第5話 森を出る決意
エルダウッドの森ーー。
崩れていく魔獣の死体の前で、リナは目を丸くしている。
「私が、王都へ……?」
リナは思わず、その言葉を繰り返していた。
森の中で暮らしてきた少女にとって、王都という場所は遠い世界の話だった。
商人たちの噂や、旅人が語る物語の中にだけ存在する場所。
石造りの街。
高くそびえる城。
そして、無数の人が行き交う賑やかな通り。
そんな場所へ――自分が行く。
リナは、まだ想像もできずにいた。
「ああ」
レオンは静かにうなずいた。
「君の薬は、本物だ」
風が森の葉を揺らす。
木々の間からこぼれる光が、二人の足元にまだらな影を落としていた。
「昨日の薬草も……君が作ったんだろう?」
リナは小さくうなずく。
「うん……」
少しだけ照れくさかった。
自分にとって薬を作ることは、当たり前のことだったからだ。
森で薬草を摘み、煎じ、乾かし、調合する。
それは子どもの頃から続けてきた日常だった。
けれどレオンは、真剣な表情で言った。
「王都には優秀な薬師が多い」
少しだけ間を置き、続ける。
「それでも、君の力は必要になると思う」
リナは腕の中のフェルを見た。
白い毛並みが、柔らかな風に揺れている。
小さな猫は、まるで興味がないかのように大きなあくびをした。
「フェル……どう思う?」
問いかけると、
「ニャ」
短い鳴き声が返ってくる。
相変わらず気の抜けた声だった。
だが、その金色の瞳はどこか遠くを見ていた。
まるで、この森の奥にある何かを感じ取っているように。
レオンが続ける。
「もちろん、すぐに決める必要はない」
「ただ――」
そこで言葉が少し止まった。
「この森も、最近は安全とは言えない」
リナは顔を上げた。
「魔獣のこと?」
レオンは静かにうなずく。
「昨日の三匹だけじゃない」
「王都でも報告が増えている」
「森の奥から、魔獣が流れ出している」
リナの胸がざわついた。
この森は穏やかな場所だった。
精霊が眠り、薬草が育ち、風の音が優しく響く場所。
魔物は奥深い山にしか現れない。
それが普通だった。
「……変だよね。何か起きているのかな」
ぽつりと呟く。
その時、フェルの耳がぴくりと動く。
金色の瞳が、森の奥へ向いた。
「ニャ」
唸るような低い声。
さっきまでののんびりした鳴き声とは違う。
レオンも同時に気配を感じ取っていた。
騎士として鍛えられた感覚が告げている。
誰か来るーー。
ガサッ。
草を踏む音。
森の奥から、一人の男が姿を現した。
黒いローブ。
深く被ったフードのせいで顔は見えない。
リナの背筋が、ぞわりと寒気が走る。
ただならぬ気配。
静かで、禍々しい空気がまとわりつく。
レオンは即座に剣に手をかける。
「止まれ」
低く、警戒した声。
男は足を止めた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……なるほど」
かすれた声だった。
「噂は本当らしい」
レオンの目が鋭くなる。
「何の話だ」
男は答えない。
代わりに視線をリナへ向けた。
そして、腕の中の白猫を見る。
その瞬間、男の肩がわずかに震えた。
「……その白猫」
信じられないものを見るような声だった。
「まさか……」
フェルは黙って男を見ている。
金色の瞳。
静かな光。
男は一歩、後ろへ下がった。
「そんな馬鹿な……」
レオンが眉をひそめる。
「知っているのか?」
男は答えない。
まるで遠い昔の亡霊でも見たかのように、フェルを見つめている。
「あり得ない……」
男は呟く。
「千年前に消えたはずだ」
リナの目が丸くなる。
「え……?」
リナは思わずフェルを見た。
千年前ーー。
なぜそんな話が出てくるのか。
だか、フェルは何も答えない。
ただ静かに男を見つめていた。
金色の瞳は揺れない。
その沈黙が、かえって不気味だった。
男は低く笑った。
「なるほど」
「ならば試してみよう」
フェルは小さくため息をついた。
(……言うなと言ったのに)
もちろん、その声は誰にも聞こえない。
だが次の瞬間、男がゆっくりと手を掲げた。
ドン――。
地面が震える。
リナの身体がびくりと震えた。
森の奥から、重たい足音が響いてくる。
ドン……
ドン……
ドン……
そして――咆哮が森を揺らした。
「グォォォォォ!!」
木々の向こう側で鳥たちが一斉に飛び立った。
森がざわめく。
風が乱れる。
そして――巨大な何かが近づいてくる。
グォォォォォォォ!!
咆哮が森を揺らした。
黒い体。
燃えるような赤い瞳。
鋭く伸びた牙。
昨日の魔獣とは比較にならない威圧感。
立っているだけで空気が重い。
レオンの表情が変わった。
「……上位魔獣」
剣が静かに抜かれる。
男は楽しそうに笑った。
「見せてもらおう」
「精霊に愛された薬師が何を成すのか」
その言葉にリナの肩が震えた。
なぜ自分を知っている。
なぜ狙う。
分からない。
フェルは小さくため息をついた。
『面倒なのが来たな』
誰にも聞こえない声。
その瞬間だった。
上位魔獣の赤い瞳がフェルを捉える。
そして――動きが止まった。
まるで本能が何かを恐れたかのように。
レオンが目を細める。
男の笑みが消える。
リナだけが状況を理解できない。
だが次の瞬間、上位魔獣は咆哮を上げた。
グォォォォォォォ!!
恐怖を振り払うように地面を蹴る。
そして、リナに向かって一直線に、巨体が弾丸のように突進する。
「リナ!!」
レオンが叫ぶ。
フェルの金色の瞳が細められた。
そして世界が、一瞬だけ静止したように見えた。
だが――。
白猫はゆっくりと尻尾を揺らす。
そして、フェルは迫り来る上位魔獣を見上げた。
金色の瞳が静かに細められる。
『……仕方ない』
誰にも聞こえない声。
『少しだけ、本気を出すか』
上位魔獣が咆哮を上げる。
だが、フェルの瞳を見た魔獣の動きが、再びわずかに止めた。
まるでーー。
本能が思い出したかのように。
そしてーー。
それが、決して逆らってはならない存在だということを。
第5話 終わり
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