでいく。
風を裂き、風を超え、神殿の奥にある見えない核へ向かって一直線に突き進む。
――そして。
爆ぜた。
凄まじい光と風が同時に弾ける。
神殿を満たしていた風が一斉に解放され、閉じ込められていた気流が次々とほどけていく。
風の魔物たちも、身体を維持できなくなったように霧となって崩れていった。
荒れ狂っていた神殿が、深く息を吐く。
ゴォォ……。
それまで響いていた唸りが、少しずつ遠ざかっていく。
やがて――。
静寂が落ちた。
そして、柔らかな風が降りてきた。
誰かを傷つけるためではない。
頬を優しく撫で、髪を静かに揺らす。
まるで――。
「よくやった」と告げるような風だった。
その中心で、風の守護精霊がエリオスを見つめていた。
先ほどまでの冷たい瞳に、もう拒絶の色はない。
『……見事』
その声は静かだった。
けれど、そこには確かな承認があった。
『汝は、自らの意志で風を選んだ』
エリオスは静かに顔を上げる。
守護精霊が片手を差し出す。
『ならば、汝に与えよう』
周囲の風が一斉に集まった。
『風の加護を』
風がエリオスを包み込む。
淡い緑色の光が彼女の胸元へ集まり、やがて一つの紋章を形作った。
その紋章がゆっくりと光を強める。
そして――。
エリオスの身体へ溶け込んでいった。
「……っ」
身体の奥へ風が流れ込んでくる。
骨の中まで満たされるような感覚。
苦しくはない。
むしろ、ずっと探していたものが、ようやく自分の中へ帰ってきたようだった。
けれど――。
その直後。
「……あ」
エリオスの身体から力が抜けた。
視界が大きく傾く。
負傷した肩を酷使しすぎた。
限界だった。
「エリオス!」
リナが駆け出す。
けれど、その前に伸びた腕が彼女の身体を支えた。
「……ずいぶん、無茶したな」
アルだった。
低い声。
けれど、その腕はしっかりとエリオスを支えている。
エリオスはアルの肩へ身体を預けながら、かすかに笑った。
「……すみません」
呼吸は浅い。
肩の傷から血が流れている。
それでも、その瞳には確かな満足があった。
「でも……届きました」
アルは何も言わなかった。
ただ、エリオスを支える腕にほんの少し力を込める。
「……ああ」
それだけだった。
リナがすぐに駆け寄る。
「エリオス!」
「大丈夫です……」
そう答えようとするが、声にはほとんど力がない。
リナは傷を確認しながら、心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫じゃないよ。こんなに血が出てる」
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
リナは優しく笑った。
「よく頑張ったね」
その言葉に、エリオスは小さく目を閉じた。
「……はい」
その少し離れたところで、ルシエルが立っていた。
エリオスを見つめている。
何かを言いたい。
けれど、言葉が出てこない。
やがて、小さな足が一歩前へ出た。
一歩。
そして、また一歩。
ゆっくりとエリオスのそばへ近づいていく。
「あ、あの……」
エリオスが顔を上げる。
「はい?」
ルシエルは俯きながら、槍を握っていた手を離した。
「……守ってくれて」
声が震える。
「ありがとう……」
その一言に、エリオスの表情が柔らかくなる。
「どういたしまして」
そして、少しだけ笑った。
「もう、大丈夫ですよ」
その声を聞いた瞬間、ルシエルの胸の奥に、温かな風が吹いたような気がした。
守られることを知らなかった自分。
誰かを信じることも、信じてもらうこともできなかった自分。
けれど今は――。
誰かが自分を守ってくれた。
そして、自分もいつか誰かを守れるのかもしれない。
そんな小さな思いが、少年の胸の奥に芽生え始めていた。
レオンはその様子を黙って見守っていた。
やがて、神殿の奥へ視線を向ける。
フェルも同じ方向を見ていた。
『風の守護精霊の加護を継承したか……』
金色の瞳が細くなる。
その言葉に呼応するように、風が再び静かに流れ始めた。
先ほどまでの荒々しさはない。
穏やかで、柔らかい風だった。
戦いは終わった。
エリオスは風の加護を得た。
神殿も静けさを取り戻した。
――けれど。
神殿のさらに奥。
誰の目にも見えない場所で、風がほんのわずかに冷えた。
その冷たさは、一瞬だった。
けれど、確かにそこにあった。
まるで――。
この神殿で起きたことを、何者かが静かに見つめているかのように。
エリオスが手にした風の加護は、まだ始まりに過ぎない。
そして――。
嵐は、まだ終わっていなかった。
第52話 終わり
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